センス・オブ・ワンダー

不思議を感じるということ

今回は、話の枕を思いつかないので、突拍子もなくセンス・オブ・ワンダーの話をする。とりあえず、これがSFのキモであることだけは書いておく。


センス・オブ・ワンダーとは、直訳すれば「不思議感」とでもなろうか。世の中の様々なことに対して、不思議を感じる感覚である。これは「感覚」なので、理性の範囲外にある。

例えば、飛行機を見て「なんであんなに巨大な鉄の塊が空を飛ぶのだろう」と感じる。これは実際のところ、理由がわからなくて「なんで?」と聞いているのではない。鉄の塊が空を飛ぶこと自体を不思議に感じるのである。これは感覚だから、流体力学や何やらを勉強して理由がわかったところで消えるものではない。

一番「不思議」のタネを豊富に持っているのが、自然である。花が咲いている不思議。川がそこに流れている不思議。自然だけがタネになるわけではない。テレビに遠くの風景が映し出される不思議。お金を出して物が買える不思議。言葉が相手に伝わる不思議。究極的には、自分がここに存在する不思議。

普段は考えもしないこうした不思議を、たまには立ち止まって考えてみる。自分がずっと当たり前だと思って気にも止めなかったことを、敢えて考えてみる。そうすると、当たり前だと思っていたことは、実は全然当たり前ではなかったことを発見する。

これは、「当たり前だと思っていたことが実は間違っていた」ということではない。川が流れているのを見て、「川が流れている」と言うのは、間違いではない。そこで終わっても生活には何の支障もない。しかし、「川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と考え出すと、目の前の風景の大きな矛盾に気がつく。「川が流れる」ということは、「当たり前」で済まされるような単純な問題じゃない。そこには自分がまだ知らない何か、つまりは「不思議」が隠れている。

こうした「不思議」の存在を知ると、不思議の存在こそが「不思議」になる。至るところに不思議が隠れている不思議。「なぜ鉄の塊が空を飛ぶのだろう?」という疑問を解明しても、「鉄の塊が空を飛ぶことがなぜ疑問に思えるのだろう?」という疑問は残る。不思議のタネは尽きることがない。

不思議感の鋭い人は、普通の人は何とも思わないような事に対しても「スゲェなぁ」「面白いなぁ」と感動する。不思議を調べ出すと、視野が広がり、次々に不思議が湧いて出てくる。不思議を感じることができる人にとっては、この世界は不思議が満ちた場所、つまりワンダフルな場所であり、ワンダーランドなのである。


面白いもので、不思議は好き嫌いが分かれるものである。不思議が好きな人は、不思議を追い求めて自分の知らない世界へさまよい出る。それに対して、不思議が嫌いな人は、説明がつかないこと、自分の知らないことを排除しようとして自分の殻に閉じこもる。

同じように知識を求めるのでも、両者は正反対である。不思議が好きな人は、知識を得れば得るほど、不思議も増えると思っている。そして、自分の知らない世界が広がるのを望む。不思議が嫌いな人は、知識を得ればそれだけ不思議は減ると思っている。そして、自分の知らない世界が狭まるのを望む。

両者を知識のコレクターだとすると、前者のタイプは、必死になってモノを集めることに喜びを感じるけれど、すべて集め終わってしまうととたんに興味が無くなって別の物を集め出すタイプだ。後者のタイプは、コンプリートさせたことに喜びを感じて、それをきれいな箱に入れて眺めて楽しむ。前者のタイプは永遠にコンプリートできないような対象を望むが、後者のタイプはコンプリートできない対象には興味を示さない。

集めているシリーズに新しい商品が出ると、コレクターはそれに飛び付くわけだが、その理由がちょっと違う。前者のような本当の新しいモノ好きは、新しいもの、珍しいものだから飛び付く。それに対して、後者の人は、完全でなくなった自分のコレクションが完全になるように、義務感で集める。

論理的に考えれば、「自分が知らないことがないことを望む」というのは自然な考え方だ。前者のタイプの人に「今まであんなに必死になってコレクションしてたのに、全部集めたとたんに放りっぱなしにするなんて、あの必死さは何だったの?」と思うのが普通だ。しかし、文字通りの「コレクター」なら、前者の方が自然だ。コレクターの興味は「コレクトする」ことにあるわけだから。「ウンコしたい」と思った人が自分が出したウンコを流してしまうのと同様に、コレクトしたいと思った人は集めた後のモノはもうどうでもいいのだ。


出来の悪いSF作品に対して、よく「センス・オブ・ワンダーが感じられない」と批評されることがある。センス・オブ・ワンダーを持たない人にとっては、何が悪いとされているのかがわからず、もめ事のタネになる。

例えば、宇宙空間で音が聞こえるような描写や、大気圏突入を避けるためにロケットを必死に下(地球側)に吹かしている描写に対して、どうも引っかかるものを感じる。この「引っかかるもの」は何だろう?これは、単に物理的に間違っているからではない。これらのことに不思議の欠如を感じ取るからである。

宇宙空間は不思議な場所である。そう思っている人なら、宇宙空間で音が聞こえるような描写をする前に、「はて、宇宙空間みたいな不思議な場所でも、地球上と同じように音が伝わったりするのかな?」と思うはずなのだ。もちろん、その他にもいろんなことを疑い始める。そして、すべての描写でいろんなことをいちいち調べ出す。

「そんな面倒なことをいちいちやっていたら大変だ」というのはその通り。しかし、わざわざ大変なことをしたいから宇宙空間を選んだんじゃないのか?大変なことが嫌なら、宇宙空間なんかを出さず、普通の街の普通の物語を書けばいいじゃないか。

SFでよく宇宙空間が舞台になるのは、そこが不思議な場所だからだ。不思議な場所では、今まで常識だと思っていた事が通用しない。しかし、宇宙空間の不思議は、我々が日常だと思っている世界の不思議の裏返しである。本当は、宇宙空間では音が伝わらないことが不思議なのではない。何もなければ、音は伝わらなくて当たり前、呼吸はできないのが当たり前、物は空中に浮かんでいるのが当たり前なのだ。そう考えれば、日常はいかに多くの不思議に満ちていることか。宇宙を見ることで、日常に潜む不思議を再発見できる。

この感覚が鈍い人は、宇宙空間で音が聞こえるような描写のある作品を、「宇宙空間では音が聞こえないはずだ」という自分の持っている知識をもとに批判する。それこそがセンス・オブ・ワンダーのない証拠だ。その作品が、自分の持っている知識通りに動いていないことを批判しているからである。その人にとっては、自分の持っている知識通りに事が運んでいれば満足なのだ。

不思議感が鋭い人は、「宇宙空間では音は聞こえない」という知識がなくても、宇宙空間で音が聞こえる描写に対して「あれっ?」と思う。それだけではなく、ビーム砲から出るビームの色にも、人が普通に宇宙船の中を歩いている描写にも、同じように「あれっ?」と思う。棚があったりコップがあったりするだけでも「あれっ?」と思う。なぜ「あれっ?」と思うかというと、不思議な空間であるはずの宇宙空間に、見慣れた物があるからである。もちろん、その中には、調べてみたらそれで正しい描写もいくらでもある。

描写が正しければそれでいいのではない。不思議な場所なのに、不思議を感じることができないのが問題なのだ。宇宙船なら、見慣れないメーターやボタンがあちこちについていて、扉は意味もなく妙な開き方をし、みんな変わった服を着て変わった物を食べ、鼻くそをほじるのにも専用の機械を使うようでなくてはならない。そうでなければ、わざわざ不思議な場所を舞台にする意味がない。細かい描写で重箱の隅をつつくような指摘をされるのは、不思議がほんの少ししかないからである。不思議が山盛りの作品なら、たとえ重箱の隅をつつくようなミスがあっても、たいてい見逃してくれる。

要するに、「宇宙というのは、人類が革新したり得体の知れない力が覚醒したりするスゲェ場所なんだよ。単なる親子喧嘩や痴話喧嘩がしたいだけならわざわざ宇宙まで出てくるんじゃねえ。地上でやってろ」ってことだ。せっかく、宇宙という普段あって当たり前のものが無い空間を舞台にするのなら、普段は考えもしない当たり前のことについて考えてほしい。そう思うのである。


どうも、世の中の人の「不思議感」は年々鈍っているようだ。不思議を好まず、不思議がないことを好む人が多くなっている気がする。世の中に不思議がたくさんありすぎるせいで、不思議を見ないようになってしまっているのかもしれない。しかし、もしかしたら、「不思議感」なんてものは無いのが普通なのかもしれない。ちょっと前まで、「不思議感」をきちんと育てられた人が多かったから、最近減っているように見えるのかもしれない。

「不思議感を育てる教育」は、学校で受けたわけではない。日本の技術の発展を支えた2人(正確には3人)の偉人、手塚治虫と藤子不二雄のおかげである。ウソだと思うなら、今の中堅どころの技術者に「技術者を目指したきっかけは?」と聞いてみて、鉄腕アトムかドラえもんの名前が挙がる率を数えてみるといい。(ちなみに私はキテレツ大百科を挙げる)

子供の頃に手塚マンガか藤子不二雄マンガ(あるいはSFこども図書館でも可)に出会った人は、「不思議感」を持つことができる。とりあえず、出会うのは小学生の早いうちがいい。その当時は単に面白かったりワケがわからなかったり怖かったりするだけだけど、中学生か高校生くらいになってハッとその意味に気づく。それが「不思議感」だったことに。

小学生というのは世界について学び始める頃で、中学生か高校生はそれをやり終える頃だ。小学生低学年のうちは毎日の生活がわからないことだらけで、それがだんだんとわかってきて、中学高校になると、この世の中の仕組みはすべてわかったと思い始める。もちろん知らないことはまだまだあるけれど、それはすべて専門的な知識であり、必要になった時に仕入れればいい。自分の身の回りの世界では、理解の範囲外のことが起きたりはしないと思うようになる。

「自分の知らない知識は、それが必要になった時に仕入れればいい」と思っている人は、それが必要となっている時に、それが必要となっていることに気づかない。自分が思いもよらないことについては、考えることができないからである。自分の思考の枠からはみ出ることを考えることができないばかりか、それが自分の思考の枠からはみ出ていることすら認識ができない。そして、それが当然だと思ってしまう。「見えないものは存在しない」と思ってしまう。

「見えないものは存在しない」ではなく、自分はすべてのものを見えているとは限らないと考える。それは、自分の見えている範囲が広くなればなるほど、困難になる。見えないものがだんだん少なくなってくるため、「見えないものは存在しない」と言っていても問題が無いようになってくるからだ。不思議感のきっかけが小学生なのは、その頃はまだ見えている範囲が狭いからだ。その時に「見えている範囲が全部ではない」と教えられて、その後にだんだん見える範囲が広がっていく。すると、教えられた事は正しかったのだとわかる。もはや「見える範囲が広がる体験」を忘れてしまった後に「見えている範囲が全部ではない」と言っても、それを肯定することはできなくなってしまう。

「不思議感」というのは感覚であり体験である。いくら論理で説明しても無駄だ。そして、子供のうちに持つことができなければ、大人になってから持つことは非常に困難だ。手遅れになってしまった人は残念だが、せめてそういう感覚を持った人がいることくらいは頭の片隅に置いておいてほしい。


ドラえもんは、特に初期の頃は、ドラえもんが出した道具ですんなり問題が解決したりはしない。のび太の抱える問題に対して、それを直接的に解決するひみつ道具を出す。しかし、その解決が全然問題の根本的解決になっていなかったり、道具が新たな問題を引き起こしたりする。

問題が解決しないのは、ドラえもんやその道具の能力のせいではない。のび太が抱える「問題の認識」が間違っているからである。自分が問題だと思っていることの奥に、実は本当の問題が潜んでいる。ドラえもんは、のび太の欲しがる道具では本当の問題は解決できないと主張しつつも、「しょうがないなぁ」と言って道具を出してくれる。自分が問題だと思っていることは本当の問題ではなく、自分が解決だと思っていることは本当の解決ではないということを身をもってわからせるために。

思い起こしてみると、ドラえもんは結構きわどい話題を扱っていた。「味の素の素」「殴られても痛くない薬(名前は何だったっけ)」「石ころぼうし」「独裁スイッチ」「バイバイン」などなど、今になって冷静に考えてみればけっこう恐い。最近はドラえもんは見ないからよく知らないのだけど、こうしたきわどさはちゃんと残っているのだろうか。単なる友情話になってやしないだろうな。

不思議感というのは、自分の持っている常識、あるいは固定観念をひっくり返す役割をする。こういったものを時々ひっくり返すことで、新しい角度からものを見ることができ、今まで見えていなかったものが見えてくる。不思議感がないと、常に同じ方向からしか見ないため、隠れた部分は永遠に見えないままになってしまう。


自分の知っていることを改めて見直して、そこに自分の知らないことを見つける。これができる人にとっては、同じものを繰り返し見ても何かの新しい発見がある。

新しい発見がなさそうな場所にある新しい発見に喜びを見出すのではなく、新しい発見がないことに喜びを見出す人がいる。二重否定の要領で、前者と後者は同じような行動になる。しかし、よく観察すると、両者は基本姿勢が違うことがわかる。

メディアを通じて不思議が続々とやってくるために、不思議に対して不感症になってしまっている人がいる。たまにはそういうのを追いかけ回すのを少し休んで、身近にある不思議について考えてみるのもいいんじゃなかろうか。