性の低年齢化

子供には恋愛はまだ早い。

性の低年齢化が進んでいる。18歳未満お断りと言いながら、実際には全然守られていない。いや、昔からそういうのは守られていないのだが、本当に重要なのは、そういうものを子供に見せないことではない。子供に、まだ見てはいけないものだと思わせることにある。いや、自分にはまだ関係のないものだと思わせることが重要である。

恋愛なんて、大人になってからすればいいのだ。それが、今では性の低年齢化が進み、子供のうちにやっておかないと乗り遅れるのではないかという危機感がある。それがさらに低年齢化を加速させる。この悪循環に陥っているのが問題なのである。


今の時代の性に対する考え方は、少なくとも自分たちの時代のそれとはかけ離れていることを感じる。子供にとって、特に男にとっては、性の問題なんてそんなに重要事じゃなかったよなぁ、と思うのだ。

男子はまだ思春期前だったりして、あまり女子なんてものを意識してはいない。それに対して、女子の方は既にそういった意味では進んでいて、「Aくんは私のことをどう思っているのかな」などと悩む。その頃、当のAくんは「今日の給食の献立は何かなぁ」くらいしか考えていなかったりする。

そういうわけで、実は、ギャルゲーのシチュエーションはそれなりに真実だったりする。男の方はあまり恋愛という意識がなく、女の方が積極的にアタックをかけて、相手のあまりの鈍さに憤慨したりする。男というのは恋愛に対してとても鈍いものなのである。

本来、男の子というものは、女の子を追いかけるより、白球を追いかけていた方が楽しい生き物なのだ。


本来、高校生くらいまでは、性に関しては男が売り手で女が買い手である。男はまだそんなに性に興味がないのに、女はもうそっち方面では成熟してしまっているからだ。女が男に「つきあってください」とお願いするのが一般的だ。

この構図が崩れだしたのは、1980年代の後半から90年代の前半にかけてである。それまでは性の対象ではなかった女子高生が、大人の性の対象になってくる。本来、女子高生を性の対象として見るのはロリコンなのである。女子大生になってはじめて、一番若い性の対象、いわゆるピチピチギャルと呼ばれるようになる。

性の対象としての「女子高生」のはしりはおそらく「おニャン子クラブ」だろう。今考えると、「セーラー服を脱がさないで」くらいで「年端もいかぬ子供にこんな卑猥な歌を歌わせるな」なんて言っていたんだよなぁ。きっと今同じことをすると、逆にカマトトぶっていると思われるのではなかろうか。

とにかく、女子高生が大人の性のターゲットになって、事情は大きく変わった。昔は女子高生は大人には相手にしてもらえなかったので、ガキ臭い男子を相手にするしかなかった。しかし、大人が相手してくれて、しかもお金までくれるとなると、わざわざこっちから頭を下げてまで同世代の男子とつきあう必要はなくなる。そのせいで、今までは需要が大きかったバランスが、供給側にずれてくるようになった。


性の低年齢化というよりは、女性の値上げと言う方が本当のところだろう。バブルの頃に、「女性と付き合うこと」がどんどん高くつくものになってきた。

ちょっと昔(だいぶ昔かもしれない)は、クリスマスプレゼントなんてものは子供がおもちゃを買ってもらうもので、大人になったら卒業するのが普通だった。プレゼントとは、女性から手編みのマフラーなんかをもらうものだった。食事も、男が全額おごったりするものではなく、逆に彼女の手料理が普通だった。

このように書くと、何だか女が男に尽くすのが当たり前みたいなイメージを植えつけるように見えるが、そうではない。もともと、男は彼女と食事をしたりプレゼントを交換したりすることにあまり興味がない。単純で、ムードも何もありゃしない生き物なのである。もし食事をどこで食べるかを男に任せてしまったら、「吉野屋でいいじゃん」ということになってしまう。そういうのが嫌なら、どうしても女の側が積極的にならざるを得ない。

昔は、モノやサービスがなかったから、「積極的になる」と言うと、自分から何かをすることを意味した。オシャレなレストランなんて存在してなかったから、大衆食堂よりいい食事が欲しかったら自分で料理を作るしかなかった。それが、バブル経済の波にのって、デートコースというものが商品として売られるようになった。そうすると、女性は、様々なものを自分で作るのではなく、「あれ買って」で済ませるようになった。そして、いつの間にか、「男は女に貢いで当然」という雰囲気が生まれるようになった。

たくさんの男に貢がれて、女はいい気になっていたかもしれないが、これは実は自分を金と引き換えにする商売である。そして、そのうちこれが自分の首を締めるようになってくる。バブル経済の、すべてをお金に換算する風潮にのせられて、女性もまたお金で換算される存在になってしまった。これは、男性が女性を商品としてしか見なくなったからではない。女性が自分で自分を商品として売り出したからである。自分を、高価なプレゼントやホテルのスイートルームなどと取り引きしたのである。

恋愛は、いつしかゲームのようになってしまった。いかに多くの男からちやほやされ、多くのお金をせしめるかを競うものになった。男をアッシーとかメッシーなんて分類して、相手の気持ちなんてどうでもいいと思っていたのは、実は女の側なのである。


しかし、この構図は、バブルとその崩壊によって少し変わってきた。お金でカタをつけるのではなく、純愛を求めるようになった。

純愛というとカッコいいが、実際のところは、お金ではなくサービスを求めるようになったということだ。男に優しさを求め、ひたすら自分のために尽くしてくれることを求める。つまり、自分の奴隷になってくれる男が欲しいと言い始めたのである。

これは、貧乏な男にとってもかえって喜ばしい変化だ。お金を要求されるのでは、お金のない人にはついていけない。しかし、相手の奴隷になることなら、いくら貧乏でもできる。相手の気持ちを察し、先回りして欲求を満たしてくれる人が望ましいということになった。

しかしこれでも、貧乏でかつ不器用な人にはハードルが高い(たいてい、不器用だから貧乏なのである)。そこでハードルをもう一つ下げて、実際に相手の気持ちを察して先回りする能力も求めないことにした。単に、自分に隷属しようという思いだけで十分だとしたのである。

かくして、恋愛とは隷属だと思い込んでいる人が増えてきた。隷属というのは、相手を独立した人間とは見ないということだ。こういう人は、好きな異性の条件に「自分を真剣に愛してくれる人」とか「浮気をしない人」とか「私の気持をよく考えてくれる人」などと言う。目が相手に向いているのではなく、自分に向いてしまっている。結局、自分に尽くしてくれてちやほやしてくれるなら、どんな人だっていいのだ。相手の人間としての特徴に着目するのではなく、相手が自分に何をしてくれるのかに着目している。


バブルの頃は、ブランド物とかマンションとかホテルといったモノを、ステータスとして所有して自慢していた。それが、モノをありがたがる風潮が消え、ココロをありがたがるようになった。その結果、今度はココロをステータスとして所有するようになった。

相手がどれだけ自分を大切だと思っているかで、自分の価値を測ろうとする。相手のココロが自分に向いていればいるほど、自分の価値が高いと思う。これはつまり、相手が浮気もせず自分だけを溺愛してくれるほど、自分の価値が高まるということだ。相手を愛しているように見えて、実は自己愛なのである。

こういう人は、自分を愛してくれる人がいないと、自分の価値を認めることができない。周りに誰もいないと、すぐ淋しいとか空しいとか言い出す。そして、自分の手首を切って、駆け付けてきてくれる人がいるかどうかを試そうとする。

こうした自己愛を求める人が組になると、互いが相手に価値を認め、相手から価値を認められることで、安定した状態になる。「相手の価値を認めてあげれば、その人は自分の価値を認めてくれる」というルールにのっとって、相手の価値を認めてあげようとする。そして、このルールに従わない人には文句を言い、「人間としてサイテー」という評価をする。

自分でも自分の価値を認められないくせに、他人にそれを認めさせようとする方が「人間としてサイテー」である。そういう人が「私には生きている価値なんてないんだ」なんて言ったら、「その通り。あなたの言っていることは正しい」と、相手の言うことを認めてあげよう。(ただ、本物のうつの人には言わないように、くれぐれも気をつけること)


さて、性の低年齢化の問題は、純愛の問題と深く関わっている。愛というものが、相手に自分の価値を認めさせる道具になってしまっていて、自己肯定感の低い子供たちがそれに飛びついてしまっている。本来なら同性との「友情」で学ばなければならない人間関係を、異性との「愛」で学ぼうとしてしまう。そこが問題の根本である。

子供のうちは、特に女子は、友達と必要以上にべったりとくっつく傾向にある。これは、互いに「相手にとってなくてはならない自分」という幻想を与え合っているわけだ。まあこういうことは子供のうちなら誰にでもあることだが、成長するとだんだんとそんな幻想に意味がないことがわかってきて、親しいながらも必要な距離を置くことができるようになる。

しかし、「愛」というキーワードで異性と結びつく場合には、この成長が起きにくい。トイレにまで友達と連れ立って行くのは子供っぽい行為でいつかは卒業するべきものだと思われているが、異性とベタベタするのは大人の証拠だと思われているからだ。そのせいで、そこから自発的に抜け出すことができなくなってしまう。

子供にとってみれば、同性の友達との絆を深めるのに比べて、異性の恋人との絆を深める方がずっと簡単である。同性の友達との絆を深めるには、旅行に行くとか、一緒に何かを達成するとか、何らかの自発的行動を求められる。そこには困難もあるし、失敗もある。しかし異性との絆を深めるには、単にセックスすればいい。誰でもいいから絆を求めている子供がこの方法に飛び付くのは、ある意味当然のことである。

相手に合わせることで孤独から逃げることを「愛」だと思ってしまっているところからして間違っているのだが、さらに愛とはセックスだと思ってしまっていることで、セックスが孤独から逃げる道具になってしまっている。異性とセックスするだけで、相手からの「愛」を得られて、価値のある自分になれる。恐しいのは、この図式が自己充足的なところだ。2人が同じように思っているなら、お互いがお互いに「愛」を与え合って、価値のある自分を得られてしまう。

自己が確立した大人にとっては、他人を愛するということは難しいことである。自己を主張すべき所は主張し、相手の主張をよく聞き、2人で納得の行く答えを出していかなくてはならない。2人の距離が近くなればなるほど、この作業を数多くこなしていかなくてはならない。しかし、自己が確立していない子供にとっては、これは簡単なことだ。自己がなく、主張もなく、単に何でも相手の言う通りにすればいいからだ。

子供は、大人のように性の本当の意味を理解できていない。だから、大人が躊躇するようなことを堂々とやってのける。思考回路が幼稚園児の「ボク○○ちゃんとケッコンする!」と同レベルなまま、本当に結婚してしまう。


一対一の関係しか結べず、多くの仲間と共に何かをやるということができなくなってしまっている人がいる。「相手に合わせる」ことが対人関係では重要だと思ってしまっている。しかし、いろんな考え方を持つ多くの人とは、「相手に合わせる」だけではやっていけない。きちんと自己主張をして、そして自分に合わせてくれているわけではない相手のことも理解できないといけない。

相手のことをよく観察して評価をすることが、「人を見る目」である。一対一の関係しか結べない人は、人を見る目がない。唯一、相手が自分に悪い評価を与えた時にしか、相手に対して悪い評価を与えられない。自分から相手を評価することができないのである。そういう人は、人を見る目のある人からは嫌われ、「自分を嫌う奴は悪い奴」の原則によって、人を見る目があることを悪いことだと思ってしまう。このため、人の見る目がない人同士でしか関係を結べなくなってしまう。

本来は、まず「人を見る目」を養った上で、優れた人と一対一の関係を結ぼうとするようでなくてはならない。難しいのは、人と一対一の関係を結ぶことではなく、優れた人と一対一の関係を結ぶことだ。人の見る目がない人は、他人を評価するということができないため、一対一の関係を結ぶ際に一番難しい部分を経験していないばかりか、その一番難しい部分の存在すら意識することができないのである。

バブル期に、恋愛から「相手を見ること」が抜けてしまった。相手ではなく、相手がくれるモノを見るようになってしまった。その反省として純愛が言われるようになったが、「相手を見ること」ができない人は、本質的な問題を理解できないまま、単にモノをココロに変えただけで済ませてしまった。人間というものを総体として評価できない人にとっては、今までモノを基準にしていた評価基準が無くなってしまったことになる。それで、評価基準がないまま誰とでも関係を結ぶようになってしまった。

人を見る目がない子供を、性の魔力から引き離さないといけない。でないと、人を見る目を養うということをしないまま、多くの人と一対一の関係を結んでしまう。そしてそれが「多くの人と付き合う」ということだと勘違いしてしまい、本当の意味で多くの人と付き合うことができなくなってしまう。

人を見る目が養われていない人は、自分から「あの人は嫌いだ」と言うことができない。唯一、自分をけなす人に対してだけしか「あの人は嫌いだ」と言えない。自分が人から評価され続けるなら、実際の状況がどんなにひどいことになろうと、自分から関係を終わらせることができない。子供にとって、評価とはすなわちセックスだ。つまり、セックスが続く限り、どんなひどい相手とも関係をやめることができないのだ。


子供の見るものから、性的な描写を減らせ。恋愛より友情をテーマにしろ。でないと、彼らはいつまでたっても人間的に成長できなくなってしまう。サカリのついたメス犬みたいに誰とでもセックスすることが、恥ずかしい事ではなく自慢できる事のように思うようになってしまう。