体験の重要性

またまた現実と虚構の話

現代人は、マスコミなどからやってくる情報に慣れすぎてしまって、自分の本当の感覚を忘れてしまっている。例えば、テレビでよくやるグルメ番組を思い起こしてほしい。

グルメ番組で、銀座の有名店の超高価な肉を使ったステーキを芸能人が食べているところを見ているとしよう。テレビに映った肉を見て、とてもおいしそうだと思う。自分もステーキが食べたくなる。さっそく次の日、近所のスーパーに行って肉を買ってきて、自分でステーキを作る。しかし、まあそこそこ美味しくはあるが、涙を流して感動するほど美味いわけではない。「やっぱり自分で作ったんじゃ、銀座の高級店並みの美味しさにはならないな」と思う。

注意していないと何となく聞き流してしまうが、ここに重大な勘違いが隠れている。自分は銀座の高級店のステーキの味を知っているわけではない。もしかしたら、自分で作って食べたそれは、銀座の高級店並みだったかもしれないのである。銀座の高級店の超豪華ステーキの味は、テレビを見ただけの我々にはわかるはずがないのだから。

これがもし、「家庭でもおいしくできるステーキの焼き方」という料理番組だったらどうだろう。それだったら、自分で肉を買ってきて、家で焼いて、そこそこ美味しいステーキを食べて、「ああ美味しかった」で終わる。同じステーキを食べても、がっかりする人と満足する人に分かれるわけである。


「日本三大がっかり観光地」と呼ばれているものがある。札幌の時計台と、高知のはりまや橋、沖縄の首里門だそうだ。今では汚名返上のためにいろいろやっていて、必ずしもがっかりではなくなっているらしいとも聞くが、問題はそこではない。観光客が勝手に期待して、勝手に来て、勝手にがっかりする。この構図が問題なのである。

私はもともと観光地めぐりはあまり好きではないのだが、たまに連れていかれる。名所に行って、お決まりのアングルから見て、「おお、テレビや雑誌でよく見るのと同じだ」と思う。何かが逆だ。

確かに、私が札幌の時計台を見た時は、今まで持っていた印象とは違うという感じを受けた。しかし、間違っていたのは印象の方だ。今そこにある、ビルの谷間にひっそりと建っている時計台の方が、本物の時計台だ。

ある場所からのアングルだけが非常に有名な場所では、実際に行ったときも、そこから見た風景だけが印象に残ってしまう。帰ってきた時、自分は何をしに行ったのだか、とバカバカしくなる。


実際に経験していないのに、経験したつもりになってしまう。先入観があるせいで、実際の経験の価値が落ちてしまう。推理小説の犯人を最初に聞いてしまうようなものだ。

事前情報を得てから行くと、自分でも気づかないうちに、自分の体験がその情報の枠にはまってしまう。テレビで放映された店に行って、テレビで放映されたメニューを注文する。そうすれば、テレビで見た通りのものが出てきて、あの時に芸能人が味わったはずの味を自分も味わえる。そして、これでいいのか?という疑問が残る。

バカっぽく言えば「僕らはメディアに操られている!」ということなのだが、メディアが自分たちを操っているのではなく、自分たちの方が喜んでメディアに操られに行っているのだ。メディア側は、自分たちが「操られたい」と言うものだから、仕方がなく操っているのである。

何が問題なのかをよく考えてみよう。メディアの情報をそのまま受け取ることが問題なのではない。メディアの情報を受け取ること「しかしない」のが問題なのである。いつもテレビで紹介された店ばかりに行っていては、テレビに操られてしまう。たまにはテレビで紹介されない店にも行かないと。それが「テレビで紹介されないけどこんなに美味しい店があったのか」であろうと、「テレビで紹介されない店はやっぱりこんなものか」であろうと。

しかし、よく考えてみると、コンビニ弁当やファストフードで済ます時は別にして、「たまにはちょっと奮発して美味しい店に行こう」と思った時に、事前にリサーチをしないで知らない店に飛び込むことはしたくないのもわかる。とすると、費用と味はある程度は比例するから、「テレビで紹介されないけどここの店はこんなに美味しい」というのはほとんどないことになる。旅行も同じで、遠くへ旅行すればするほど、そこにある有名な観光名所は必ず行くだろう。つい欲張って近くの名所を全部回ることにするから、遠くへ旅行すればするほど、お決まりの観光名所をただ回るだけになってしまう。


情報のせいで、体験が二極化する。奮発して美味しいものを食べたい時に行く店と、日頃行く安くてそこそこの味の店に。夏休みなんかの1ヶ月前から計画を立てるような旅行と、日曜日に暇だからちょっと出かけるような旅行に。これは何の違いかというと、期待の違いである。

期待してやる体験は、できるだけその期待が外れないように、期待通りの結果になるように努力する。しかしこれはどうも自己矛盾の臭いがする。結果がわかっているようなことを、わざわざ体験する意味があるのか?今まで食べたことのない味や、今まで見たことのない風景や、今まで感じたことのない空気を求めて行くのではないのか?

期待は、際限なく広がっていく。なぜなら、それは虚構だから。期待が膨らみすぎると、現実を知ってがっかりする。そしてそのうち、「期待だけして現実にはやらなければいいんじゃね?」と気づく。テレビの料理番組を見て、食べた気になっておしまい。旅行番組を見て、行った気になっておしまい。金も労力もかからず、がっかりする危険性もない。まさにパーフェクトだ。

そんな風に思ってしまうと、大事なことをだんだんと忘れてしまう。「体験」の重みをである。もしかしたら、忘れたのではなく、本当の意味で「体験」をしたことが一度もないのかもしれないが。


料理番組を見ることによって得られるものと、実際に料理を食べることで得られるものは、本来まったく違うはずだ。なのに、この2つを同じ土俵で判断してしまう。ここが、問題のキーポイントである。「料理を食べることはできないから、料理番組を見るだけでいいや」のおかしい所は、「から」でつながっているところである。前者と後者は本来関係のないものだ。

料理番組を見ることが料理を食べることの代替になると思ってしまうことが、すなわち「虚構と現実の区別がつかなくなる」ということである。虚構と現実の区別がつかなくなっている人は、虚構の体験と、現実の体験を比較してしまう。これはそもそも比較できないもののはずなのに。

「いろんなことを大いに体験しましょう」という立場からすれば、虚構の体験も現実の体験も大いに結構。どちらもどんどんやるべきだ。しかし、それは虚構と現実の区別がちゃんとついていることが前提である。それはつまり、虚構の体験をしたからといって、それが現実の体験の代わりになるとは思わないということである。「虚構で体験したから、現実の体験はしなくていい」と思うことが問題なのだ。

なお、逆に「現実で体験したから、虚構で体験しなくていい」と思うことには問題はない。現実で体験した人なら、虚構の体験は自分で作り出すことができるからだ。現実の体験と虚構の体験は対称ではない。虚構と現実の区別がついていない人は、上で言った色々なことについて、「現実」と「虚構」を入れ換えても成り立つと思っている。それが間違いなのだ。

虚構の体験をいくらやっても、現実の体験を作り出すことはできない。テレビでいくら料理番組を見ても、料理の味を知ることができないように。逆に、現実の体験をすれば、それを元に虚構を作り出すことができる。だから、現実の体験の方が大切なのである。


最近だんだんと、現実の裏付けがない虚構が増えてきた。以前は、現実を体験した人が虚構を作ってきた。だから、虚構にもそれなりの現実の裏付けがあった。しかし、現実の体験をしたことのない人が、虚構の体験をしただけで虚構を作る側に回ってしまってきている。

虚構の体験をしただけで、その虚構を作る側に回ってしまう。そして、虚構を元にした虚構を体験して、それを作る側に回る。そうすると、虚構に現実の裏付けがなくなってしまう。現実の裏付けがない虚構に慣れてしまうと、「裏付け」を考えないようになってしまう。マンガばかり読んでいる人がマンガを描く。そしてそういうマンガばかりを読んだ人が、マンガを描く。この繰り返しでどんどんその世界が現実から離れていくが、その世界にいる人は気がつかない。

最近、リメイクとかオマージュといったものが増えてきた。ウルトラマンなんかの昔のキャラクター物が人気である。子供の頃からこういった虚構で育った人が、作り手の世代に上がってきたのである。この世代の人は、子供の頃の思い出というとテレビ番組やマンガばかりになってしまう。原体験が虚構にあるため、それと同じものを作ることしかできず、どうしてもリメイクになってしまう。頭の引き出しに、どこかで見たような物しか入っていないのだ。

1970年代くらいまでは、現実の体験をきちんとしている人が、四苦八苦しながら独自に虚構を作ってくれていた。1980年代中頃以降になると、既にある虚構を真似して、虚構から虚構を作るようになった。そして今に至って、「なんか違うぞ」と思い始めた。自分たちが昔見た物に比べて、どこか薄っぺらなのだ。そこで、昔を思い出して、昔見た素晴らしいものをもう一度作ろうとした。

作っている本人は、現実が虚構の基になっていた昔に立ち帰って、素晴らしいものを作ったつもりでいる。しかし、昔を知らない人にとっては、それはただの懐古趣味の複製物にしか見えない。例えば、「ロード・オブ・ザ・リング」を見て、「今さらドラクエのパクリ映画かよ」と思ってしまうわけである。「古いものが新しい」というレトロの逆説がここにある。

ある複雑なものから、内容を削ぎ落として単純化する。これ自体はそう悪いことではない。しかし、単純化されたものを受け取った場合は、これが単純化されたものであるということをわかってないといけない。でないと、もとの複雑なものを見せられた時でも、その複雑さに目が行かなくなってしまう。単純化されたものに当てはめて、単純な解釈しかできなくなってしまう。

「複雑なもの」の代表が、現実である。虚構は、現実から内容を削ぎ落として単純化したものだ。それがわかっていないと、現実を虚構に当てはめて満足してしまい、複雑な部分に目を向けることがなくなってしまう。旅行に行った時に、観光名所だけ回って満足してしまうように。


以前は、虚構が現実の劣化コピーだということがわかっていた。だから、虚構を知ると現実にもやってみたいと思う。虚構を見て、実際にテニスをやってみたり、柔道をやってみたり、囲碁を勉強したりする。現実の世界に生きている人から見るとなんだかなぁと思うかもしれないが、虚構にどっぷり漬かってしまっているのだから仕方がない。現実に目を向けただけ良い事だ。

虚構の作り手に、自分達のやっている事が劣化コピーなんだということを自覚していない人が増えてきた。「劣化コピーである」という事自体は、批判でも悪口でも何でもない。現実は無限に複雑なんだから、劣化コピー以外にはしようがないのだ。劣化コピーをさらに劣化コピーしようとするのが問題なだけだ。

要するに、虚構を虚構のままで終わらせるな、現実に目を向けよ、ということである。