コミュニティの崩壊

なぜネット右翼が増えたか

ネットで、右翼的な発言をする人が増えた(と皆感じている)。ここではこういう人をネット右翼と呼ぼう。わざわざ新しい言葉を当てたのは、これが本当の「右翼」とも違うからだ。

本物の右翼は、我々日本人が一致団結して、お互いを仲間とみなして行動しなくてはならないと説いている。右翼が天皇崇拝をするのも、これが「日本人の魂」であり「日本人の証」だからだ。現代風に言えば、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるからだ。つまり、天皇崇拝とは、それが象徴している日本という国を大事に思っているということであり、同様に日本という国を大事に思っている人の集団が日本という国である。

で、これは実を言うと、市民運動家などの、今皆が左翼だと思っている人々にも通じる考え方である。こうした人々は、我々地球人が一致団結して、お互いを仲間とみなして行動しなくてはならないと説いている。つまり、「仲間」の範囲が日本か地球全体かというだけで、同じことを言っている。

私はここでどちらが正しいと言うつもりはない。あえて言えば、どちらも重要だ。一応、仲間の範囲は広ければいいというものではないとだけは言っておく。

さて、こうした見方でネット右翼を見ると、どうも本物の右翼のような主張はしていないような気がする。ネット右翼では仲間の範囲が「自分一人」になってしまっているのではないか。だとすればこれは究極の個人主義であり、なおかつ非常に寂しい話だ。


ここで書いたような「仲間」が集まってできる組織を「コミュニティ」と呼ぶ。コミュニティの成員はコミュニティのために行動し、コミュニティの幸せが自分の幸せである。コミュニティのものは皆のものであり、コミュニティの問題は成員が皆で真剣になって考える。

コミュニティの中にいれば、人は安心できる。周りの人は皆自分を大切に思っていて、守ってくれるからだ。同様に、自分も周りの人を大切に思っていて、守ろうとする。コミュニティは仲間意識と信頼によって守られる。

例えば、友人同士なら1000円くらいは貸すし、相手もそのままネコババしようとは思わない(忘れることはあるかもしれないが)。友人の悩みは親身になって聞いてあげようとするし、友人が困っていたら損得抜きにして助けようとする。互いに仲間意識と信頼を持っている複数の人が、名前のつくような集団を形成するとそれはコミュニティと呼ばれる。

コミュニティの中では、人は互いに自分の思いや考えを自由に出し合う。これがコミュニケーションである。名前が似ているのは偶然ではない。これはどちらも「共有する」という考え方である。ものや場所を共有するのがコミュニティで、考え方を共有するのがコミュニケーションである。コミュニケーションとは、お互いに仲間意識と信頼を持ち、互いの考え方を共有しようとする行為のことだ。考え方を共有しているから、一体となれるのである。


少し前までは、村や町がその単位だった。おらが村に道路ができるのは、その村の構成員全員の喜びだった。道路をつくるのに反対するのは、村への裏切り行為である。地方へ行けば今でもそんな感じだ。補助金を出す「国」のことは知ったこっちゃない。ここが、国という単位にしか帰属意識を感じていない都会人との違いである。つまり、地方人が国のことを考えられないのではなく、都会人が自分の住む街のことを考えられないのである。そういう人が、「自分たちの村の事ばかり考えて国の事を考えないのはおかしい」と言いながら、せっせと節税に励む。

近年、コミュニティの単位がだんだん小さくなってきた。もはや「隣近所」というコミュニティも通用しなくなり、「家族」すら崩壊寸前だ。それはなぜかというと、人間の行動範囲が広くなったからである。地域のコミュニティは、「縛られる」という要素が重要だからである。近所の人が自分にとってその他の人より特別な存在でなくてはならない。

昔は人間が行ける範囲と行けない範囲がはっきりしていたから、コミュニティがきっちり決まっていた。範囲内の人は全員顔見知りで、範囲外の人には会ったこともなかった。それが、だんだん範囲が広がってくると、会った人が全員顔見知りというわけでもなくなってくる。あちこちに移動していろんな人と会うと、それに反して顔見知りに地域性がなくなってくる。だから、行動範囲が広くなるに従って地域コミュニティは逆に小さくなっていく。


人間の行動範囲が広くなるにつれて、コミュニティは場所を単位としたものではなく、目的を単位としたものになった。会社の同僚とか、サークルとか、オフ会といったものである。

目的を単位にしたコミュニティは、地理的なコミュニティと一つ異なる点がある。それは、同じタイプの人が集まりやすいことである。技術系の会社であれば技術屋が集まる。趣味の集まりであれば、同じ趣味を持つ人が集まる。そうすると、同じような人ばかりの集団になる。

目的を単位としたコミュニティでは、このことから、より仲間意識や団結力を得やすい。考えることが似ているからである。その反面、目的を単位としたコミュニティでは、その目的を持たない人はもはやそこにはいられない。ここが問題である。例えば、「自転車愛好会」だったら、自転車が好きな人々の集まりである。ここには、自転車が好きな人しか入ることができない。もし自転車が嫌いになったら、そこは出て行かないといけないのだ。

たまに「ツーリングにはちっとも来ないのに、飲み会だけには来る」という人がいる。それは、当初の目的はもう欲しくなくなったが、そのコミュニティには入っていたいということだ。こういう場合、その人だけでなく皆が困る。新参者は、「自転車で走るのが好きな人の集まりなのに、その定義に外れた人がいていいのか。こいつは仲間じゃない」と思う。しかし、古株は、その人と以前仲間だったことがあり、一度仲間になったらずっと仲間である。こうして、本来全員が仲間なはずの集団に亀裂が入っていく。


目的を単位としたコミュニティは、亀裂が入りやすい。もともと「同じような人であること」を旗印に集まった人々だから、そうでなくなったらすぐ分裂する。

地域コミュニティは分裂しにくい。なぜなら、そこには「たまたま同じ場所で生まれた」という以外に何の共通性もないからだ。意見が違う人がいて当たり前で、そうしたものを越えて分かり合い、信頼し合う。地域コミュニティは否応なく放り込まれて、しかも誰も拒否することができないから、かえってうまく行く。仲間であることを相手は認めざるを得ない。これがわかっているから、自分も相手を仲間だと認めることができる。

それに対して、目的別コミュニティは、同じ考え方をするから集まった人々である。容易に仲間になれるが、それは「同じ考え方をするから」という理由に基づく。だから、同じ考え方をしないことがわかると、仲間ではなくなってしまう。また、自分の考え方が変わると、これもまた仲間ではなくなってしまう。

そのコミュニティに入っているのに理由が必要だというところが問題なのだ。本来、コミュニティというのは確たる理由なしに入っているものでなくてはならない。「人間同士が仲間になるのに理由はいらない」ということを学ぶためには、目的別コミュニティではダメなのだ。


もう一つ、コミュニティには概念的なものがある。日本とか、アジアとか、世界とかいったものだ。存在はするが、漠然とした存在感しかない。

なぜ漠然としているか。コミュニティであることを認識するには、コミュニティの外を見る必要があるからである。日本に住んでいることを実感するには、外国へ行かなくてはならない。日本とは違う国を体験して初めて「ああ、日本というのは自分にとって特別な場所なんだ」とわかる。

だから、「世界市民」という概念はいささかとっつきにくい。人間は地球の外に出ることは(今のところ)できないからだ。宇宙飛行士が地球を外から眺めてはじめて、こういう概念を実感する。

こうした、あまりにも大きすぎる単位のコミュニティは、普通に暮らしているとどうも実感が湧かない。しかし、今ではメディアがあるせいで、自分が実際に体験したことではなくても、バーチャルにこうした情報を得ることができる。日本にいながらにして、外国へ行った気になって、「ああ、自分は日本人なんだ」と実感することができる。

しかし、マスコミによるバーチャルなコミュニティには問題がある。本来、コミュニティは仲間がいて初めて成立する。人と人とのふれ合いだ。しかし、バーチャルなコミュニティではこれが存在しない。マスコミからの情報は受けるばかりで与えることがない。本来、信頼感は与えることと受けることの両面によって成立する。これができないから、概念的なコミュニティにはどうしても限界がある。


どのコミュニティにも入り損ねると、人は「セカイ系」になる。自分の周りに自分が所属するコミュニティが存在せず、自分の上がすぐ「世界全体」になってしまう。もちろん、世界全体に自分が属しているとはまったく思えない。つまり、世界の中に一人ぼっちだということである。

本当は家族というコミュニティで信頼を学ばねばならないのだが、たまたま崩壊家庭に生まれてこれを学び損ねると、だんだんこれを学ぶのが難しくなってくる。最近では学校でもあまりコミュニティに属することを強制しないし、地域の子供のコミュニティも存在しない。自主的に出ることのできるコミュニティでは、入ろうとして、挫折して、出てきてしまう。挫折したという事実だけが残る。

「信頼する」ということを知らないので、自分の周りは敵ばかりに思えてしまう。そして、敵だと思っているから、相手を信頼できない。相手は自分が敵だと思われていることはすぐわかるから、相手はその人を信頼しない。この繰り返しで、いつまでたっても相手を信頼することはない。

世の中の人はみな自分の敵だと思っている。そして、その中で自分はどううまく立ち回るかを常に考えている。うわべだけ取り繕って、世間に何とかして紛れ込もうとする。対人コミュニケーションの「スキル」を磨こうとする。コミュニケーションが「スキル」だと思っているうちは、いくらがんばっても無駄だ。コミュニケーションはスキルでもなんでもなく、相手を信頼して心を開くことである。相手が自分を信頼する前に、自分から相手を信頼することだ。

誠心誠意でぶつかっていけば、多少失敗しても相手は許してくれる。そして、相手も、誠心誠意でぶつかってきていることがわかっていれば、多少の失敗は許せる。結局、失敗は互いに許し合えば何てことないのである。それなのに「失敗をしないようにしよう」と技術を磨くから問題なのだ。「失敗は許されない」と身構えれば身構えるほど、相手は自分の失敗を許してもらえないんじゃないかと心配になる。相手より優位に立とうとするから、相手に「こいつは敵だ」と思われるようになる。


話を戻そう。ネット右翼の主張を見てみると、今まで述べたようなパターンが浮かび上がってくる。彼らの言うことを見てみると、基本的に安全志向である。何らかの主張をしたいわけではなく、自分を脅かすものを排除したいだけである。「僕たちは静かに暮らしたいだけなんだ」という一言が一番わかりやすい。彼らはいつも敵意に満ちた世界という恐怖に震えていて、自分に向かってくるものがすべて敵だと思っている。だから、自分に何も来ないことを望む。

彼らの特徴は、自分への批判を拒否することである。自分を批判する相手を「批判した」という点でもって批判する。例えば、嫌韓・嫌中がわかりやすい。ネット右翼は、韓国や中国が日本を批判することを批判する。中国の軍事的脅威とか体制とかいったものを批判しているわけではないし、相手がなぜ日本を批判するのかも、何をすれば批判が止まるだろうかとも考えない。ただ、批判されるのが嫌なだけだ。彼らが望むのは、この世に批判というものが存在しなくなることだ。

ネット右翼は、大手マスコミもまた批判する。彼らは大手マスコミを「言論弾圧」と呼んでいて、マスコミがその力で無知な一般大衆を洗脳していると思っている。彼らは、世間一般の人がバカで自分より劣っていて、いつも何も考えていないと思っている。それは、世間一般の人と信頼関係を築いたことがないからである。彼らは「自分が会う人はみな、政治や社会問題に対して無関心な態度をとっている」と主張するが、それはただ自分が無視されているだけなのに気がつかない。そういうことを話せるほど信頼できる人だと思われていないのである。

ネット右翼は、行動ではなく言論について批判する。韓国もマスコミも左翼的ブログも、攻撃対象は「何かを言う人」である。とにかく人が人の批判をするのをやめさせようとする。だから、右翼や左翼のように批判対象に一貫したポリシーはない。あるのは「人を批判することを批判する」というのと「確実に批判できる対象だけ批判する」の2つだけだ。前者は特に有効で、すべての批判を封じることができる。後者は、「確実に批判できる対象以外は批判してはいけない」という空気を作ることができる。この2つを認めさせれば、自分のところには決して批判は飛んでこなくなる。

ネット右翼は、前向きな意見を出すことができない。前に向きたくないからである。「だったらどうすればいいんだ?」という質問に答えることができない。結局のところ「何もするな」という答えだからである。相手がいればとにかくバカにして、自分の優位性を示そうとする。だから相手は途中でバカバカしくなって、見捨てる。そして、ネット右翼は相手にされなくなったことに満足する。現状を何も変えたくないのだから、確かにこれはある意味勝ちである。


さて、なぜ「右翼」かという話がまだだった。これは、左翼の考え方を見ればわかる。左翼は進歩派である。人間は進歩しなくてはならないと思っている。そして、人類はみな仲間であり、理解力がある素晴しい存在だと思っている。

左翼の武器は「批判」と「対話」である。どちらもコミュニケーションである。左翼は批判が好きだし、批判されるのも好きだ。「自己批判」という言葉もあるくらいである。そして、批判は進歩の原動力だと思っている。さらに、左翼は理想主義で、妥協を知らない。さらに、どんな相手でも話せばわかると思っている。だから「対話集会」が好きだ。実際はこんな集会を開いても肝心の話す相手が来ないところが間が抜けているのだが。

こうした所がネット右翼には当然嫌われる。ネット右翼は批判も進歩も理想も嫌いだ。ネット右翼の望みは誰の目にもつかないところに静かにうずくまっていることだからだ。それに対して、左翼は誰も彼も外に連れ出そうとする。

左翼はネット右翼のいいカモである。左翼の考え方は人間に対して楽天的で、どうしようもないバカのいる可能性を考えていない。少しでも良い人間になろう、そのためには人の話を聞いて自分を変えていかなくてはならないと思っているのだが、人間は誰でもそうだと信じている。そう思いたいが、現実はこれは間違いである。残念なことに、世の中にはどうしようもない人間のクズが存在するのだ。

ネット右翼が本物の右翼をあまり批判しないのは、こういう点で右翼の方が強いからだ。右翼は、弾丸で言い聞かせないとわからない連中がいることを知っている。言っても無駄なことを「日本人の魂」と言って押し付けることを知っている。現実主義で、自分の敵だとわかると無視するか徹底的に叩く。ここが、人間はすべて仲間だと思っている左翼との差である。ネット右翼が本物の右翼を攻撃しないのは、攻撃し返されるからである。

ネット右翼は「すべての人は敵」だと思っている。そして、普通の人は自分を敵視する奴は問答無用で敵だと思う。しかし、ガチガチの左翼だけは「すべての人は仲間」だと思っている。つまり、ネット右翼を仲間だと思ってくれるのはガチガチの左翼だけなのだ。これは何とも皮肉な話だ。


まとめよう。コミュニティに対する考え方には次の3パターンがある。(これは言葉の定義ではないので気をつけるように)

左翼的な考え方
すべての人間は仲間である。 右翼的な考え方
世の中には敵と仲間がいる。 ネット右翼的な考え方
すべての人間は敵だ。

こうした考え方の基本は、生まれ育っていく過程で作られる。周囲がみないい人ばかりだったら左翼的な考え方になるだろうし、いい人と悪い人がいたら右翼的な考え方になるだろう。これはどっちがいいとか悪いとかいう問題ではない。前者はいい意味でも悪い意味でも「お坊っちゃま的」であり、後者はいい意味でも悪い意味でも「現実的」である。

しかし、どちらにしても、「仲間」は存在する。仲間は人間にとっては非常に大切な存在である。仲間を通じて、人は信頼を学ぶ。そして、それを何回も繰り返すと、悪い人間より良い人間の方が圧倒的に多いことが経験上わかる。そこから、人は概して信頼できるものであり、たとえ初対面の人でも最初から信じて行動した方がいいということを学ぶ。

最近では「知らない人は警戒しなさい」と子供に教える。これも問題の一因だ。昔は、子供の周りは皆コミュニティの一員であって、他人の子供でも我が子のように接していた。だから子供は警戒する必要はなかった。しかし、これは残念なことに現在では成り立たない。だから、やっぱり「警戒しなさい」とは教えなくてはならない。しかしそれは判断力のない子供だから正しいのである。一定の年齢になって、警戒すべき人の見分けがつくようになったら、その人だけを警戒してあとの人は警戒しないことを学ぶべきだ。でないと、知らない人との信頼関係を築くきっかけを失ってしまう。

知らない人を信頼することを覚え損ねると、ネット右翼的な考え方になる。初対面の人に対して常に攻撃的になり、相手に対して常に否定的な考え方になる。「コミュニティ」は自分の味方ではなく、逆に敵だと思うようになる。そして、「世間は自分達を敵視している」と言うようになる。それは、自分たちが勝手にそう思っているだけだ。しかし、勝手にそう思っているからこそ、世間はそういう人達を敵視する。こうして、最初は単なる妄想だった敵視が現実のものになっていくのである。誰も嫌っていないのに「ふん、俺はどうせ嫌われ者さ」と言っているから嫌われる。そして、最終的にはその人の言ったことは正しくなってしまう。「ほら、結局俺の言う事が正しかっただろ」とその人は言う。その通りなのだが、悲しい話である。

ネット右翼は、社会を変えていくのではなく、逆に自分を社会に合わせていくようになる。そして、社会が様々な問題をかかえているにもかかわらず、そしてそれを常々言っているにもかかわらず、社会を変えようとする動きには反対する。変えることは不可能だと思っているし、変えたとしても意味はない。どう変わろうと、自分が仲間外れであることに変わりはないからだ。今より良くなることはあり得ないのだから、せめて悪くならないようにする。


最近、日本も階層型社会になってきたと言われるが、こういう意味での階層ができてしまっているのではないかと思う。つまり、他人を信頼できる人と、信頼できない人である。他人を信頼できる人はどんどん幸せになり、信頼できない人はどんどん不幸になっていく。不幸な人は、幸せな人を見て恨みがさらにつのる。自分が不幸なのを、顔のせいや能力のせい、あるいはお金のせいにする。それは間違いだ。幸せな人を呪っているだけで前向きなことを何もやらないから、幸せになれないのだ。

ネット右翼は、この世は厳しいところであり、社会は敵であり、そしてその社会は悪意のある誰かが操っていると思っている。彼らは「社会」というコミュニティに入り損ねたのだ。こう言うと彼らはきっと「俺たちは社会脱落者ではない。ちゃんと仕事もしているし、友達もいる」と反論するだろう。そういうことが「社会というコミュニティに入る」ということだと思っていること自体が、わかっていない証拠である。自分が社会に合わせているということは、本来自分は社会に合っていないということだ。何かをしないと「社会」というコミュニティには入れてもらえないと思っている。そうではなく、「自分も社会の一員だ」という意識こそが社会に入っている証なのである。

この世は楽しいところであり、人はみな仲間であり、人は何もしなくてもそこにただ存在するだけで認めてもらえる。そういう認識でいれば、「自分は何をしなくてはならないのだろうか」から「自分は何をできるだろうか」あるいは「自分は何がしたいか」に変わる。

今まで「ネット右翼」という言葉しか使ってこなかったが、「ネット左翼」(普通は極左と呼ぶ)もいる。ネット左翼は、世の中の人間は皆バカであり、自分たちがぶち壊してまったく新しいコミュニティを作らねばならないと思っている。社会に属し損ねた点は同じだが、ネット右翼よりは前向きだ。社会にとってはより害悪ではあるが、人としてはこちらの方がまだ好感が持てる。

残念ながら、こういう認識は子供のうちに作らないとだんだん難しくなる。もしかしたら、もう手遅れかもしれない。