消費社会

与えられるもので満足してしまうこと

「理系離れ」が叫ばれて久しい。これに対して一部の人は学校で理科の時間が少ないからだとか理系の技術者の賃金が少ないからだとか言っているが、そういううわべだけの理由ではなく、もっと直感的な理由があることを多くの人は感じとっていると思う。1970年代にはあったが今はなくなってしまっている、あの雰囲気のことだ。

理系の技術者の賃金がなぜ低いか。それは、技術者はとてもやりがいのある面白い仕事だからである。面白い仕事だから、多少賃金が低くても喜んでやる。極端に言えば、メシを食わせてもらえて会社の金で自分が作りたいものを開発できれば、後は何もいらないのである。そう思える人が減っているのが「理系離れ」である。

理系離れの一つの理由には、すべてを「お金」でしか判断できない風潮にもある。そしてそれに加えて、モノ作りの喜びを理解できないという問題がある。これは今までに何回か述べた、「自分の価値観」の問題である。モノ作りの喜びは「喜び」としか言えないものであって、わかる人にしかわからない。

さて、それは今回は置いておくとして、もう一つの大きな問題がある。それは、モノ作りの喜びを知る機会が少なくなっていることである。モノを「作る」ことをしなくても良くなってしまったからである。


マイコン黎明期の頃、自作と言えばICを買ってきて自分でハンダ付けすることだった時代には、そうやって作った自作マイコンの方がメーカー製のマイコンより出来が良かった。Apple などはそうやって始まった。

昔は、メーカーと個人の力の差があまり大きくなかった。メーカーの方が、マーケットの問題や収益の問題という足かせをつけていた分不利だった。だから、設計コストや製作の手間、そして実用性を度外視できる個人は、メーカーよりある意味有利だった。しかし、やることが大規模になって高度な設備が必要になり、個人とメーカーとの力の差はだんだん広がった。今では、モノ作りの面で個人はメーカーに太刀打ちできない。

今では、PCを作るというとマザーボードにCPUとグラフィックボードを載っけてくっつけるだけになっている。だから、今「PC製作コンテスト」をやろうとすると、ケースの奇抜さを評価するか、組み立ての速さを競うかくらいしかない。PCの設計という技術的なテーマでコンテストを開くことができなくなっている。PCの設計はもはや個人の手の届かないものになってしまった。

PCの自作に対する考え方の変化が、今回の内容を端的に表している。モノ作りが「設計」から「選択」へと変わったのだ。CPUを選び、マザーボードを選び、グラフィックボードを選び、HDDを選んでDVD-ROMを選んでケースと電源を選べばPCが出来上がる。PCショップに売っている中から選択しただけのものを「モノ作り」と呼んでよいものか。


もはや、自分でモノを作る必要のない時代に入った。自分で何を作っても、それはもはやメーカーが作ったものに太刀打ちできない。昔と違って、自分で作った方が安くて高性能だという製品がなくなった。個人ができるのは、そうした製品群から自分の目的に合ったものを選択し組み合わせることだけである。

もちろん、モノを自分で作ることもできる。しかし、そうやって作ったモノは既製品より劣る。だから、どうしてもモノ作りをしたい人は、そこのところを割り切って、「自分は本当に良いものを作りたいんじゃない。ただモノ作りを楽しみたいんだ」と思うしかない。しかし、これにはどうしても寂しさがつきまとう。せっかく作るからには、自分の欲しいものを作りたい。たいして欲しくないものを作りたくはない。

別にPCのような複雑なものでなくてもいい。棚や台みたいな日曜大工の話の方が身近でいいだろう。ちょっとした棚が欲しい時、板を買ってきて自分でのこぎりを引くだろうか?昔の人はこれをやった。なぜかというと、種類が少ないためちょうどいい棚があるとは限らないし、売ってても高いからだ。しかし、今の人は完成品を買ってきて済ます。大きな店に行けばいろんな棚が売っていて、そこから選ぶことができるからである。

昔は、個人が欲しいと思うようなものの最大公約数的なものが商品として作られ売られていた。だから、それは多くの人のニーズには合うが個人のニーズにぴったり合うことはなかった。さらに、そこにはメーカの利潤や人件費が上乗せされていたから、自分で作るより高かった。しかし、今では個人のニーズに合わせて様々なものが売られている。そして、製造方法自体が個人で作るよりずっとコストが安く済むようになっているから、人件費や利潤を乗せてもまだ安い。だから、それを買ってくるだけで済む。

こんな時代になってしまっているということを考えると、すべてをお金でしか判断できない風潮も仕方がない。お金さえあれば何でも買えるのだ。これは「お金では人の心は買えない」というような話ではない。昔は、いくらお金があっても、商品化されていないものは買えなかった。一般大衆の最大公約数的なしか商品化されず、従っていくらお金を出してもそれが売ってなければ買うことはできず、自分で作るしかなかった。しかし今では、個人が欲しいと思う程度のものはみな商品化されるようになってしまった。

今の人は、何か欲しいものがあったら、まずそれが店に売っていないかどうかを探しに行く。昔の人はそんなことはしなかった。なぜなら、それが店に売っているものなのかどうかは、わざわざ調べなくてもすぐ判断がついたからである。そしてそれは、店に売っているものの種類が少なかったからである。店には当たり前のものしか売っていなかった。今では、欲しいものは何でも、たとえ自分が知らないものでも店に行けば売っていると思っている。


今ではさらに発展して、メーカーがニーズを積極的に作るようになった。みんなが欲しがっているものを作るのではなく、メーカーの側からニーズを先読みして、こういうものを作ると欲しがる人がいるだろうというものを作るようになった。

「ほら、こんなのいいでしょー。欲しいでしょー」と積極的に個人にはたらきかける。その結果、それが欲しくてたまらなくなる。そんな商品の存在を知らなければまったく不満に思わずに生活していただろうに。例えば大画面プラズマテレビ。もちろん、映画マニアやスポーツマニアにとっては夢のテレビだろう。しかし、多くの人は、「本当に大画面プラズマテレビが欲しいか?今のテレビじゃダメか?」と聞かれると、うーんとうなってしまうだろう。別に今のテレビでも特に不満があるわけじゃない。でも、今のテレビが古くなったらプラズマテレビに買い換えようと思う。同じテレビを買えば価格は十分の一で済むのに、である。

個人の「欲しい」という欲求は、「欲しいから商品を探す」から「商品を見て欲しいと思う」へ変わりつつある。これが「お金さえあれば欲しいものは何でも買える」という風潮にさらに拍車をかける。「欲しい」という感情が、店で商品を見て湧き上がる感情であるとしたら、そりゃ欲しいものはお金さえあれば何でも買えるわなぁ。

そういうわけで、消費者の方が生産者より上の立場になった。昔は、消費者が「こんなのをください」と生産者に頼むという格好だった。それが今では、生産者が「こんなの作ってみました。買ってください」と消費者に頼むという格好になっている。そして、消費者は、それが必要なものではなくても、「欲しい」という感情をかきたてられて、買ってしまう。

「立場の上下」とは、つまり能動性の問題である。以前は、消費者が能動的に「欲しい」と思い、生産者は欲しいと思われているものを作った。しかし、今は生産者が能動的に「売りたい」と思うようになり、消費者はその中から財布と相談して買えるものを買うようになった。

消費者が食べたいものを自分で手にとって食べるのではなく、生産者が食べさせてくれるようになった。もちろんイヤイヤをすればすぐ止めてくれるが、また別のものを口につっこまれる。これを続けると、空腹感を感じることができなくなってしまう。空腹感こそ「食べたい」という欲求の根源だというのに。


最近では、ケータイのない生活が想像できない人が結構いるらしい。これは文字通りの意味ではないだろうが、なんとなく感覚はわかる。ケータイはいつの間にか生活に侵入してきて、いつの間にか無くてはならない存在になってしまっている。

ケータイのなかった頃には、「ケータイ」という概念すらなかった。人々は、電話の進化方向はテレビ電話であり、電話を携帯する必要なんてどこにもないと思っていた(なお、なんとか警備隊みたいなのが持っていたのは電話ではなく無線機である。念のため)。ケータイがなかった時代の人は、ケータイが無いことをまったく意識していなかった。「ケータイのない生活」を「ケータイがないことを意識する生活」と読み換えれば、こんな生活は存在しなかったのである。

この境界が、「古き良き昭和時代」と呼ばれる1970年代にある。この時代までのモノは、冷蔵庫や洗濯機、カラーテレビ、クーラー、自家用車など、どれもその効用がわかりやすい。これらのモノは、人々が「こんなものがあったらいいなぁ」と思っているものの具現化である。だから、クーラーのなかった時代は存在する。クーラーそのものはなかったけれども、「ああ、このクソ暑い部屋が涼しくなる魔法の機械があったらなぁ」と思ったことはあるからだ。この古き良き昭和時代は、ずっと人々が思っていた願望がかなえられた時代だったから、「古き良き」と呼ばれるのだ。

今では、「欲しい」という欲求は商品の方から植えつけられるものになってしまっている。ケータイを持っていない時には欲求自体が無く、ケータイを使うことで「ケータイは便利なものだから欲しい」という欲求が生まれる。何だか変な話だが、この欲求は生まれたと同時に満たされる。すると、これは常に満たされていた欲求が満たされなくなった時の不安にとって代わる。その欲求は満たされなかったことがないから、もし万が一満たされなくなったらどうなるのかがわからない。その欲求がどのくらい強いものなのか、自分でも評価できないのである。

節約の話やお金のない人と付き合う時の話に、「生活レベルを落とさず」という言葉が出る時がある。この言葉に同様の不安を感じる。今まで通りの生活が出来なくなった場合、どうなるのかがわからない不安である。もっと具体的に「こんなことがしたい」「こんなことができないのは嫌」というのがあるのなら、それができるように考えればいい。しかし、漠然とした「生活レベル」の不安は解消できない。これは、「生活を変えずに生活を変えたい」という矛盾した感情だ。

生活を思い切って変えてみると、今まで無くてはならないと思っていたものは実は無くてもたいして困らないことに気づく。江戸時代の人は何もなくても楽しく暮らしていたのだから、生きていく上で本当に無いと困るものはほとんどないのだ。そう考えれば、「無いと困る」から「有るとうれしい」へ意識を変えることができる。その上で、本当に欲しいものを買えばいい。


最近では、ネットのせいで情報まで供給過剰になってきている。何か疑問が起きたら、考える前にまず探す。最近の検索エンジンは賢いから、探せばそのものずばりの答えが出てくる。

さらに言えば、疑問が起きる暇もない。ネットの面白いページのリンク集を順番に見てると、「○○なのはなぜでしょう?」と問いかけがあり、それを見て自分も「ああ、確かに今までそんなことを考えたことはなかった。なぜなんだろう?」と思い、そしてそのすぐ後にある分かりやすい解説を見て「なるほど。そういうことだったんだ」と納得する。すべてがそこで完結してしまう。

こんなページを順番に見ていくと、何だかいろんなことが分かったような気になる。しかし、これでは「疑問に思うこと」と「解法を自分で考えること」という2つの大事なことを学べない。問題を自分で解決することができなくなる。我々が本当に身に付けなければならないのは、問題に対する答えではない。自分で問題を見つけ、それを自分で解く方法である。これは、教えられて身に付くることではなく、自分でやって初めて身に付くことである。

そういえば、どこかの豚が「視聴者の見たいものを見せる」と言ってたなぁ。これがメディアの仕事だなんて思っている奴は、視聴者をバカにしている。賢い視聴者は、「ほら、これがあんたの見たいものでしょー。見せてあげますよー」なんてヒラヒラさせてるのを見ると、「俺をバカにしてるのか」と思う。自分はまだ「見たいものしか見ない」ほど落ちぶれちゃいない。

モノの洪水が「欲しい」という感情を殺すように、情報の洪水が「知りたい」という感情を殺す。「何を」の部分が抜け、何でもいいから知りたいと思う。自分で情報を取得する能力を失い、ただ心地良い情報を心に流して満足するだけになってしまう。見たいものを見て満足してしまう。


欲しいかもしれないものがどんどん供給され続けることで、その人の意識も変わってしまう。自分で欲しいものを作ろうとしないばかりか、探そうともせず、ただ与えられたものが欲しいか欲しくないかを決めるだけになってしまう。受け身の姿勢が定着してしまう。それを続けると、自分が本当に欲しいものがわからなくなってしまう。

与えられたものにクレームをつけておしまい。クレームをつければ相手が何とかしてくれると思っている。自分は受動的な立場で、ただ与えられ続けるものをむしゃむしゃ食べ、まずければ吐き出して「食べられないじゃないか」と文句を言う。無責任な態度である。もちろん、そういう態度では責任を持てるわけはないのだが。

店で商品を買ったことを、モノと金との等価交換だと思っていない。お店の人に頼まれて、仕方なく買ってやったのだと思っている。それを買うのは自分が望んだことではないと思っている。それはある意味あたっている。なんとなく新しいテレビが欲しいなぁと思って電器屋へ行き、そこで大画面のきれいな映像とセールストークにのせられてプラズマテレビを買ってしまったのだったら、それは「買った」のではなく「買わされた」のだ。「ウチのテレビも古くなったのでそろそろ買い換えようかと思っているんですけど、何がいいでしょうねぇ」だと?自分の欲しい物くらい自分で考えろ!つべこべ言わずに一番高いの買え!とは店員は言えず、実のところどれを買っても大差ないテレビの機種選びに付き合ってやることになる。そして挙句の果てに「あんたが勧めたテレビを買ったら大きすぎて部屋に入らなかった」などと文句を言われる。てめぇの部屋の大きさなんぞ知るか!

こういう態度でいると、喜びを感じる機会がだんだんなくなってくる。常に欲求は満たされていて、それが当たり前だと思っているから、たまに欲求が満たされなくなると激しい不満を感じる。逆に、いつもは欲求が満たされてなくて、それが当たり前だと思っているなら、欲求が満たされた時に喜びを感じる。

理系の喜び、いや学問すべての喜びは、後者である。世の中は分からないことだらけであり、分からなくて当たり前だ。だからこそ分かった時の喜びは大きい。しかし、受け身の態度が定着してしまうと、分からないことによる不満を感じて、自分で考えることをせずにすぐにそれを投げ捨ててしまう。そして、何もしなくても満足を与えてくれるものしか受け入れなくなる。こんな態度を続ける限り、「モノ作りの喜び」はきっとわからないだろう。

理系離れ(本当は学問離れと呼ぶべきものだと思うが)は、人を常に満たされた状態に置くことから生じる。無気力や消極性なども同根であろう。いつもの状態で満足してしまい、そこから外れることを嫌う。満足できない状態に陥ることを嫌う。何かができなかったり、わからなかったり、傷ついたり、苦労したりするようなことは最初からしない。何もしないでいて何も起きないことを望む。不快なことが何も起きないことがすなわち満足だと思っている。

満足した豚であるよりは、不満足な人間であるほうがよい。そのためにはどうすればいいか。食べさせてくれるのをいったん拒否して、食べたくなるのを待ってから改めて自分の力で食べるようにすればよい。