アキバ系とは

オタクのコモディティ化

最近、アキバがすっかりエロゲーやコスプレやメイド喫茶の街になってしまった。格安の抵抗/コンデンサ袋や珍しいICを探し回った思い出の場所がマスコミにこう呼ばれてしまっている所を見ていて、パレスチナ問題って根の深い問題だなと改めて感じる。

それにしても、アキバがエロゲーやコスプレやメイド喫茶の街になってしまったのは、非常に寂しいことだ。これは決して、私が好きだった電子パーツ街としてのアキバでなくなってしまったからではない。実際問題として、もはやアキバに行かなくても全然困っていないし、特に行きたいかと言われるとそうでもない。寂しいのは、あの街に漂っていた雰囲気が無くなってしまったことである。

今までアキバが扱った様々な趣味は、「自作」をテーマとしていた。何かを作りたい人間が集まっていた。それはラジオだったり高級オーディオだったり電子回路だったりパソコンだったりラジコンだったり模型だったりしたが、どれも同じ空気が漂う。モノが対象であり、自分の思い通りのモノを作ることが目的だった。だから、対象とするモノはバラバラでも何となく統一感があった。どれも「女子供はすっこんでろ」的な、男の領分である。機械油の臭いが似合う街だった。

もしアキバがラジコンの街やハイエンドオーディオの街や自作ロボットの街になってしまったとしても、寂しさまでは感じない。今のアキバが昔のアキバとは相容れない存在だからこそ、寂しさを感じるのである。


昔のアキバに巣喰っていた様々な人達は、まさに「理系オタク」という呼称がぴったりだった。実際、理系オタクの部屋というとスイッチがたくさんついた測定器や工具や機械が所狭しと並んでいて、謎の薬品の一種独特な臭いが鼻をつき、その中で一人にやにやしながら一般人には理解できない作業をしている、そんなイメージがある。そして、彼らの独特の美意識や嗜好も一般人には理解できない。

今のアキバに巣喰っている連中(以降、アキバ系と略す)の部屋には、アニメのポスターやDVDやフィギュアが所狭しと並んでいる。その中で一人にやにやしながら、まではたいして変わらないのだが、そこでやっている作業が一般人にも容易に理解できるという点が異なる。

理系オタクは、昔から人付き合いが悪くて変人扱いされる。いつも変てこなモノを対象にしているんだから仕方がない。そして理系オタクの方も「変人で結構」と思っていて、住み分けができていた。一般人は、「何やってるのかさっぱりわからないけど、変人たちにとってはきっと楽しいんだろうな」と思って放置していた。

しかし、アキバ系の人間は、人間を興味の対象としているくせに人付き合いが悪い。アキバ系の人間は、一般人にも何をやっているかがわかる。わかるからこそ、気持悪いと思う。


マスコミで何回も特集されたおかげで、今やアキバが観光地化しているらしい(らしいというのは、最近行ってないから)。オタクでも何でもない普通の人が、フィギュア屋なんかに行って「わー、キモーい」と歓声を上げているんだそうだ。そして、それを聞いてアキバ系のオタクは憤慨しているらしい。

そんなことは、別に今に始まったことではない。昔から、アキバには一定の数の観光客がいて、「うわー、わけわかんなーい。キモーい」と(その頃はまだキモいという言葉はなかったけれど)歓声を上げていた。しかし、理系オタクは憤慨するどころか、「素人にはわかるわけないよなぁ」と、別に気にもならなかった。

アキバは昔からヘンな街だった。ヘンなものがいっぱいあった。しかし、昔のアキバがあまり観光地化しなかったのは、一般人が見ても何やらさっぱりわからなかったからだ。今は、ヘンなものがいっぱいあって、しかもそれらがわかりやすい。そりゃ、誰だって見に行きたくなるし、実際にヘンな物を目の前にすれば歓声だって上げたくなる。

一般人にとって、型番が違うだけで同じ格好のICがずらりと並んだり、色違いの円筒形がびっしり箱に入っている風景は、確かに異様で珍しいものだろう。しかし、じっくり見ても訳がわからないだけで全然面白くない。だから、一見してすぐ去っていってしまい、「わけわかんなかった」という感想しか残らない。

しかし、メイドやコスプレやフィギュアなどは、一般人が見ても、異性の商品化だとすぐわかる。わかりやすいから、じっくり見て回って得るものがある。一般人が秋月や千石に1時間閉じ込められるのは苦痛以外の何者でもないが、メイド喫茶に1時間閉じ込められれば、自分なりにそれを楽しんで、いろいろと感じることができる。


たまに、一般人はオタクをよく理解していないせいで偏見があると勘違いしているオタクがいる。理系オタクは確かに、一般人にはまったく理解されていない。しかし、今のアキバ系オタクは、理解できないような趣味ではまったくない。むしろ、アキバで扱うマニアックな商品の中では最も一般人にとってわかりやすい商品である。早い話が、エロ本やエロビデオやキャバクラなのだから。

アキバ系オタクは、自分たちがアニメ美少女を見て喜ぶのを一般人が理解できないと思っている。それは間違いだ。男なら、たとえ単なるアニメ絵であっても、女性の裸を見ればそりゃあちょっとはうれしい。女っ気がまったくない環境、例えばマグロ漁船なんかに隔離されたら、アニメ絵だ何だと贅沢を言ってはいられない。

わからないのは、そのへんに本物の女性がうじゃうじゃいるのになぜアニメなのか、ということだ。つまり、本当の疑問は、「なぜ現実の女性よりアニメの方がいいのか?」という疑問である。一般人は、決して、アニメの女性は魅力的ではないと思っているわけではない。絵に描いた餅なんかよりずっと魅力的なものがいくらでもあるのに、と思っているのである。

昔の理系オタクにもやっぱりアニメオタクはたくさんいたが、彼らは正直だった。素直に「女の子なんて面倒だからいらない」と言った。もっとやりたい事が他にあるからだ。彼らにとっては、絵に描いた餅よりも、ずっと魅力的な本物よりも、もっと魅力的な何かがあるのだ。

ここが、昔からアキバにいた理系オタクと今のアキバ系オタクの根本的な違いである。アキバ系オタクは、もっとやりたい「他の事」が存在しない。異性のことで頭がいっぱいなくせに、本物の異性に向かっていこうとしない。だから問題なのである。

つまり、混乱の原因は、「異性に向かっていかない人」と「異性に向かっていけない人」を混同することにある。「異性に向かっていかない人」の感性はよくわからないが、「異性に向かっていけない人」の感性はよくわかる。自分達も一度は通った道だからだ。

アキバ系オタクは、自分たちの感性が一般の人には理解されていないと思っている。いくら「お前の持っている感性も、他の人とたいして変わらないんだよ」と言っても、それを受け入れようとしない。自分で「自分は特別だ」と思い込んでいる。結局、彼らが特別なのは、「自分は特別だ」と思い込んでいるところなのだ。


アキバの街の空気が変わる予兆は、アキバがアニメの街になる前にあった。PC パーツショップが林立した時だ。この時から何かが違ってきたのだ。

PCパーツショップができる前は、アキバの店は家電屋と部品屋に分かれていた。家電屋は一般の人を対象にし、部品屋は専門家を対象にする。専門家は店の人より商品の知識がずっと豊富であり、店の人はただ言われた品番のものを出してくるだけの役割で良かった。

部品屋では、商品に対する知識を店の人に要求しない。それは自分で持っていなければならないものだ。自分に知識がないせいで間違って買ってしまったのは自分の責任である。買ったパーツが自分の設計では問題を起こしたとしても、買った店には文句を言うことはできない。店員に「このICは5V電源で動きますか?」などというような質問してはならない。知らないなら買うな。店員は、間違っていたら自分の責任になるような質問には答えられない。

そういう前提が、PCパーツショップでは崩れてしまった。これは客だけの問題ではない。店も同じように、専門的な話のわかる人を置く必要があると思ってしまった。もちろん、儲けるためには、数少ない専門家だけを相手にするのではなく、大勢の素人を相手にすべきだ。しかしそこには、その人に使いこなせないものを売りつけるという矛盾が常にある。

PCパーツがコモディティ化の道を歩んだせいで、PCパーツ業界は助かった。インターフェースは規格化され、それぞれのパーツはいくつかのパラメータの組み合わせで表現できるようになった。それに伴って、ケースや光りモノ、ファンなどの外見にこだわる商品で、変わった商品が次々に出てきた。これらは素人目にも違いがわかりやすい。

PCパーツのコモディティ化によって、専門知識のない人間がアキバにやってくるようになった。PCパーツ店の売上は上がったが、どこへ行ってもほとんど同じものを売っているから、店が乱立している意味がなくなった。特に勉強した人でなくても、PCパーツ店に行って店員にいろいろ聞けば、自作PCを作ることができる。

コモディティ化によって、本人がPCの知識をつける必要がなくなった。せいぜいPC雑誌を1冊買えばわかる程度の知識でよくなった。アキバはもともと、知識と技術を持っている人たちの街であった。そこに、そうでない人が大挙して押し寄せたせいで、アキバは変わってしまったのである。


なぜ最近、オタク人口が増大し、メディアにオタクという言葉が露出するようになったのか。それは、簡単にオタクになれるようになったからである。単に、アニメを見てエロゲーをやってフィギュアを買えばオタクになれる。ここには知識も技術も必要ない。オタクのコモディティ化である。

昔は「○○オタク」と前に物の名前がついたのだが、今では「オタク」という言葉が単一の嗜好を表すようになってしまっている。理系オタクは、世の中の一般とは違う独自の価値観を持っていた。その価値観は同じ理系オタクでも人によって違う。だから、オタクという言葉の前にその価値観を表す言葉を付けた。

しかし、今のアキバ系オタクはそうではない。彼らの価値観は、単純な「金とオンナ」の価値観である。そして、自分たちが自分たちの物差しで負け組であることを認識している。そして、「負け組でもいい」という自己矛盾した価値観を持っている。理系オタクも同じように「『負け組』でもいい」と言うが、「負け組」という言葉は常にかっこ付きである。

理系オタクは、世の中で使われている物差しとは違う物差しを持ってきた。しかし、アキバ系オタクには「物差しが違う」ということを認識することができなかった。それで、世の中で使われている物差しで計って「自分達と同じだ」と思ってしまった。そこがそもそもの間違いだったのである。しかし、最近はだんだんと、違う物差しを持つことが困難になりつつある。

最近、「二極化」が言われている。極が増えたのではない。以前は「多極化」だったわけで、極が2つに減ってしまったのである。これは、1つの物差しに対して1か0かで判断するから2つになるわけで、事実上の一極集中である。つまり、世の中が一極集中になってしまったせいで、歪みがもう一つの極に寄せ集まってしまったのである。

結論。アキバ系オタクは、自分たちが理解されていないなどという間違った考えは捨てよ。本物の女を追いかけてようと、アニメの女を追いかけていようと、女を追いかけている時点で同類だ。同類なら、本物を追いかける方がいいに決まっている。「本物よりアニメの方がいい」なんてのは「逃げ」だ。

ずっと硬派な街だったアキバは、「硬派」が死語になって、変な一般人に占領されてしまった。まあ、私にとっては、大須さえまともだったらアキバなんてどうでもいいのだが。