おたくの歴史

おたくの考え方を歴史から探る

おたくと価値観

まず「おたく」という概念の発生について考えることにする。ここで考える「おたく」とは、今現在もっとも広い意味で使われている意味である。アニメや美少女イラストややおいだけではなく、「鉄道おたく」「自動車おたく」まで含めた意味で考える。

言葉で書けば、「どうでもいいことに一生懸命になる」のがおたくだとまず定義する。

おたくとは何か

おたくとは何か。実はおたくにもいろいろあるわけだが、共通する精神は「どうでもいいことに夢中になる」である。より的確に言うと、世の中で言う、成人ならこうするべきだという社会規範の否定である。「いい大人なんだからマンガなんて読むのはやめて就職して結婚して子供を産んでマイホームを買いなさい」という世間の圧力の否定である。世間がこの筋書き(就職や結婚や育児など)以外のものをどうでもいいことであると決めつけるのに対して、「そんなことはない」と否定するのがおたくである。むしろ、就職や結婚なんかよりマンガの方が大事だと主張する。

つまり、おたくは世間に対するアンチテーゼなわけだ。だからおたくは世間からは気味悪い存在と見なされる。「おたくは気味悪い」というのは定義である。逆に言えば、世間ではどうでもいいと思われること、意味のないこと、そんな事に夢中になるのは精神異常者じゃないかと思われるようなことに夢中になるのが「おたく」の定義なのである。

おたくは自分のしているそれが世間から否定されることはわかっている。むしろ、自分でもあまり誉められない行為だと思っている。それでもやる、あるいはそれだからこそやるのがおたくである。世間の価値観を無視して自分の好きなことをやるのは、自分の中に一本スジが通っている証拠である。

例えば、おたくを「臭い」とか「もっと服装に気をつけろ」と注意するのは無駄である。彼らにとって、ブランドものでビシッときめた服装こそ最も格好悪いものだからだ。なぜなら、そんな下らないものをありがたがっているからだ。世間の目などというものを気にしているからである。「誰に何と思われようと自分の信念を貫き通し自分の思った道を行く」のが格好いいのである。単に面倒なだけではなく、面倒なことはしないということを積極的に肯定する。本当は「面倒なことは断固としてしない」というのは想像するより大変だ。誰かに指摘されるたびに頑固に拒否するより、身ぎれいな格好をする方がずっと簡単なのである。しかし彼らはそうしない。わざとしないのである。

おたくは「欲望に忠実に生きる」がモットーである。これは妻や子を犠牲にして会社に尽した挙句にリストラされるオヤジどもへの反論だ。自分の人生は自分で決めよ。自分が正しいと思ったことは周囲の圧力に負けずに正しいと言え。自分の好きなことを勝手にやるのに誰にも文句は言わせない。そして自分でやる価値が見出せないことは頑固に拒否する。それがおたくの心意気である。

おたくの誤解

なお、おたくに対して世間が少し勘違いをしていることがいくつかある。まずは「おたくはある狭い一つの分野以外を評価しない」という誤解である。おたくの多くは多趣味である。これは一般人が買物やデートや付き合いにつぎ込む時間をすべて趣味につぎ込んでいるからである。中には本当に一つの狭い分野に精力を集中する人もいるが。

おたくは自分に正直な人間なので、面白い映画を見たらちゃんと面白いと言うし、キレイな娘を見たらキレイだと言う。ただその評価基準は一般人の感覚を無視しているため少々奇妙かもしれない。もう一つあえて言うなら、おたくは自分の趣味以外のことを評価しないのではなく、自分の趣味以外のことは評価しようとしないのである。面白い映画を見たらそう評価するが、そもそも映画を見に行かないだけである。おたくは「暇だから映画でも見に行こうか」とは思わない。おたくには暇さえあれば趣味につぎ込むので、暇が存在しないのである。

普通の人が趣味だと言っているものは、おたくにしてみれば趣味の域には到達していない。趣味というものは生易しいものではなく、全身全霊をかけて打ち込むものである。そんな趣味をいくつも持てるはずがない。おたくは面白いことには思いの他敏感だ(面白さの定義が若干ずれていることはあるが)。いろんなことに価値を見い出すが、自分ですべて手をつけている暇がないだけのことだ。

もう一つ、おたくはあまり外へ出ないというのも間違いである。おたくは遠征好きである。イベントがあればとんでもなく遠くにまで遠征する。これもまた趣味に遠慮がないからである。ただ、趣味以外のところには行こうとしないから、それをもって「外へ出ない」と思われるということはあり得る。おたくが人付き合いが良くないように見えるのも、あまりしゃべらないのも内気かどうかとは関係ない。彼らにとってしゃべる相手だと見なされていないだけである。

おたくが一般人から嫌われるのは、おたくが一般人に好かれようとしないからである。つまり彼らは何もしていないという意味で一番自然な姿である。普通の人がおたくより好ましく見えるのは、普通の人がそう見えるよう努力しているからだ。何も努力しなければああなるのである。そしておたくは努力する必要がないので努力しない。

おたくは自分に興味のある話題になると必死になって人に伝えようとすると思われているが、これも少しずれている。実際には、自分の好きなものの話題だけ喜んでしゃべるのではなく、自分の好きでないものの話題ではしゃべらないようにしているだけだ。彼らには相手に迎合するという概念がないので、相づちという概念も付き合いという概念も存在しない。自分に興味のない話題についてしゃべるのが不思議でならない。だから、相手が自分に興味のある話題を振ったときには、それがちょっとした会話のきっかけ程度に振ったのではなく、相手がそのことについて本気で知りたいのだと思ってしまう。そして、本気で知りたいのでなければ黙ってればいいのにと思う。もちろん彼らは沈黙が続いてもちっとも苦にならない。

つまり、おたくはエネルギーを普通向けるべき方面に向けないで別のところに向けているだけで、エネルギーがないわけではまったくないのだ。その行動ははじめて見ると違和感を感じるかもしれないが、合理的に考えれば容易に理解できる。どちらかというとおたくより普通の人の方が行動原理が複雑で理解するのが難しい。

自虐的価値観

おたくは多分に自虐的なところがある。ダメな自分を隠さずに堂々と「オレはダメ人間だ」と言う、これがおたくのカミングアウトである。よく「人前で恥ずかしい紙袋を提げる」とか「皆の見ている前で恥ずかしい店に行く」というような行為で表現される。これはカウンターカルチャーの特徴である。世間から白い目で見られる行為だからこそカミングアウトに意味があるのだ。

おたくのカミングアウトは世間に対する批判も含む。「○○に夢中になる人は世間ではダメ人間だと呼ばれるだろうけど、それは世間がちっともわかっていないからだ」というのだ。そして今度は「○○がこんなに評価されていないのはおかしい。もっと世間的に評価されてしかるべきだ」と言い出す。かといって世間の評価が高まると高まったでまた文句を言う。世間では評価されないものを自分は評価したい。世の中のファンページの多くはこんな感じだ。

B級(C級)映画愛好家やクソゲー愛好家、トンデモ本なども同じだ。対象がダメなことはわかっているけど、ダメだからこそ好きなのだ。一般には価値がないと思われていて、自分でさえ客観的に見てそう思うからこそいい。この微妙な感情がわかるようになるとおたくの仲間入りである。

昨今よくキーワードとして語られる「萌え」も(少なくとも当初は)この文脈に沿っていた。萌えの対象はどちらかというとネガティブなキャラに向けられていた。天然ボケだったり、無表情だったり、不幸だったり、眼鏡だったりである。あるいはセックスアピールにはなり得ないどうでもよいものが対象だったり、普通に考えたら異常だと思われるようなことだったりする。主人公級の快活でいかにもモテそうなキャラはかえって人気がない[1]。ダメだからこそ良いというおたくの自己矛盾的な価値観がここにもある。

客観を否定し主観を肯定する。客観的にはどうやっても肯定できそうもないことを主観だけで肯定する。結局のところ、人の好みは主観的なものだ。人の好みに理由はいらないのであり、好みを強制することもできない。おたくは自分の感情を一番素直に見つめ、そして大事にする人々である。

「自虐的」というのは、その前に流行っていた「なんでも人のせいにする」風潮の反省である。自分のことを自分でよく考えてみようという態度である。

おたくの普遍化

言葉の定義上忌み嫌われてきたおたくだが、今ではおたく趣味は肯定されるようになってしまった。鉄道おたくや自動車おたくなどはもう普通の趣味になってしまったし、アニメやゲームも容認されつつある。おたくは「世間から白い目で見られる」というのが定義に入っているものなのだから、おたく論的には大変なことだ。

例えば「トリビアの泉」というおたく臭がプンプンとする番組が意外と普通の人達にウケてたりする。この番組では冒頭で「ムダ知識」を強調しする。「お前らムダ知識はいらないと思ってるだろうが、ムダ知識でも面白ければいいんだよ」と主張する。しかし視聴者のなかでムダ知識であることをマイナスに取る人はどのくらいいるだろう。よくよく考えてみれば、テレビなんてどの番組もほとんどムダ知識じゃないか。ためになることを求めている人はテレビではなくインターネットを使うだろう。「ムダ知識はいらない」という前提がなくなってしまったのだ(言葉の定義からすればそうなんだが)。

個々の趣味が容認されるのではなく、おたく的考え方そのものが容認されつつある。どうでもいいことに一生懸命になるのは悪いことではないという考え方が世間にも広まった。「日本人総おたく化」とは言えないまでも、少なくともおたくは忌み嫌われるようなものではなくなった。

これはおたくのアイデンティティを失う危機だ。しかし筋金入りの本物のおたくはまったく動じなかった。筋金の入ってないおたくは自分と世間との距離を気にするが、本物のおたくにとって他人の評価などどうでもよいのだ。別に世間に認められなかったからといってどうってことはないし、逆に認められたからといってどうってこともない。

そして、バッシングは普通のおたくではなく美少女アニメやBL本などの性的なものに主に向けられるようになった。これはおたくの言葉の定義が変わったのではなく、単に世間の異常さの度合が変わっただけだ。下らないことに熱中するのも幼稚な趣味を持つのも異常ではなくなったが、性的なことは以前として異常だと思われているからだ。昔は「いい大人がグリコのおまけを集めている」のも「いい大人が毎日幼稚園の女の子の写真を撮りに行く」のも両方とも恥ずかしいこととされた。今では後者は以前恥ずかしいこととされているが、前者は恥ずかしくないこととされるようになった。この違いである。

おたくの勝利

まとめよう。おたくとは既存の価値観を否定し、客観的な価値を否定し、自分の主観的な価値のみを肯定する人のことだ。他人にどう言われようと自分の思った道を進む人のことだ。そして、一般的にはどうでもいいこと、ダメなこと、価値のないことと思われていることに価値を見出す。価値に絶対的な尺度はなく、自分が良いと思ったものが良いのだ。

昔はいろんなおたくがみな忌み嫌われていたが、だんだん世の中すべてがおたく的な考え方を容認するようになった。その人自体は何も変わらないのに、単におたくがおたくと呼ばれなくなったのである。そして、おたくという言葉の対象は今でも忌み嫌われているもの、つまり性的なものへと変化した。

本来の意味でのおたくという言葉は滅びかかっている。おたくが滅びるのではなく、全員おたくになってしまったのだ。昔盛んに議論されて一時期忘れ去られていたこのキーワードが今になってまた論じられるのは、おたくの概念があまりにも普通のものになりすぎたせいでかえって意味が把握できなくなったからである。昔は異質だったものが今では普通になってしまったせいで、なぜおたくが嫌われたのかが理解できなくなってしまったのだ。


  1. 今では、こういうキャラが人気がないからこそかえっていいんだ、などという反対の反対まで登場してややこしいことになっているが。 ↩︎