萌えと記号

記号に萌えるとはどういうことか

「萌えは記号である」と説明されることがよくある。メイド服、眼鏡といった外見の特徴、あるいはドジとかガリ勉といった性格の特徴などに萌えるのだそうだ。しかし、「萌えは記号だ」なんて言うのはいいけれど、それがどんな意味なのかわかっているだろうか?

おそらく、もともとそう主張している人はちゃんと意味を理解していると思う。しかし、その主張を受け売りでしている人々の中には、それを理解していないんじゃないかと思われるような人が見受けられる。そこがどうも心配だ。

今回は、「記号である」とはどういうことなのかについて書く。


記号とは何だろうか。文字や単語は記号であるが、それだけではない。交通標識やPCでよく使われるアイコンなども記号である。記号とはつまり、視覚や聴覚などのパターンが意味と結びついたものである。パターンのことを「記号表現」と呼び、そのパターンが示している意味のことを「記号内容」と呼ぶことにする。

例えば、「犬」という文字は視覚的パターン、つまり記号表現であり、それが意味しているワンワン鳴く動物が記号内容である。そして、この両者を結び付けているものが社会的な取り決めである。もし、「明日から、犬という字と太という字を交換します」という取り決めが成立したら、「太」という表現がワンワン鳴く動物を意味し、「のびのび犬」という表現がドラえもんの主人公の少年を意味することになる。

表現と意味が結びついた記号そのものが、別の記号表現になることもある。ここが、記号の性質の面白いところである。「犬」という概念全体が、「権力の手先」という別の意味を帯びる。「お前は警察の犬だ」と言うときの「犬」は、文字ではなく、犬という概念が記号になっている。だから、「お前は警察のポチだ」というように、犬という概念を意味している別の表現を当てはめても同じ意味として成り立つ。

そういう意味で、「メイド服」が何らかの意味と結びついているなら、それは記号である。そして、確かにその言葉が結びつけている意味がある。「ご主人さまのためにかいがいしく働く」というような意味である。(この意味の妥当性については、あえてここでは問題にしない。)


しかし、この「メイド服」と「ご主人さまのためにかいがいしく働く」の結び付きは、一部の人の勝手な想像である。メイド服を見て、トムとジェリーに下半身だけ出てくる太ったおばちゃんをイメージする人は、「なんでメイド服なんかがいいわけ?」と不思議に思う。

もちろんメイド服を見て黒人の太ったおばちゃんをイメージするのもまた記号の一つなのだが、このように、記号表現と記号内容の結び付きは恣意的なものである。アメリカのドラマが日本で全盛だった頃は、メイド服は太ったおばちゃんを表す記号だった。その前提がなくなって、「メイド服萌え」という記号が出てきたのである。

ここで言う恣意性とは、「ご主人さまのためにかいがいしく働くかわいい女の子のメイドは実在しなかった」と言っているわけではない。確かにそういう人もいただろう。しかし、それ以上に、メイドには太ったおばちゃんも多かったのである。事実の中から勝手に一部だけを切り出して、それしか見ないことが恣意性である。

問題は、なぜ事実の中から勝手に「かわいい女の子」を切り出したのか、ということだ。なぜ事実の中から勝手に「太ったおばちゃん」を切り出したのか、ということと対比させて考えると、問題点がわかる。なぜ事実の中から「太ったおばちゃん」が切り出されたかというと、その当時、アメリカにはそういう人が多かったからだ。そして、メイドの日本版である家政婦にも、やっぱりおばちゃんが多かったからだ。そういう意味で、メイド=おばちゃんという図式は、単に「そういう人がたくさん目に入ったから」という単純な理由であり、そこに他意はない。

それに対して、なぜメイドからわざわざヴィクトリア朝時代のイギリスを連想するのか。そこには、今の日本とヴィクトリア朝の状況の類似や、たまたま流行ったマンガ等の影響があるだろうが、単純な理由ではない。今回はメイドの話をするわけではないので細かい所までは触れないでおくが、普通には連想しないものをわざわざ結び付けている恣意性がここにはある。


さて、冒頭で書いた疑問、「萌えは記号だ」と言うオタク達が本当にその意味をわかってるのかな?という疑問は、彼らがブランド物に飛び付く女性たちを批判していることが多いからである。「記号である」というのは「ブランド物である」ということなんだぞ。

ブランドとは記号であり、ブランド物のバッグという表現に結びついた意味を高い金を出して買っている。この図式は、メイドという表現に対して、そこに結びついた意味を求めているのと同じ図式だ。つまり、ブランド物に飛びつく女性も、メイド服に飛びつくオタクも、思考回路は同類だ。

そう考えてみれば、ビジネス誌がなぜ「萌えビジネス」をこぞって話題にするかもわかる。中国製の安バッグにLVというマークを入れておくだけで高く売れるように、ウェイトレスにメイド服を着せておくだけで儲かるのなら、そりゃ皆注目するだろう。それに、前者をやると警察に捕まるが、後者は堂々とやっていい。金儲けだけを考えれば、こんなにおいしい商売はない。

もし「そうじゃないんだ。メイド服を着てれば誰でもいいというわけじゃないんだ」と言うなら、それはメイド服が記号ではないということだ。かわいくて、気配りが行き届いていて、思いやりのあるメイドじゃなきゃダメなんだと言うなら、そりゃメイドに限らず当たり前だ。「メイド服は記号だ」とは、「中身ではなく、メイド服を着ていることが重要だ」ということなのだ。

もちろん、メイド服だけ着ていても食べ物がまずくて接客態度が悪くてはどうしようもない。「メイド服を着ていれば誰でもいい」というのは、店員にメイド服を着せるだけで、その店の価値が本来持っているものより上がるということだ。本来、店員の服と価値は関係ないはずのものなのに。食べ物がまずくて接客態度が悪い普通のファミレスより、同じように食べ物がまずくて接客態度が悪いメイド喫茶の方が儲かるなら、それは「メイド服」という記号が価値に直結するということである。もしそうなんだったら、そりゃ誰でもメイド服を着せようとするよなぁ。

記号とその意味の恣意性というのは、「表現と意味が結びついている理由がない」というわけではない。ブランド物にしても、過去の実績が高級というイメージを作っているわけだから。他にもいろんな意味と結び付いている可能性のある表現から、ただ一つの意味を抜き出して他を無視するということである。


ブランド物は、記号がモノに貼ってある。バッグに「高級」という記号が書いてあることで、「高級なバッグ」になる。しかし、それだけではない。人が、「高級なバッグ」という記号を身につけることで、「高級な私」になる。ヴィトンのバッグを身につけるということは、言うなれば自分の身体にあのLVのマークを貼っているということだ。

記号をどこに貼るか、ということを考えると、萌えの場合には少し事情が異なる。女の子がメイド服を自分から好んで着る場合には、自分で自分にメイド服の意味するところを貼りつけているとも考えられる。しかし、どうも自らそういう奴隷的な意味を貼り付けようとしているわけではなさそうだ。

「メイド服」という記号が、「オタク」という意味に直結するようになった。メイド服を着るということによって、「オタクな私」になる。女の子は、自分でメイド服を着れば「オタクな私」になれる。男でも、若干の人は自分で着て「オタクな僕」になる。着るのに抵抗があるなら、買うだけでもオタクになれるし、「メイド服萌え〜」と言うだけでオタクになれる。

「オタク」の価値の逆転が起きている。以前なら、オタクなどというレッテルはできるだけ貼られたくないものであり、たとえ貼られても何だかんだ言い訳をしてはがしてきたものだ。それが今では、逆に自分で自分に貼って喜ぶものになった。オタクという記号を貼られるデメリットより、メリットの方が上回るようになってきた。

「オタクという記号を貼られるメリット」というのは、「オタクであるメリット」とは違う。「オタクという記号を貼られるメリット」というのは、他人に見えるように「私はオタクです」と掲げるメリットである。それに対して、「オタクであるメリット」とは、他の人がその人をどう見ていようが関係なくあるものだ。

ここに「オタク」の変質がある。オタクというのはもともと、「記号」が嫌いな人種だったはずだ。それはつまり、他人からどう見られるかということを気にするのは愚かだという考え方だった。だからこそ、ブランド物に飛びつく女性たちが嫌いだったのだ。人々が勝手に取り決めているだけの表現と意味の結びつき、つまりは既成概念をぶち壊して、様々な意味を自分で見つけ出す人だったはずだ。

だから、自らオタクという記号を貼るなんてことは矛盾だったはずだ。「俺はオタクだ」と言うのは、「そんなに貼りたいのなら、俺にどんなレッテルでも貼るがいい。何が貼られようと、俺はまったく気にはしない。俺は俺だ」という意識の表れだった。


オタクという言葉は、意味の定義が難しい言葉だ。あえて意味を求めるなら、「特定の分野や物事を好む人」という意味を持たせることができるかもしれない。しかし、この定義が問題なのは、「特定の」という言葉である。知らない人から見て特定の分野でも、よく知っている人から見ればそこに様々な領域があるのなら、それは「特定」ではない。例えば、知らない人から見たらアニメという特定のジャンルにしか見えなくても、内部でSFアニメとかホラーアニメとか萌えアニメとかに細分化されていて、日々新しいジャンルも作られていて、それらを全部見るなら、それは不特定の分野である。

そうすると、本当に「特定の分野」なんてあるのか?という疑問になるが、それはある。これは結局、見ている本人の意識の問題だ。見ているものに対して本人がそれぞれ違った何かを感じているなら不特定の物事だし、同じ種類のものばかり見てすべて同じようにしか感じないなら、それは特定の物事だ。後者はつまりは記号化である。

つまり、オタクが特定の物事にしか興味を持たないように見えたとしたら、そこには2つの可能性があるわけだ。本当に特定の物事にしか興味を持たないのか、それとも自分の目が節穴だからどれも同じように見えるだけなのか、である。例えば、「メイド服」という特定の物事にしか興味を示さないのか、それとも一般人には同じようなメイド服に見えるものでも実はいろいろあって、その多様性に興味を示しているのか、である。

メイド服を「記号」として見る場合には、前者の考え方になる。記号であるなら、ある表現に対して結びついている意味は一つだけだからだ。メイド服ならみな同じ。それが「記号」ということなのだから。もし、「メイド服はみな同じじゃない」と主張するにしても、その中のある特定のものを記号として嗜好するなら、それはやっぱり記号として見ているわけで、特定の物事にしか興味を示していない。例えば、「メイド服はみな同じじゃない。○○の店のメイド服じゃなきゃ嫌なんだ」と言う場合には、「○○の店のメイド服」という記号に興味を持っている。○○の店のメイド服ならどれでもいいのだ。

「記号化」によって、表現に対する意味が一つに絞られ、不特定だった物事が特定の物事になる。それぞれ個性もあれば微妙に格好も違うメイドさんが、「メイド」という記号化によって、どれも同じものになってしまう。昔のオタクが、はたから見ればどれも同じに見える対象にある微妙な差異に興味を示すのに対して、今のオタクは、微妙な差異を無視して同じ対象にしてしまったものに興味を示す。

オタクが一番嫌われるのはここだ。人間を、微妙な差異を無視して記号化してしまう。それぞれの人が持つ個性を排除して、既にある典型的な性格を示す記号のどれかに当てはめてしまう。オタクに関わる相手にしてみれば、自分ももしかしたら記号としてしか見られていないんじゃないか、と不安になってくる。その不安は半分は当たっている。自分すらも記号に当てはめてしまうのだから。


オタクという言葉にネガティブな意味しかなかった時代には、貼られても悪いことしかない「オタク」という記号を自分に貼るということは、記号というシステムそのものの否定だった。しかし、オタクという言葉が必ずしもネガティブな意味と結びつかないようになると、記号というシステムを利用するために自分にオタクという記号を貼ることができるようになる。

自らオタクという記号を貼ることで、オタク友達を見つけられるようになる。それがオタクという記号を貼るメリットである。都合がいいことに、今では「オタク」という記号が持つ意味が崩壊してしまっている。「オタク」という記号には、「自らオタクと名乗る人」という意味しか持たなくなってしまっている。

つまり、誰でも「メイド服萌え〜」と言うだけでオタクになれ、しかも自分で「自分はオタクだ」と主張すればそれを覆すことができない。「私はオタクだ」という主張は反証不可能なのだ。これは、「私はオタクだ」と言う人に、どんなことを言えば「いや、お前は○○だからオタクじゃない」と言うことができるだろうかと考えてみるとわかる。○○に当てはまる言葉が無いのである。

今まではオタクというのが蔑称だったから、「どんな奴はオタクか」とは考えても、「どんな奴はオタクじゃないか」とは考えなかった。わざわざ考えなくても、名指しされた当人が必死に否定してくれたからだ。そして、それを必死に否定しなかった奴が「オタク」ということになった。結局、「他人に何と思われようと気にしない=内にこもるタイプ」という意味になる。

当然のことながら、オタクというのが蔑称でなくなると、名指しされた当人が必死に否定しなくてもよくなる。すると、当然のことながら、オタクであることを否定しない人間は増えていく。しかし、その中では、「蔑称を他人に貼りつけられても気にしない人間」という意味は薄れていく。

それでは、「オタク」という言葉が何の意味もなくなったのかというと、そうではない。記号は、それを付けている人と付けていない人を区別するからだ。「自分にオタクという記号を貼りたがる人」というのはつまり、「自分を一般人と区別したがる人」である。しかも、その区別というのは単に記号を貼っているだけで、実質的な意味は何もない。

まとめると、今でいうオタクは「特に変わったところは何もないのに、自分は一般人ではないと思っている人」である。まあ、変わったところがないのに自分は変わっていると思っているところが「変わったところ」なのだが。


「記号である」ということは、良くないことだ。なぜ良くないのかというと、記号になったとたん、多様性が失われ、思考停止してしまうからである。

記号を追求するということが、普通の人なら記号だと受け取ってしまうものに多様性と奥の深さを見出すということなら、これは良いことだ。これはつまり、記号のように見えるが実は記号ではないということであり、記号の否定である。記号を記号のまま受け取って良しとするのは、多様性や複雑さを嫌い、単純な世界に逃げ込もうとする思考停止状態である。

「オタク」を記号化することによって、思考停止状態であることに対して思考停止する。「自分はこんな風でいいのだろうか」ということすら考えなくて良くなる。「自分はオタクです」と言えばそれで済むと思っている。だから、オタクという記号を身に付けたがる。それによって、何も考えなくて良くなるから。

これだけは認識してほしい。「僕たちは記号に萌えるんだ」というのは、威張って言うことじゃない。「僕たちはバカです」と言っているようなものだぞ。