理想と正義

自分の価値観を持つということ

前回、「理想の自分」という話をした。しかし、何か勘違いされそうな気がするので、「理想の自分」の話を詳しく書くことにする。

「理想の自分」には2種類がある。一つは、前回に書いた、「欠点のない素晴しい自分」という幻想だ。もう一つが、目標としての自分の理想像だ。

結論から言うと、まず前者を持ち、それを捨て、後者に持ち換えるべきだ。「素晴らしい自分」で止まってしまっていては良くないが、それすら持てない人はもっと良くない。


「素晴らしい自分」と書いたが、本当は逆で「自分は素晴らしい」と書くべきところだ。自分は素晴らしい存在で、世界に唯一無二の存在であり、(自分にとっては)他の誰よりも価値がある。そして、誰も自分の存在の素晴らしさを否定することができない。こういう考え方である。

こうした考え方は、人間が生きていく上で無くてはならないものである。普通の人は、子供の頃にこうした考え方を心の奥底に刻み付けられる。するとこれは一生消えずに残り、無意識のうちに維持される。繰り返し強調しておくが、人間はこういった考え方を持たないと生きていけないのである。

しかし、これを心にしっかり刻み付けることに失敗すると、こうした考え方を維持していくのに苦労することになる。自分が一番大事だということに理由が必要になる。そこで「素晴らしい自分」を作り出すわけである。「自分はこれこれこういう理由で素晴しいのだから、一番大事なんだ」と思い込むようになる。

具体的な「素晴らしい自分」を作ってしまうと、後が大変だ。常に自分を「素晴らしい自分」に保っていないといけないからである。例えば「美人だから自分は素晴しい」と思っている人は、美人でなくなったら「自分は素晴らしい」と言えなくなってしまう。だから、常に美人でいるようにしなくてはならない。それに対して、「自分は素晴らしい」を心に刻みつけることができた人は、どんな状態になっても「自分は素晴らしい。これは定義である。証明終わり」で済む。

自分が素晴らしいことに理由を求める人は、どうしても行動が現状維持になる。なぜなら、「素晴らしい自分」は、最初に「自分は素晴らしい」という考え方が必要になった時に、その当時の自分が素晴らしいことの理由付けとして用意されたものだからだ。過去には実際にそうであった(と自分が思い込んでいた)自分だからだ。そして、それからできるだけ外れないように行動する。

自分の価値を自分で認めることができない人は、自分の価値を人に認めてもらわなくてはならない。この時点で既に、自分の価値を自分で認めることができる人に比べて大きな制約を背負っている。価値を認めてもらうために、多大な時間と労力を費さなくてはならなくなるからだ。ちなみに、ここで自分の価値を認めてもらうことをあきらめてしまうもっと困った人もいるのだが、今回はその話は置いておく。


やがて、自分の生活の中に他人が入ってくるようになると、「他人は自分ほど自分のことを素晴らしいと思っていない」ということに気づくようになる。「私は一番価値がある存在なのに、Aさんは一番価値がある存在は私ではなくA さんだと主張する」という矛盾が生じる。

この矛盾を解決するために、「自分の価値観」という考え方が形成される。つまり、「価値」には「価値観」という物差しがあり、それが人によって違っているという認識だ。「私は一番価値がある存在」というのは私の価値観においての話で、「一番価値がある存在は私ではなくAさん」といのはAさんの価値観においての話だ。価値観が違うのだから同時に成り立っても矛盾はない。

「自分が一番価値があると思っているのは自分だけ。でもそれでいいんだ」と思えるようになることが重要である。Aさんにも自分が一番だと納得させる必要はないのだ。これを発展させると、「価値というのは各自が勝手に決めるものであり、他の人と同じである必要はない」という考え方になる。これが「自分の価値観を確立する」ということである。

結局、「価値」というのは、「暑い」とか「甘い」というのと同じような「感覚」なのである。価値観は感じるものであり、考えるものではない。理由がいるものでも、納得すべきものでもない。自分が価値があると感じたものには、たとえどんな理由があろうと、どんなものであろうと、自分にとっては「価値がある」のだ。そして、それでいいのだ。


自分の価値を自分で認めることができない人は、こうした考え方に到達することができない。自分が一番価値があるとは自分ですら思っていないからだ。まだ考えが浅いうちは、ちやほやされると何だか他の人も自分の価値を認めてくれているような気になっていた。しかし、そのうち相手の真意がわかるようになってくると、そういうのが口だけの偽物であることがわかってくる。

そこで、「自分の価値を認める何か」を探す旅に出る。多くの人は、単なる比喩ではなく本当に旅に出る。こうした旅を批判する人もいるが、私は一定の効果はあると思っている。重要なのは孤独になることである。一人旅をして、いつもの環境とはまったく違う環境に身を置いてみること、本当に誰も自分に干渉してこない時間を持つこと、客観的にどう考えても自分の価値を説明できないような状況になることは、本当の「自分の価値」を見出す上で有効だ。

これが、いわゆる「自分探し」の旅である。「自分探し」の意義は、懸命に探し回っても見つからないものだということを身をもって体験することにある。答えは自分の外にはなく、自分の内に存在するのだ。自分を「探す」のではなく、「見つめる」ことが重要なのだとわかるために、あえて探すのである。

ただ、たまに孤独に耐えられなくなって、適当に身近なものを「自分の価値」だと思い込んでしまう人がいる。あるいは逆に、答えを渇望するあまり、立ち止まって考えることをせずにがむしゃらにいつまでも旅を続けてしまう人もいる。こういう人がいるから、「自分探しの旅」はよく批判される。この批判ももっともだ。

しかし、「自分探しの旅をするやつはバカ」と言ってあざ笑うのも良くない。誰でも最初はバカなんだから。価値観は感覚なのだから、いくら頭でわかっていても、それを感じることができなければ自分のものになったとは言えないのだ。「自分探しの旅」を単にあざ笑う人は、まだ自分の価値について疑問に思う域にまで達していないのだ。自分もそれを通過してきた人なら、笑うにしてもせいぜい「まあ、若い人は誰でもかかるはしかみたいなもんだよ」と言うだろう。困ったものではあるが、やっておかないと免疫がつかない。


自分の価値観が確立すると、人の評価を気にしないで良くなる。その反動で、人の評価を無視するようになる。わざと人に評価されないこと、例えば悪いことをしてみたり、流行遅れのものや他人がまったく評価しないものをありがたがってみたりする。これによって、他人がまったく評価しない事でも自分は評価できるということ、そして、それでいいのだということを確認する。これがいわゆる反抗期である。

反抗期を過ぎると、自分の価値が確立されるため、わざわざ反抗して自分の評価を試す必要がなくなる。自分の価値は他人と違っていてもいいが、他人と同じでもいいのである。そうなれば、どこかの政治団体みたいに「反対」しか言えなくなるようなことはなくなる。人の評価を聞かないのではなく、聞いて自分で判断するようになる。もしそれが不必要なものだったらゴミに捨てればいいだけだから、マイナスにはならない。聞けば聞くだけ得というわけだ。

自分だけの「価値」を作ることができたなら、その上に自分なりの理想像を作り出す。これは、「自分はどういうことに価値を見出しているか」という像である。「なりたい自分」であり「自分のあこがれ」である。

そうすると、人間の行動目的が「自分の価値を認めてもらうように頑張る」から「なりたい自分になるように頑張る」に変わる。自分の行動目的から他人の干渉がなくなって、自由に行動ができるようになる。人間は、自分の価値観を確立しないことには、本当の意味で自由とは言えない。なぜなら、自分の価値観がないと、自分の行動は他人によって決まってしまうからだ。自由とは、行動を自分の価値観で評価して決めることだ。

「なりたい自分になる」ことを「向上心」と呼ぶ。自分が上だと思う方向へ向かっていきたいと願うこと、そしてそれだけを純粋に願うことである。


「素晴らしい自分」と「なりたい自分」は似ているので、混同する人がいる。どちらも人間の行動目的になるものだからだ。しかし、「素晴しい自分」は他人が認めてくれなくては意味がないのに対して、「なりたい自分」は自分が認めればそれでいい。

自分の価値観が確立している人にとっては、「なりたい自分」は何よりも重要な行動目的である。その際たるものが自己犠牲である。例え自分が死ぬことになっても、「なりたい自分」になろうとする。自己犠牲は自殺とは違う。死にたくて死ぬのが自殺だ。自己犠牲は、当然死にたくはないがそれより「なりたい自分」を優先することだ。だから自己犠牲は尊いのである。

自分の価値観が確立していない人には、「なりたい自分」が理解できない。人間の行動目的が、自分の利益以外にあると思うことができない。それで、「口ではああ言っているけど、きっと裏で儲かるようになってるんだ」とか「きっと人気取りだよ」などと解釈する。これが俗に言う「陰謀論」である。

そういう人達は、「人間、きれい事だけで行動するわけがない」と言う。これは間違いだ。ここでいうきれい事とは、「なりたい自分」である。誰しも、「清廉潔白で公正な人間」と「自分勝手で私利私欲に走る人間」のどっちになりたいかと言えば、その他の前提をすべて抜きにして考えるなら前者になりたいと思うだろう(反抗期の人は例外だが)。問題は、そういう「人間的にきれいでありたい」欲求が、どこから出てくるかである。自分の価値観が確立していない人は、これは「そういう人間であれば他人が認めてくれる」という所から来ている。それに対して、自分の価値観が確立している人は、その価値観そのものから来ている。

自分の価値観が確立している人にとっては、例えば「清廉潔白でありたい」というのは、「腹が減ったからメシを食いたい」と同じような、自分の心からの欲望なのである。そして、それは普通の欲望と同じように処理される。そこに何ら裏の意図はないし、理由を人にも説明できない。聞かれたらただ「それがカッコいいから」とか「そういう生き方が好きなんだ」としか言えない。そして、こうした行動理由は、「自分の価値観」というものを理解できない人には永久に理解できない。


自分の価値観が確立していない人にとっては、例えば「清廉潔白でありたい」という考え方は、「称賛されたい」とか「仲間外れにされたくない」といった他人との関係において生ずる。つまり、清廉潔白であっても他人が称賛してくれないなら、清廉潔白である必要はないわけだ。自分がどう思うかより、他人にどう思われるかの方が重要になる。

困ったことに、現代社会では称賛されるものの一般認識が分裂して、人によって言うことが違ってきてしまっている。ある所では「ボクは盗みはいけないことだと思います」と主張することがよいとされ、ある所では「ゲームなんて全部裏サイトからダウンロードしてこればいいんだよ」という主張がよいとされる。そして、相手によってこれらを使い分ける。今この場ではどういう考え方が称賛され、どういう考え方をすると仲間外れにされるのかが「場の空気」である。

つまり、人はその場にふさわしい「素晴らしい人物像」を素早く察知して、それに自分を合わせなければならないという考え方である。その場その場で「素晴らしい自分」を入れ換えなくてはならない。昔は「場」が「世間」ただ一つしかなかったから、世間で通用する「素晴らしい自分」を一つだけ作っていれば良かった。具体的かつ単純に言えば、金持ちにさえなれば皆が尊敬してくれたのである。しかし今では「場」がだんだん小さくなってきてしまって、複数の場を渡り歩くようになってしまった。

しかし、これは同時に、一貫した「自分」というものが持てないという問題でもある。ある場所での自分の振舞いと別の場所での自分の振舞いが互いに矛盾するかもしれないのである。実生活では、この矛盾は遅かれ早かれ見つかってしまうものだから、できるだけ避けようとした。妻に黙って浮気をしてもそのうちバレてしまうということが、浮気そのものへの抑止になっていた。しかし、ネットにはそれがない。匿名で書くならば、どこで何を書いてもその間のつながりはバレることはない。だから、その場に合わせることで安心してその場に居続けることができる。


ネットのおかげで、自分と「場」とのつながりは自分で好きなようにコントロールすることができるようになった。そして、ある場と別の場とで同一の「自分」のままでいる必要もなくなった。これは「素晴らしい自分」を維持する上では非常に楽なことだ。

「素晴らしい自分」のつらさは、いつか自分がそう認めてもらえなくなってしまうことに対する恐怖であり、社会が認める「素晴らしい自分像」に自分を合わせていかなくてはいけないという労力だった。しかし、ネットはその制限を取り払ってしまった。ネットを探して、自分好みの「素晴らしい自分像」がある所を探し、さらにそれに合っていない部分は切り離して忘れてしまうことができる。

現実とネットの大きな違いは、ネットでは自分の見せ方を自分でコントロールできる点にある。「素晴らしい自分」でない部分は、見せなければいいのだ。現実では嫌でも見られてしまう部分も、ネットでは自分から見せようとしない限り見られることはない(まあ、見る目のある人が見れば透けて見えてしまうのだが)。

その代償として、ありのままの自分、自分のすべてを一括して受け入れてくれる場所を失う。どの場所にいても、自分のすべてを出すことはできなくなる。その場における良い面だけを出し、悪い面は隠さなくてはならない。これは逆に言えば、「自分を丸ごとありのまま受け入れてくれる場所はどこにもない」ということだ。自分の良い面だけを出しているのだから、受け入れてくれるのは当たり前。本来は受け入れられないはずの人間が、他人を騙して受け入れさせているのだ。

これは、ある意味当たっているから始末に悪い。自分を丸ごと受け入れてくれる場所は、自分の中にしかない。そして、こういう人には自分の価値観が存在しないのだから、自分の中にもない。その人の言う通り、どこにもないのである。「本当の自分は誰にも受け入れられない」のである。

問題は、「なければ作ろう」と考えないことである。「ない」で終わってしまっている。最初から存在しないと思っていて、探そうとも作ろうともしない。そうやって、価値観をその都度合わせ続けて、過去のことは別人のしたことだと思って忘れることで、「素晴らしい自分」を保っていこうとする。

このような、外から決められる「素晴らしい自分」を保っていこうとする態度と、自分の中にある「なりたい自分」になろうとする態度は、その人がやっていることだけ見れば非常によく似ている。しかし、その人の態度を連続して観察することができればその違いはわかる。前者が態度をころころ変えるのに対して、後者の態度は一貫している。一貫しているが、柔軟に変化させることができる。


実際のところ、「なりたい自分」は社会が規定する「規範」とあまり違わない。多くの(まともな)人々が思う「なりたい自分」の共通項が「規範」だからである。だから、自分の価値観を確立した人は、「規範」に盲従する人とかえって区別がつかなくなる。

「自分の価値観」の意味がわからない人は、そういう人を「社会の規範への盲従」としか見ることができない。そして、「社会の規範」という一つしかないものに盲従せず、数ある「場」の空気を読んで適応できる自分たちの方が優れていると思っている。本当の問題は「盲従すること」であり、自分達がやっていることも数ある場への「盲従」であることがわかっていない。世の中に「盲従」以外のものがあることを知らないのだから、ある意味仕方がないのだが。

自分の価値観を確立していない人は、相手も自分と同じように、考え方が「場の価値観」に操られていると思っている。そして、場の空気を作り出すことで、相手の考え方を変えることができると思っている。まあ、価値観という概念自体が理解できないのだから仕方ないが、呪術で人を自分の思い通りに操ろうと思っている人のような滑稽さがある。

昔はそれでも、「社会の価値観」という比較的まともなものが一つあるっきりだったから、そんなに問題にはならなかった。しかし今では、価値観の多様化という名のもと、様々な価値観が乱立するようになった。こうした様々な価値観は、社会の価値観は皆知っていて従っているという前提で作られていることが多い。社会の価値観が生きていた昔ならこれで良かったのだが、社会の価値観も知らない人にこうした「場の価値観」を与えてはマズい。

以前は、「自分の価値観を確立すること」も社会の価値観の一つに入っていた。だから、社会の価値観にとりあえず盲従していれば、そのうち自分の価値観を確立できた。しかし、今ではそれが書いていない価値観もある。そういう価値観を鵜飲みにすると、永遠に自分の価値観を確立できなくなってしまう。