信仰とは

「信じるものは救われる」ではない。

日本の多くの人は、「信仰」というものをどこか正常ではないものととらえているようだ。「信じる者は救われる」という言葉をどこか揶揄する人が多い。この言葉は信仰の大切さを説くというより、新興宗教の怖さを説いているように思っている人が多い。

「信じる者は救われる」という言葉は、実のところ信仰の本質をあまり良く表してはいない。本当は「信じる者は救われている」と言うべきところだ。


日本人は、「信じる」ことによって「救われる」と思っている。そして、これを「いいことをすると報いがある」という因果応報の法則だと思っている。どこかに神様がいて、「よしよし、お前は信じているな。いい子だから救いをあげよう」と言ってくれると思っている。

ちょうど、神社にお参りに行くのがこんな感じだ。お金を払ってご利益を買う。小さな願い事の場合は10円程度で、大きな願い事の場合は奮発する。まるでご利益の自動販売機だ。

日本の神様の場合はもともとご先祖様だったり動物だったり物だったりでどちらかというと人間に近い存在だから、まあそういうこともあるだろう。しかしそれをそのまま一神教の神にあてはめると間違いのもとである。

「ご利益の自動販売機」の考え方は、ひどく傲慢に思える。お金さえ出せば大学に合格できて良縁に恵まれ、子宝を授かって家内安全商売繁盛、おまけにガンも治って最後にはぽっくり逝けるのである。もちろんお金じゃなくて労力が必要だという話もあるだろうし。心が必要だと言うかもしれない。しかし、本質は、救いは人間の努力によって得られるものだという考え方である。これは本当か?と真剣に問うと、やっぱり嘘だろう。いくら努力しても自分のガンが治るとは限らない。


本当の信仰に迫るには、救いを善い行いのご褒美だと考えることを止めなくてはならない。代わりにこう考えよう。

すべての人間はもう救われている。

だから、救いを求めることに意味はない。「何をしたら救われますか?」という質問には「もう救われているのだから何もしなくていい」というのが答えだ。もう少し正確に言うと、救われるには、自分がもう救われていることを認識することが必要である。これが信仰である。これが「信じる者は救われる」の意味であり、より正確には信じることイコール救いなのである。

だから、救いをもたらすのは信仰だけである。自分が何をしたかは関係がない。救いを求めて何をやっても、救いからは遠ざかるだけである。なぜなら、救いを求めるということそのものが「自分はまだ救われていない」という認識から出発しているからである。そこから出発して頑張れば頑張るほど、出発点そのものの間違いに気付きにくくなる。

信仰のない状態というのは、浅いプールで溺れかけている状態だ。いくら手足をバタバタさせて必死にもがいても、いつまでたっても助からない。「実はもがく必要はないんじゃないか?」と思ってふと足をついてみれば、実は普通に立てる深さだったりする。

幸せになろうと必死になって何をやっても、結局は幸せにはなれない。逆に、自分は今幸せなんだと思えば、幸せになれる。幸せとはそういうものだ。そして、そういうものなんだということに気づくのが「信仰」であり、気づいたことによって幸せになれるというのが「救い」である。


しかし、そうは言っても、自分にとって都合のいい事ばかり起きるわけではない。悪いことばかり起きると、やっぱり「信じれば救われる」なんて嘘だと思ってしまう。しかし、だからと言って「救われていない」と結論づけるのは早計だ。自分にとって何が起こるのが本当に自分のためなのかがわかっていないからである。

例えば、子供がスーパーに言って「あれも欲しい」「これも欲しい」とねだる。しかし、結局それは買ってもらえない。その子供はきっと、自分はなんて不幸なんだと思うだろう。しかし、ずっと後になってわかる。自分の方が間違っていたのであり、買ってもらえない方が良かったのだ。あそこで欲しいものを何でも買ってもらえたとしたら、きっと甘やかされたダメな大人に育ってしまっていただろう。

これと同じで、今「不幸だと思える」ことが起きても、それが本当に自分にとって不幸なことだったのかどうかは、ずっと後になるまでわからない。また、自分がしたことが本当に適切だったのかどうかもわからない。「あれ欲しい」と言うことが、本当に言うべきだったのか、それとも単なるわがままなのか、その場で子供は判断することができない。

人間は今しか見えない。未来は見えないから、今の自分を現在の状態でしか見ることができない。今、自分にとって不幸だと思っていることが、後々から見て本当に不幸なのかどうかは、実のところはよくわからない。


神様がいると信じることによって、こうした不安を取り除くことができる。神様とは父親のようなものだ。神様は我々がちゃんとした大人になれるようにいつも見守っていてくれる。いいことをすればご褒美をくれるし、わがままを言えば叱ってくれる。自分が甘やかされたダメ人間に育ってしまうのではないかという心配は不要だ。

しかし、いくら神様が見守ってくれているからといて、何でもしていいというわけではない。いや、何でもしていいのだが、悪いことをすると叱られる。そうやって、何が善くて何が悪いのかを覚えていく。

はた目から見ると、神様は不公平なように見える。善良な人々が虐げられ、悪いことばかりしている人が得をしているように見える。しかし、見かけだけで判断しているからそう思えるのだ。こういう時に言う「得」とは、実のところたいして意味のあるものではない。なぜ悪いことばかりしている人が得をしているように見えるのかというと、そいつがバカだからそのくらい金を持たせてやらないと「金というものはそんなに意味のあるものではない」ということがわからないからだ。逆に、本当に善い心を持った人には、神様は逆にお金を与えて「金はもらうことより使うことの方に意味がある」と教えてくれる。

自分が今置かれている状況、あるいは他の人が置かれている状況をよく見て、神様が何を言わんとしているのかを考えるべきだ。そして、自分がわかったと思ったなら、それが本当に正しいのかどうかをくよくよ悩まずに行動すべきだ。なぜなら、本当に間違っていたのなら神様がきっと正してくれるはずだからだ。


結論。「何をしたら救われますか?」という質問には「何もしなくていい」というのが答えだ。そして、これが答えであると信じることが信仰であり、それで満足できることこそが救いである。そして、救いとは必ずしもすべて自分の思い通りになることではない。

信仰を持つことができれば、安心が得られる。自分が思ったように行動すれば、最終的には正しい方向へ行けると思えるようになるからである。そりゃ多少は間違えることもあるだろうし、それで神様に叱られることもあるだろう。しかし、叱られるのは結局は自分のためである。大いに叱られて、反省して、正しい方向に修正すればそれでいいのだ。

なお最後に一つ言っておくが、これは「信仰を持つと安心できるから、信仰を持つべきだ」と言っているのではない。これはまた「ご利益の自動販売機」の考え方である。人が信じる信じないにかかわらず、神様はいるのだ。目には見えないし声も聞こえないけれど、それはいないという証拠にはならない。神様の存在が感じられないのは、人間の能力が完璧ではないからである。そして、自分には理解できないから信じないというのは、「なぜあんな鉄のかたまりが飛ぶのかわからない」という理由で飛行機に乗らない人と同様に、滑稽でかつ悲しいことなのである。