科学する心

トンデモ科学を批判する人の問題

一時期、擬似科学、あるいはトンデモ科学と呼ばれるものを批判することが流行った。今ではだいぶ下火になったのだが、それは最近「トンデモ科学」があまり現れなくなったせいだろう。これは、おそらく「科学」の地位低下ではないかと私は見ている。つまり、昔あった科学へのあこがれが、最近ではなくなってしまっているということだ。

トンデモ科学批判が大手を振ってまかり通る世の中になったが、どうも私はそれを手放しで喜べない。科学へのあこがれや情熱、ロマンを感じないトンデモ科学批判が多くなってきたからだ。これらを暖かい目で見られる人が少なくなってきたように感じる。

そもそも、「トンデモ科学」という言葉の定義自体が変わってしまっている。もともと、この言葉は「擬似科学」とは違う意味であり、「筆者が意図していない方向から見て面白いもの」という定義だった。つまり、もともと「トンデモ科学」という言葉は、こうした説を肯定的に見ていることになる。もちろん、この「肯定的」というのはその説が正しいと言っているわけではなく、その説は正しくないけど面白いと言っている。そして、別に正しくなくても面白いからいいじゃん、と言っている。これが「暖かい目」である。

「トンデモ科学を肯定するな」とお怒りの方は、三上 晃著「植物は警告する−バイオ・コンピュータの驚異」でも読んでほしい(今でも手に入るかどうかは知らないが)。この本で大爆笑できず逆に怒りを感じる人がいたら、それは非常に問題である。


「トンデモ科学」という言葉が出来た当時の人々にとっては、擬似科学というのはもっと身近な存在だった。日本の上空にはUFOが飛び交っていて、ロズウェルには宇宙人が捕えられていると思っていた。1999年7月には惑星のグランドクロスが起きて地球が崩壊すると思っていた。ユリ・ゲラーが来日した時には皆テレビの前でスプーンをかまえていた。そういう時代を通過した人々が、自省も込めて用いたものである。

今見ればバカバカしい話に見えるだろうが、こうした時代を身をもって体験した人にとっては、これは紛れもない事実である。TVでのUFO関連の番組を問題視している人々が今でもいるが、こうした番組に批判派の人々も出てくる時点で既に大幅な改善である。昔は、こうしたことが当たり前の事として放映されていた。

当時の人のこういう行為を「バカだ」と評する人は、自分のバカさ加減に気づいていない。きっと同じ時代に生きたら同じようにバカな行為をするだろう。当時を生きた人が自嘲的に「オレってバカだったなぁ」と言うのならいいのだが、その当時を知らない人が他人事として「お前らはバカだ」と言うのは結果論である。それは、その時代を生きていなかったから言えるだけだ。単なるバカで済ますことのできない何かがそこにはあったのである。

当時、科学はようやく色々な問題が解けるようになった頃だ。色々な問題が解けるようになったからこそ、人々は科学では解けない問題があることを痛感した。それが当時のSF映画にも色濃く出ていた。スターウォーズでは「フォースを信じろ」だし、スタートレックに出てくるバルカン人は、論理を重んじ感情を抑えようとしながらかつ精神性や儀式を尊んだ。2001年宇宙の旅のラストは言うまでもない。当時、科学と精神世界は対になっていた。

当時は超能力もサイエンスの一つだと一般の人は思っていた。人間の脳にはまだ解明されていない秘めた力があると信じられていた。当時のSF作家は、相対性理論を駆使する一方で、恥ずかしげもなく超能力を描いた。文化的に高いレベルにある知的生命体は、そのうち超人類となって物質の身体を捨て、物理法則の縛りからも抜け出ることができると思っていた。


当時の人と、超能力をバカにする今の人との違いは何だろうか。別に今だって、超能力に関して何か新発見があったわけではない。変わったのは、新しいものや未知のものに対する姿勢だ。「この世界には我々がまだ知らない何かがある」そう思えるかどうかだ。一般人が触れる様々な情報から、「新発見」が無くなって久しい。今の人々は、自分の常識が根底からくつがえるような大発見はもはや存在しないだろうと思っている。

超能力ブームやUFOブームなどが起きた当時は、アインシュタインの相対性理論もまたブームだった。この理論自体はもっと昔からあるものだが、なぜかこの時期になって一般の人々がこの理論を勉強し始めた。当時の人々にとって、この理論はまさに驚天動地の理論である。時空はゆがんでいて、時間の流れは一定ではなく、速いロケットに乗っていると時間の流れが遅くなるというのだ。この理論は目に見える結果がわかりやすかったため、一般人の興味をひいた。量子論も同じくらい驚天動地の理論だったけれど、一般人には結果がピンとこなかったから流行らなかった。「長さ」や「時間」という、一般人にはなじみの深いものの普遍性が否定されたのが大きかった(それだけに、反発も大きかった)。

当時の人々は、自分達の常識はいつ壊れてもおかしくない脆いものであると思っていた。この広い世界には、もしかしたら念力で物を動かせる人がいるのかもしれない。もちろん、今まで積み上げてきた科学理論では不可能であることは知っている。しかし、それらの科学理論は完璧ではない。だから、「既存の理論では説明できない」というだけでそれを否定することはできないのだ。

正しいか間違っているかがわからないことを、「正しいかもしれない」と思わずに、「正しいか間違っているかがわからないから意味がない」と言うだけでは、本当に意味がない。わからないことをわからないまま放っておいたら、永久にわからないままだ。わからないことを「正しいかもしれない」と思って探究するからこそ、わかるようになる。

これが「科学する」ということである。科学というのはすでにそこにあるものではなく、行為なのである。人が既に「科学した」結果をただ暗記するだけでは、科学したとは言えない。まだ誰も解明したことのない謎に取り組んでこそ、科学したと言える。しかも、ただ謎に取り組むだけじゃない。普通の人が疑問に思わないような謎、普通の人は「当たり前じゃないか」で済ますような謎こそが、本当の謎である。誰も解明したことがないだけではなく、誰も解明しようとさえしなかった謎を解明してこそ真の科学者だ。(ここまでできる人はなかなかいないが)

確かに、トンデモ科学者はバカで身の程知らずだ。しかし、だからこそ暖い目で見る。時代を進歩させるのはいつも身の程知らずなバカなのである。


トンデモ科学批判の問題がもう一つある。トンデモ科学の問題の本質を見誤っていることだ。科学とはつまるところ解釈であり、解釈には意味が伴う。意味は論理では割り切れない。科学では、意味を扱うことができない。

例えば、「高いところから重いものと軽いものを同時に落下させると、同時に地面に落ちる」という法則がある。しかし、実際に実験してみれば、同時に落ちることはないということがわかる。鉄球のような重いものは速く落ちるし、羽のように軽いものはゆっくり落ちる。「だから、この法則は間違いだ」と言う人に対して、どう反論すればいいだろう。きっと、「いや、それは空気の抵抗があるからだ」と言うだろう。

さて、「私には透視能力があり、封筒の中に書いてある文字を読むことができる」と主張する人がいたとしよう。そして厳密な実験の結果、読むことができなかったとしよう。しかし「ほら見ろ。お前の透視能力はインチキだ」と言っても「いや、それはあなたの信じていない心が私の能力に影響したのだ」と言われるかもしれない。

論理だけ追うなら、「本来なら同時に落ちるが、空気の抵抗があるから同時には落ちない」というのと、「本来なら透視ができるが、それを信じない人が見ていると透視ができない」というのは、同じ論理である。だから、後者の言い訳を問題視するなら、前者の言い訳もまた問題視しなくてはならない。

実験では、どうやっても完璧に理論通り行くことはない。「同時に落ちる」ということは、たとえ空気を抜いて計ったにしろ、測定器の誤差や種々の条件により正確に観測することはできない。「同時に地面に落ちるなんてウソじゃないか」という批判に対して、ある種の言い訳をし続けないといけない。

つまるところ、これは解釈の問題である。それぞれの説は、現実に起きた現象の説明である。説明の評価は、もっともらしいかどうかであって、正しいかどうかではない。「正しい」のは現実に起きた現象だけで、それをどう解釈するかは人間の問題である。

そう考えて見直すと、トンデモ科学の問題の根本は解釈の相違であることがわかる。サイコロの目を当てる予知能力実験をすれば、現実には何回か連続で当てることがある。これを「偶然の結果」とするのか「予知能力がたまたま発動した」とするのか。究極のところ、どちらでもない。ただ「何回か連続で当たった」という事実があるだけだ。この事実をどう解釈するかは、その人に委ねられている。

結局のところ、解釈は「私はこっちの方がもっともらしいと思う」以上のものではないのだ。そして、多くの人がもっともらしいと思う解釈が「妥当な解釈」とされる。妥当な解釈が重要視されるのは、それを聞けば自分ももっともらしいと思う確率が高いからであって、それ以上のものではない。

トンデモ科学が説明の問題であると気がつけば、トンデモ科学の批判の無意味さがわかる。トンデモ科学者が彼なりの論理で現象を自己矛盾なく説明している限り、正しいとか間違っているといった範疇を越えている。正統派科学が与える説明は、彼がした説明よりも皆が納得しやすいというだけのものだ。トンデモ科学者がある説を唱えたとき、「それは間違っている」と言うには、彼の論理で物事を考えないといけない。それをしないなら、せいぜい「もっと納得できる説明がある」としか言えないのだ。やるべきことはトンデモ説の否定ではなく、きちんと自説を述べることである。そして、どちらを取るかの判断は、読者にまかされるものである。

「ゲームは脳に悪い」とか「人間には予知能力がある」といった説を科学で否定することはできない。問題は、「脳に悪い」とか「予知能力」といったあいまいな言葉の定義にあるからだ。そして、これらの言葉の定義は人間が勝手に決めたものであって、どれが正しいということはない。だから、いくら実験をしても、いくら論理を駆使しても、言葉の定義を否定することはできない。


トンデモ科学が面白いのは、常識(科学も含む)に凝り固まった普通の人には思いつかない突飛な発想を見せてくれるからである。そして、科学が面白いのも、常識では思いつかない突飛な発想を見せてくれるからである。いわゆる発想の転換というやつだ。発想の転換ができない人が、旧来の発想のままで新しい発想を批判する。ここにトンデモ科学批判の問題がある。

トンデモ科学者はたいてい冒頭に「今の科学界は頭の固い権威主義者ばかりだから私の説が認められない」とか「私の説は、旧来の定説から外れているというただそれだけの理由で認められないでいる」と書く。本当はそんな理由で認められないのではないのだが、トンデモ科学を喜んで批判する人の多くはそういう理由で批判する。トンデモ科学者の批判は半分当たっているのだ。ちゃんとした科学者は、トンデモ説に逐一ツッコミを入れたりはしない。

「科学」が、今わかっている理論を勉強して覚えるだけのものになってしまっている。そうではなく、「科学する」という動詞で使われるべきだ。科学というのは、新しいことを発見しようとする態度である。今まで他の人達が言ったことをそのまま繰り返して言うだけでは、「科学している」とは言えない。

「科学」の意義は、誰かが発見した方程式を覚えて使えるようにすることじゃない。自分が疑問に思ったことの答えを、自分の力で見出すことにある。だから、「アインシュタインは間違っている!」と言う人の方が、それに対してどこかの教科書を引用だけして「間違っていない」と言う人よりも、はるかに「科学する」心を持っている。自分の頭で考えて、自分なりの答えを出している。残念ながら結論は間違っているわけだが、考えてないよりはずっとマシだ。


身近なところから、「わからないこと」がどんどん減ってきてしまっている。ここで言う「わからないこと」とは、自分がわからないというだけではない。まだこの世の中の誰も解明していないことである。もちろん、解明されていないことなどいくらでもある。しかし問題は、それが一般人(特に子供)の目に触れないことである。

科学が進歩しすぎて、常識との乖離を起こしている。その一方で、科学が浸透しすぎて、それが本来持っている現実との乖離を意識できなくなってしまっている。だから、まだ解明されていないことは「解明されてない」とすら気づかないし、解明することが重要な課題だとも思わない。その一方で、既に解明されていることは当たり前のこととして受け入れ、それが本来持っている驚きや意外性を感じない。これによって、科学の「ロマン」が失われていく。

「重いものも軽いものも落下する速度は同じ」と勉強した時に、「ウソだろ!?重いものの方が速く落ちるに決まってるじゃないか」と思うかどうかだ。重いものの方が速く落ちる。これが常識。だからこそ、科学を学ぶことに意味がある。疑問を持つ前に答えを学んでしまうから、疑問を持つことの大切さがわからなくなってしまう。

今思えば、UFOや超能力なんかの非科学的な番組は、むしろ科学にとってはプラスに働いたのではないか。ムチャクチャなことを言ってたから、かえって自分で本当の答えを捜そうという気になった。UFOブームがあったからこそ、惑星の配列も覚えているし、くじら座タウ星やエリダヌス座イプシロン星なんてのも覚えている。UFOブームがなければ、「コスモス」や「パワーズオブテン」みたいな優れた科学番組も観る機会がなかったかもしれない。あんな時代に育ったからこそ、大人になっても科学教材を買って実験してみたいと思うのだ。(もちろん、このあたりはどれがどの影響とは言えず、いろんなものが互いに影響し合っているわけだが。)

科学は、常に夢とかロマンといった言葉と対になっていた。そこには常識を覆す意外性と、固定観念を打ち破る柔軟性があった。そして、それは現実に起こった出来事に対して「なぜだろう」と疑問に思い理由を突き止めようとする欲求から始まっている。妄想によってだいぶねじ曲がったものであるにせよ。

トンデモ科学に対して、この基本姿勢を否定するような批判を見かける。そういう奴が「科学」を標榜するのを見ていると痛々しい。彼らは、「科学する心」の搾りカスを科学と勘違いしているのだ。

最近、「科学」が安定した強固な土台だと思っていて、それに乗って安心しきっている人が増えてきた。そうではない。科学というのは不安定でちっぽけな土台であり、いつ転覆するかわからない。そんな土台の上で、転覆しないように慎重に一つ一つ物事を積み重ねていくからこそ、素晴らしいのである。


最後になってしまったが、念のため書いておく。人の金をむしり取るのが目的の詐欺師はここの話の範囲に入っていない。そういう奴は、科学の問題ではなく金をむしり取ることが問題なのだから、全然別の問題である。