過剰な情報の弊害

視野は広すぎても良くない。

今回は、情報が過剰になってしまった現代では、子供が苦労するという話。

インターネットが発達して、誰もが同じように情報を取得できるようになった。これは良い事も多い反面、悪影響もある。子供たちが、そうした情報の海にのまれてしまうという弊害が、このところ目立つようになってきた。

子供へのインターネットの規制というと、ポルノや残虐表現ばかりが論議されるが、もっと根本的な問題がある。「悪い情報から守る」だけではなく、それが悪い情報でなくても、そこから守らなければならない。悪い情報があることが問題なのではなく、情報が彼らの処理能力を越えてあふれていることが問題なのだ。


インターネットでどんな情報も同じように取得できるようになると、子供たちは戸惑う。本来、それぞれの情報には対応する前提や理解レベルがあるのだが、インターネットはそれらを無視して、どんな情報でも与えてしまうからだ。

小学1年生の子供が、算数の教科書を開いて、足し算を学ぼうとしたとする。その時、「1+1=2」と書いてある横に、クリプキのプラスとクワスの話とか、2進法の加算回路なんかがいろいろと書いてあったらどうなる。小学生は、内容が良くわからないまま、1+1=1とか1+1=10とかいう変な答を暗記してしまう。

誰かが何かを質問するとすぐ「Googleで調べろ」と言う人もいる。まあ、Googleでは電卓機能があるから正しい答えが出るのだが、試しに電卓機能ではなくウェブ検索で"1+1="を検索してみてほしい(全角文字で検索すること)。私が検索した時には、トップに出てくる10件の検索結果の中から、1+1=の答えにあたる部分を抜き出すと、次のようになった。なんと、1+1=2であるという答えは圧倒的な少数派である。(なお、このランクは頻繁に変わるようだ。)

答え件数
1+1=21件
1+1=01件
1+1=11件
1+1=32件
1+1=101件
1+1=411件
1+1=田2件
1+1=2にはならない1件

もちろん、本気で皆1+1=2じゃないと思っているわけではない。1+1=2というのは当たり前すぎて、誰もわざわざ書こうとは思わないだけだ。ここに、ネットの落とし穴がある。当たり前の情報ほど書かれず、当たり前でない情報ほど目立つ。当たり前の情報ほど、ネットで検索すると違う答が出てくる。

インターネットがなかった昔も、どこかの本には1+1=3とか1+1=10とか書いてあった。しかし、当時は、難しそうな本にしかそういうことを書いてなかったから、それを子供が手に取る心配はなかった。子供が手に取る本には、1+1=2としか書いてなかった。しかし今では、Googleが要約をして10件並べて表示してくれる。そのページの中身がどれだけ複雑で難しいものだったとしても、んなことはおかまいなしに。子供は、結論のごく一部だけを切り取ったものを見て、それが結論のすべてだと思ってしまう。


子供たちが、基礎をしっかり学ぶ前に応用に触れてしまうせいで、「正しさ」という概念を持てなくなってしまう。平然と「正しさなどない」と言い放ち、それに疑問を持たなくなってしまう。

例えば、昔の子供に「地球は丸いんだぞ」と言うと、きっと「そんなの嘘だ」と言われるだろう。だって、地球が丸かったら、地球の裏側の人は地球から下に落っこちてしまうじゃないか。子供がそう考えるのは、ある意味正しい。子供の持っている少ない知識を総動員すれば、「地球は丸くない」という答えになってしかるべきなのだ。

しかし、今の子供は、地球が丸いということをあらかじめ教えられ、地球の写真を何度となく見せられるせいで、それに疑問を持たなくなってしまう。はたして、「地球が丸い」ということを知っている子供と、「地球は丸くない」という答えを出す子供と、どちらが頭がいいのか。前者は、知識は持っているが、全然考えていない。本当に考えているのは、後者である。「地球は丸い」と答える子供には、「じゃあなんで地球の裏側の人は落っこちないんだ?」と質問すべきだ。これにきちんと答えられない子供に「地球は丸い」と堂々と言わせておいてはいけない。

相互に矛盾するはずの情報を「正しい情報」として受け入れることに慣れてしまった子供たちは、自分で考える力を無くしてしまう。自分が持っている情報を相互につないで考えることができなくなってしまうのだ。情報同士をつなぐことを覚える前に、バラバラでしかも互いに矛盾する情報が処理不可能なほど入ってくるからだ。そのせいで、情報同士をつないだり自分で推測したりすることを放棄して、正しさの根拠を外部に依存してしまう。

正しさの根拠を自分の中に構築することができず、外に求めるようになると、正しさなどどうでもよくなってしまう。情報の出所も、その根拠も自分の外にあるのだ。平たく言えば、情報自体も、その根拠もインターネットで検索するようになると、覚えておかなくてはならない事は何一つ無くなってしまう。すべてのものは「よこせ」と要求するだけで良い、と考えるようになってしまう。


子供たちの思考から、「前提」が抜け落ちてしまっている。結論は一言で言えるが、その結論は複雑な前提を踏まえての話である。それが、前提が抜け落ちてしまって、結論の一言だけが一人歩きしてしまう。

情報が細切れになって、その一部だけが一人歩きするようになると、前提が抜けてしまう。ウェブはその典型だ。途中からいきなり読み始めることができてしまうし、検索が当たり前になっている今ではそっちの方が普通になってしまっている。。本だって途中から読み始めることができると思うかもしれないが、本ではまず目次を読むし、本の厚さやページの個所から、自分が今読んでいるのが全体の中のどのくらいの位置にあるものなのかを知ることができる。ウェブページにはそれがない。

結論だけを知りたいと思う人、そして結論だけを知って満足してしまう人が増えてきた。そういう人は、よく「1行に要約してくれ」などと言い、ひどい人になると、要約していないと読む気にならないと言う。そんなことを主張するのはバカの証拠であるということに気がついていない時点で、大きな問題だ。結論なんてものは、本来はたいして意味がないものである。その前提を知ることの方が重要である。そして、膨大な前提を自分で要約する過程が重要なのであって、他人が要約したものを読んでも何の意味もない。

ここにインターネットの「情報は必ずしも正しいとは限らない」という性質が加わると、絶望的なことになる。それぞれの人は、結論の一文だけを読んで、それが正しいかどうかを判断することになる。その結論に至る前提を知らないまま結論の文の真偽を判定することになるわけだから、自分の持っている前提を元に判断することになる。結局、自分の持っている前提に合致した結論は「正しい」、合致しない結論は「間違っている」と判断することになる。

つまり、インターネットを使って結論だけを知ろうとする人は、自分が既に知っていることしか知ることができない。自分が知らない事を「間違っている事」あるいは「どうでもいい事」に分類して、放り投げてしまう。知らない事について、自分で調べようとしない。だから、どうでもいい情報は増えるが、必要な知識はいつまでたっても増えないのである。


インターネットによって、世界が平らになった。すべての人が、すべての知識が、同列に並ぶようになった。これは良い事でもあり、悪い事でもある。

知識の優先順位を考えることができない子供たちにとって、これは良くない出来事だ。本来、知識というのはすべてが同列ではないのだ。基礎があって、それに対して応用がある。そういう階層で成り立っている知識の構造がぶち壊されているところが問題である。

具体的に言えば、今の子供たちは、それぞれの知識に序列があることを理解できていない。「物は下に落ちる」と「物は地球の中心に落ちる」が同列だと思ってしまっている。実際には、前者がレベル1で、後者がレベル2だ。レベル1を理解できないと、レベル2を理解することはできない。

「知識のレベル」とは、理論の発達の過程でもある。レベル2の知識は、レベル1の知識の否定ではない。レベル2の知識は、レベル1を知識をすべて含んで、さらにそれ自体の発展的な知識を含んでいるものである。しかし、知識が階層構造であるという意識がないと、「物は下に落ちる」と「物は地球の中心に落ちる」がお互いに並立するものだと思ってしまう。

さらに、子供たちは前述の「結論は前提があってはじめて成り立つ」という言葉も、その結論だけを抜き出して覚えてしまっている。「物は下に落ちる」という結論に対応する前提1と、「物は地球の中心に落ちる」という結論に対応する前提2が存在し、それぞれの結論はそれぞれの前提でしか通用しないと考えてしまっている。前提1と前提2が具体的に何かということまでは考えないから、前提2は前提1をすべて含んで、さらに深い内容なのだということに気がつかない。

子供は、とかく背伸びをしたがるものである。自分がたとえレベル1であっても、レベル2の知識をよく理解もせずに暗記して、友達に自慢する。それ自体は昔からよくあることだ。しかし、後になってそのレベルの知識を理解できるようになった時、「ああ、あの時の自分はバカだったなぁ」と思うことがあるだろう。しかし、常に自分より高いレベルの知識を暗記して友達に自慢し続けていたらどうなるだろう。理解することがなければ、自分のやっていることは実は理解ではなかったのだということを知ることもできない。


当然のことながら、ウェブには、利点と欠点がある。利点をうまく利用し、欠点はできるだけ補いながら使えばいい話だ。しかし、それは、そういう能力のある人が使うなら、という限定の上での話である。

簡単に言えば、ウェブはパワーがありすぎるのだ。右も左もわからない子供がいきなりありあまる力を持つと、ロクなことがない。子供にはまず子供向けの毒にも薬にもならない場所で十分に慣れさせてから、徐々に力のある道具を使うようにさせなくてはならない。

昔は、いかに情報を取得するかを考え、努力した。それに対して、今の子供は、いかに情報を選別するかを考えている。情報は無くて困るものではなく、あり過ぎて困るものになった。情報を追いかけるだけでいくら時間があっても足りないようになってしまったため、子供は多すぎる情報に対してパニックを起こし、情報をシャットアウトすることを学ぶようになってしまっている。

その結果として、子供たちにとって知識の価値が低くなってしまっている。「知らないこと」に対する抵抗感がない。「そんな事も知らないのか」と言われても恥ずかしいと思わず、逆に「知らなくて当然」と開き直る。これが、知ることに対する意欲の差となって現われてきている。「知りたい」と思うことがなく、逆に「知らなくてもいい」とか「結局正解なんてないのだ」と言ってごまかし続ける。こんな態度を続けていたらどうなるかは目に見えている。

これこそが、本当の「知的格差」である。