大人の壁

フリーターとニートの違い

子供と大人の壁がなくなったせいで、子供がかわいそうなことになっている。

ちょっと前までは、「子供のような」というのは褒め言葉だった。もうちょっと格好良く言えば「少年のような心を持った」という形容だ。ところが今では、そういう人は「厨房」と呼ばれて蔑まれる。「子供っぽい」事が、良い事ではなく悪い事として扱われるようになってしまった。

子供っぽい事が「悪い事」とされるせいで、子供は急いで子供時代を通り過ぎようとする。そのせいで、子供時代にやっておかなくてはならない重要なことをやらないまま、大人になってしまう。今の世の中では、子供である特権が無くなりつつあり、そのせいで落ち着いて子供時代を過ごせなくなってしまっている。


子供時代にやっておかなくてはならない重要なことがある。問題を恐れず何でもやってみることで、自分の可能性を開くことだ。しかし、「問題を恐れず何でもやってみる」には、ある程度の社会的な条件が必要だ。具体的に言えば、「問題を起こしても許してもらえる」という保証である。それがない社会で「問題を恐れるな」と言っても、それは無理というものだ。

大人は、子供が何をやらかしても「まあ子供だから」と許してあげなければならない。この寛容さが今の社会には失われている。しかし、それには理由がある。子供がやらかす問題行動が、「まあ子供だから」と許される範囲を越えてしまっているからだ。

例えば、昔なら、子供が泥棒をするというのは、せいぜい近所の庭の柿の実を勝手に取って食べるくらいだった。その程度なら、見つかったらオヤジにカミナリを落とされて、「もうしません」で済む。今の世の中で考えるなら、本屋でマンガを万引きするという行為も、子供達にとっては近所の庭の柿ドロボーと同程度だ。しかし、その行為の重みが全然違う。

もちろん、本屋に「マンガの万引きくらい許してやれ」と言うわけではない。これは世の中の変化だ。窃盗をしてもせいぜい説教されるくらいで許されるという対象が存在しなくなってしまった。子供たちは、ちょっと窃盗を試してみることもできなくなってしまったのである。

今の子供は、「悪事」を経験できぬまま、大人になってしまう。まあ、こんなことは以前から「今の子供はケンカ慣れしていない」みたいに言われてきたことなんだが。この事は、数十年前から徐々に進行してきている。


大人と子供の間にある大きな壁は、「自己責任」の壁である。大人は、自分のことは自分で決めて、その責任を自分でとる。しかし、子供は自分の行動に責任を持たなくてよい代わりに、行動が制限される。子供の代わりに親が責任をとることになる。

幼児は、シュレッダーに手を入れて指が切断されたとしても、「お前が望んでやったんだから自己責任だ」とは言われない。子供をちゃんと見ていなかった親の責任になる。その代わり、幼児はいくら自分が「シュレッダーに触らせろ」と思っても、触らせてはもらえない。

子供の時は、自分がやりたいと思う事が実は自分の不利益になるということがいくらでもある。子供は、何が本当に自分の利益になるのかを判断できないのだから、子供は自分がやりたいと思うことでも満足にやらせてはもらえない。子供のためになることは、親が考えてやらないといけない。

より正確に言えば、「やらせてもらえない」ではなく「やれないようになっている」という方が正しい。子供の世界というのは、子供が何をしでかしてもたいして困ったことにならないように、あまり大きなことは起きない世界でなくてはならない。子供の側もそれを理解して、子供の世界から逸脱しないようにしなくてはならない。

ある意味では、子供には自由がない。しかし別の意味では、子供はまったくの自由である。子供は、大人のように責任に縛られないまったくの自由を持っている。しかし、子供の世界を逸脱することは許されない。子供は、自分が子供であることを認識し、子供の世界にとどまる限り、どんな悪いことをしても「ごめんなさい」で済まされる。そういう気楽な世界で子供時代を送ることが重要なのである。

子供の世界に存在してはいけないのは、大きな力である。それが良いことか悪いことかということとは関係なく、大きな力は存在していてはいけない。ホウキや定規を使ってケンカするのはいいが、ナイフを持ち出してはいけない。ナイフは大きな力だから、子供の世界を逸脱しているのである。同様に、数十円や数百円は子供の世界だが、数百万円は子供の世界を逸脱している。高価なものは、自分で買うのではなく、親に買ってもらうようでなくてはならない。

子供の世界からの逸脱は、たとえそれが良いことであっても問題である。例えば、子供が会社を興して数千万円稼ぐ事は、その子の心身の健全な成長を考える上では決して良いことではない。


子供は無責任な存在であるというだけでなく、無責任な存在でなくてはならない。子供に責任を持つことを強要すると、「責任」という言葉の意味を勘違いしてしまう。

本来、子供のうちにした事はすべてを水に流してあげないといけない。子供には判断能力がなく、何が悪い事なのかがわからないからだ。子供のうちは誰しもバカげた失敗をするし、逆に失敗で学ぶようでなくてはならない。子供を見守る大人としては、「自分が悪かったということが分かればそれでいいんだ」と暖かく見守ってあげなくてはならない。

子供の頃にやった悪い事をまるで武勇伝のように言うのは、こういう前提があってのことである。子供の頃にやった事は、大人になった時点で既に水に流れてしまっている。だから、他人事のように「こういう悪いことをした」と言えるのである。しかし最近では、そういう前提を持っていない人がたまにいて、子供時代の悪事をまるで鬼の首をとったように責めたてる。かわいそうに、彼らは自分の子供時代に悪事を許されなかったのだ。

子供が、自分で「悪い事をすることは許されていない」と認識すると、大変困ったことになる。子供はもともと、何が悪い事なのかを判断する能力がない。だから、「悪い事をすることは許されていない」と感じると、何もできなくなってしまう。あるいは、悪い事ではないと明確に分かっていることだけをして、悪い事なのかどうかの判断に苦しむような事は初めからやらなくなってしまう。だから、微妙な問題について悪い事なのかどうかを判断する能力が育たない。難しい問題にトライせず、簡単な問題だけを解いて「自分には善悪の見分けくらい簡単につく」と思ってしまう。実際には、微妙な問題から逃げてしまっているだけなのに。

今の子供たちは、自分の行動が許される領域を越えてしまっているかどうかの判別がつかない。それは、できる行動の範囲が広がってきたのと、許される領域が狭まってきたのと両方に由来する。そのせいで、懸命に周りを見ながら、子供なりに細心の注意を払って、自分のいる場所から飛び出さないようにしている。こんな状況で、「のびのびと育つ」わけがない。


なぜこんな風になってしまったのか。それは、いつの間にか大人と子供の間にはさまった「若者」という世代への認識のギャップにある。

「若者」という世代が認識され始めたのは、せいぜい1960年代の終わりくらいからのことだ。それより前は、「若者」は存在せず、子供を卒業したらすぐに大人になった。子供を卒業して大人になるということはどういうことかというと、もはや親には頼らずに一人で生きていけるということだ。「若者」という言葉が発生した当初は、若者は大人の一部だった。たとえば、大学生は若者であり、大人である。大学生になったらもはや一人立ちしたものとみなされる。この考え方が、最近では薄くなってきてしまっている。

大学の入学式に親が出るのはカッコ悪いことである。なぜなら、大学に入るということは「大人になる」ということであり、大人は重要な式に親を引き連れたりはしないからだ。その証拠に、入学式の式辞には入学生に対して「もうお前たちは子供ではない」とか「大学生からは、自分で自分の行動を決める必要がある」という意味のメッセージがたいてい込められている。(まあ、大人になるとは20歳からだという説もあるのは確かだが)

「大学で学ぶ」ということは、高校までとは訳が違う。高校までは、親が「学校に行きなさい」と子供に強制するものだった。しかし、大学は自分から行きたいと思うものであり、それは誰にも強制されない。なぜなら、大学は大人の行くところ、つまり自分で自分の行動を決められる人が行くところだからである。

大人とは、親に頼らないということではない。「親に頼らなくてもやっていける」ということだ。大学生は、親に頼らなくてもやっていけるけれど、そこをあえて親に頼っているのである。いつ何時「もうお前の面倒は見てやらん」と言われて放り出されるかもしれないという覚悟を持って、親を頼るのだ。

それが、だんだん大人が子供っぽくなってきて、大人と子供の境が18歳(あるいは20歳)ではなくなってきた。上の世代は、若者は大人ではなくまだ子供であるという認識を持つようになってきて、大学生の成績が悪いと親が呼び出されるようなバカな事が起きるようになった。本来、大学生は成績が悪かろうが退学させられようが、親とは関係なく自分だけの問題だ。そう割り切ることが親にもできなくなってしまった。

大学生以上はもう大人なのだから、親は行動にあれこれと口出ししてはいけない。「落第しないように授業にきちんと出なさい」と相手に行動を強制するのではなく、「落第したら授業料はもう出してやらないぞ」と自分の行動を起こすようでなくてはならない。


若者が子供化したせいで、若者という世代の境が下がってきた。昔は大学生以上でなくては「若者」と呼ばなかったのが、今では高校生まで当たり前に「若者」と呼ばれるようになってきた。それがだんだん中学生や小学生にまでのびようとしている。

大学生と高校生の差が無くなってきている。そのせいで、大学生は高校生の延長のつもりでいて、逆に高校生はもう大学生と大差ないつもりでいる。大学生と高校生の間にあった大きな「大人の壁」が無くなってしまって、大学生と高校生が大差ないことになってしまうと、中学生までほとんど差がないことになってしまう。

そして、中学生くらいから既に、自分の都合のいいように解釈して自分はもう大人だと思ってしまう。実は、「自分はもう子供ではない」と思っている時点ではまだまだ子供で、「自分もまだまだ子供だなぁ」と思うようになって初めて子供から抜け出すのだが、子供にはそんなことはわからない。

彼らは、大人であるということの重い意味、あるいは責任という言葉の本当の意味を知らない。彼らは、子供であるという無知に加えて、自分が子供であるということを知らないという無知もかかえている。そして、今の世の中では、無知な子供でも簡単に子供の壁を乗り越えられてしまう。

子供が「自分をもう子供ではない」と思うこと自体は、今に始まったことではない。そう主張する子供を子供扱いしないことが、今の時代の大きな問題だ。子供はきちんと子供扱いするようでなくてはならない。子供扱いというのは、子供にとって悪い事ばかりではなく、良い事でもあるのだ。今の大人は子供に対して変にもの分かりが良くなってしまい、子供を大人扱いするようになってしまった。それは自分がまだ子供であるという意識の表れなのだが、そのせいで子供が勘違いをするようになってしまっている。


子供と大人の壁が無くなってしまったせいで、昔は明確だった「モラトリアム」の意味がはっきりしなくなってしまった。昔は、子供を卒業したらすぐ大人にされた。それを「子供を卒業したがまだ大人にはならない」と自分で決めるのが本来の「モラトリアム」である。しかし、今ではこの決定が自分でなされない。ここが大きな問題である。

本来、大学生は高校生とは切り離された存在でなくてはならない。「大学生になる」というのは自分の決定であり、そこで子供から大人になる。「大人になる」とは「自分の人生を自分で決める」ということだ。この「決める」というプロセスを経ないと、大人になれない。

今ではフリーターとニートは一緒くたにされるが、フリーターという言葉が出来たころのフリーターと、今のニートには厳然とした違いがある。フリーターは自分で「フリーターになる」と決断したのに対して、ニートは何の決断もしないままそうなってしまうものである。

昔は、「フリーターになる」と言われると親からも先生からも猛反対され、嫌でも何らかの就職先をあてがわれることになった。だから、それを乗り越えてフリーターになるには相当の気力が必要だった。惰性で生きているような人間はそもそもフリーターにはなれず、強制的に割り当てられたどこかの企業に就職せざるを得なかった。しかし、就職したい人でもろくに就職できない時代になって、そんな悠長なことは言っていられなくなった。「ニートになりたい」などと言うバカな子供に長々と説教をせず、「本人の意思を尊重する」と言って単に放置するようになってしまった。

本来なら、高校を卒業した時点、あるいは成人になった時点で、自分の人生を決断しなくてはならない。これは、「決断を先延ばしにする」という決断も含む。どんな決断をしたにせよ、これは人のせいにはできない最初の決断だ。しかし今では、決断を要求されないせいで、「決断を先延ばしにする」という決断もしないようになってしまった。

そのせいで、ニートには自己責任の意識が希薄である。自己責任の意識とは、自分がニートになったのは誰のせいでもなく、自分のせいだという認識である。ニートにこの認識がないのは正しい。実際に自分のせいではないのだから。自分で「なる」と決めたものではなく、何もしないでいたら自然にそうなってしまったのだから、自分のせいではないのだ。

ニート問題は精神的な問題か社会的な問題かでときおり論争が起きるが、実際はその両方だ。精神的な問題でもあり、社会的な問題でもある。ニートになってしまうメカニズムそのものは精神的な問題だが、それは本人の自己責任で終わらせられるような問題ではない。なぜなら、ニートは子供であり、自己責任を持てない存在だからだ。子供をまっとうな大人に育てるのは社会の責任である。だから、これは本人の精神的な問題であると同時に、社会の問題なのである。


子供と大人の境界線がぼやけてきているせいで、子供が「大人になった」という意識をなかなか持てないでいる。それは、子供と大人の間にはさまった「若者」という世代の意識が変化しているからだ。

ちょっと前までは、若者は大人の一部だった。若者とは「金はないけど暇だけはたっぷりある大人」だった。それが若者文化を産み出し、大きな力となった。しかしそのうち、まだ大人になっていない人まで「若者」と呼ぶようになった。若者文化の担い手が昔は大学生だったのが、今では小中学生までかかわるようになってしまった。

子供に大人が振り回されるのは、決していいことではない。これは、子供が大きな力を持つということだからだ。子供は大きな力を持つべきではないし、大人に対して影響力を持つべきでもない。なぜなら、力や影響力には責任がついて回るからだ。子供には責任を持つ能力がないから、力や影響力を持ってはいけないのだ。

大人は、子供が望むことをしてあげてはいけない。子供にとって望ましいことをしてあげないといけない。子供はバカだから、本当は自分にとって望ましくないことを望む可能性が高い。だから、大人は子供の言うことを聞かず、大人の判断で事を進めるべきだ。子供の言うことは聞いてもらえないということが、「子供には力や影響力がない」ということである。子供の立場から言うと、これは自分の判断がたとえ間違っていたとしても親がちゃんと見ていて正してくれるという安心感でもある。だからこそ、安心して羽目を外せるのである。

昔は、子供は大人の社会から隔絶された所にいた。子供の世界と大人の世界は交わらなかったから、子供は安心して子供の世界にいられたし、大人は子供の世界の事は寛容になることができた。しかし、子供の世界と大人の世界がだんだん交わってきて、子供でも社会を揺るがす大きな事ができるようになってくると、子供に対して「何をやってもいい」とは言えなくなってしまう。

本来、子供はまず単純な「子供の世界」で社会の基礎を学ぶべきだ。しかし、今の子供は最初から複雑な世界に放り込まれてしまう。そうすると、子供は身動きが取れなくなってしまうか、あるいは複雑な世界を勝手に単純化してしまってムチャをするか、どちらかになってしまう。

子供は、現実世界から適切に隔離してやらなくてはならない。それは、社会が変化してきた今だから必要なことではない。昔の人は、「ここは子供の来るところじゃない」と言って、子供たちをきちんと隔離していた。大人が、子供を守ることを忘れてしまったのだ。


結論。大人は、子供をちゃんと子供扱いしろ。そして、子供が大人になったら、自分の行為には自分で責任をとらせろ。