ルールと自我

法律に違反しなければ何をやってもよいか

前のコラムでたくさんの貴重な意見をいただいた。こうした意見を眺めてみると、エロゲー擁護派にある共通の考えが見えてくる。「ルールに違反しなければ何をやってもいい」という考えである。

これと同根のものに、「自分がやっていることの善悪と、自分自身の善悪とを区別できない」という傾向もある。「エロゲーは悪」と言われると、まるで「お前は悪」と言われたのと同じようなショックを受ける。「人間どこかしら悪いところはあるさ」と思えない。

これは人によっては「完璧指向」に見える。少しでも自分に悪いところがあると我慢できないという性格である。しかし、本当の完璧指向は、少しでも自分に悪いところがあると、それを直そうとする。ここで言うニセの完璧指向は、少しでも自分に悪いところがあると、それを悪くないことにしようとする。そういう意味で、これは完璧指向ではない。

結論から言うと、こういう考え方をするのは、自我を確立できていない人、自立できていない人だ。何をやってもよくて何をやってはいけないのかを決めるのは、ルールではなく自分だ。そして、それを自分で決める以上、自分は絶対的に善である。そうした考え方を持てない人は、常に「お前は悪」と言われることにびくびくしなければならなくなる。

まず、自分が絶対的に正しいということを認めた後で、他人も(他人の基準において)絶対的に正しいということを認める。今までは、前者はできていても後者ができていない人が多かったから、「他人を尊重しろ、ルールを守れ」というメッセージを皆は流してきた。しかし、最近、前者ができない人が増えてきた。そういう人は、他人を尊重する前にまずすることがある。

自分を尊重できない人は、他人も尊重できない。自分を尊重できない人間に「尊重」という言葉の意味はわからないからである。ルールを破れない人は、ルールを守れない。ルールは破らずに守っているから意味があるのであって、破ることができないのは守っているとは言わない。


以前、「確信犯」という言葉の話をした。その時には、確信犯は誤用ではない、と言った。しかし、より正確に言うと、確信犯という言葉の意味は間違っていないが、その解釈が間違っていることがしばしばある。「確信犯は悪いことである」という意味で使うのが誤用である。

確信犯は善いことである。「あいつ確信犯だよ、困ったなぁ」と言った時には、「あいつ」は「善い」という意味合いが込められている。悪いなら悪い所を指摘すればよいから、困ることはない。あいつはあいつで善い主張だから、善いことと善いことのぶつかり合いだから困るのである。

人は、たとえルールに違反していても、やっていいことがある。同様に、たとえルールに違反していなくても、やってはいけないことがある。やっていいことと悪いことを決めるのは自分だ。そして、決めたことをルールにするのである。だから「ルールで決められているからやってはいけない」というのは逆で、「やってはいけないからルールで決められている」というのが正しい。

そして、「普通の人」は、自分がやってもいいかどうかを判断したことは、自分と同じだけの情報を他人にも与えれば、他人もそう思うだろうと思っている。つまり、自分が思っている「やってもいいかどうかの判断」には一般性があると思っている。これが常識である。

逆に、「やってもいいかどうかの判断」はそういうものでなくてはならない。だから、これはなかなか難しい判断だ。常に「これは自分だけでなく、他人も同じように思うだろうか」と考えなければならない。結局、確実なところはわからないが、それでも人は判断しなくてはならない。


このたいへんな作業を軽減するために、ルールがつくられた。ルールとは、皆が持ち寄った「やってもいいかどうかの判断」の集合体だ。これを読むと、「ああ、自分の判断はおおむね正しいんだな」とわかる。

つまり、ルールは試験問題の解答のようなものだ。試験問題を自分で考えて、出した結果に対してルールを使って答え合わせする。そうすることで、自分の考え方が正しいかどうかをチェックするのだ。試験問題に正しく解答することができれば、試験には出ない本当の問題で出した自分の答えもきっと正しい。

自分で考えることができない人は、ルールを丸暗記する。そうすると、試験問題には完璧に答えることができるが、試験にない問題には答えることができなくなる。そこで、試験にない問題に対しては、「答えは決まっていない」と答える。

問題に対しては、「その行為は許容される」という答えはあるが、「答えは決まっていない」という答えはない。「難しい問題だ」という答えはあるが、これは自分の能力不足であり、人間なんだから能力が不足することは当然ある。しかし、そんな時にも、自分に与えられた最大限の時間を使って、自分でできる一番正しい答えを出そうとする。

自分で考えることのできない人間は、ルールを丸暗記しようとする。そうすると、ルールにあることは答えられるが、ルールにないことは答えられなくなってしまう。つまり、自分で考えることができない人間は、ルールに書いてない事態に遭遇した時に何もできなくなってしまう。


ルールを丸暗記している人には、ルールを破ることに対する根源的な不安がある。ルールを破ることは、自分が悪であることを意味する。自己が否定される。これが何を意味するのかがわからなくて、それでたまらなく不安になる。

自我が確立していない人にとっては、ルールを破ったことは即自己否定につながる。「自分はルールを破ったことがないから正しい」と思ってきたから、いったんルールを破ると、もうどうやっても肯定することはできない。自分はもう地獄行きが決定したのだから、何をしても無駄だ。だから、罪を償うことができない。やったことは悪いと思っているが、遺族に謝罪する感情を持つことができない。

自我が確立していない人は、罪悪感を感じることができない。あるいは、ルールを破ったことに対する自己否定を罪悪感と勘違いしている。そして、遺族への謝罪も「謝罪しなければいけないというルール」に従ってしか謝罪できない。それは、世間が考える「心からの謝罪」ではない。本当の罪悪感とは、自分が決めた「やってはいけないこと」をやってしまった時の後悔の念であり、それに対して自発的に謝罪したいと思う心である。

自我が確立している人にとっては、自己は決して否定されることはない。自分は善である。たとえ刑務所で服役していても善である。人を何人殺そうと善である。自分は単に悪いことをしただけであり、自分が悪いわけではない。誠意を持って償えば、自分の行為はチャラになって天国に行ける。いや、自分はどうやったって天国に行けるわけだが、そう思うと余計に誠意を持って償いたいという気持ちが湧いてくる。

というわけで、自我が確立していない人は、自分が「間違っている」と絶対に言われないように、客観的で具体的なルールを要求する。そして、例外や主観的な判断を含む項目は一切認めない。他人に言われたことをその通りやっている限り、自分が間違っているとは言われない。そして、自分の行為を事前に与えられたルールから論理的に説明できれば、「間違っている」とは言われずに済み、自己が否定されずに済むからだ。

自我が確立していない人は、人から言われたことしかできない。事前に取り決めたルールに従って操り人形のように動く。なぜなら、自分の意思を働かせると自己が否定される危険があるからである。そして、自己否定とは何なのかは、死とは何なのかという問題と同じように、結局のところよくわからない。よくわからないからこそ恐いのである。


つまり、自我が確立していない人にとっては、現実はいつも自己否定の危険と隣り合わせである。だから失敗を極度に恐れる。「大学の試験に落ちたらどうしよう」と不安になる。浪人してもう一回受け直せばいいじゃん、という指摘は当てはまらない。一度落ちてしまうと、「現役で合格する」ことは二度とできないからである。現役だって浪人だってたいして変わらない、と思うのだが、この「たいして」が問題だ。自我が確立していない人は、主観的な判断ができない。この「たいして」は数字で表すことができないから、どのくらい違うのかがわからない。

大学に落ちる恐怖とはつまり、「現役合格」が「一浪」になってしまうこの差がどの程度なのかわからないという不安だ。「大学に合格する」というルールを破った時に、何が起きるのかがわからないという不安だ。実際はたいしたことは起きないのだが、まったく何も起きないというわけではない。そして、この差は主観的に評価するしかないものである。客観的に表現できないものを受け入れることができないと、この差を自分のものにすることができない。これが、何が起きるのかわからないという根源的な恐怖になる。

こうした恐怖に直面しない方法が一つある。大学を受けなければいい。大学に落ちる恐怖は、自分の行動が評価されることと、その評価がどうなるかがやってみないとわからないことにある。わからないことに対する恐怖だ。だから、結果が前もってわかることだけをすればいい。究極的に言うと、何かするとうまく行かない可能性があるから、何もしなければいい。


しかし、人間は生きている以上何かをせずにはいられない。しかし、現実で何かをする以上、それはすべて自己否定の危険性がある。そこで、こうした人は自己否定が絶対にされない空間を作り出す。これが妄想の世界である。

妄想の世界にはルールはなく、すべてのことが許される。だから妄想の世界には安心して居ることができる。自我が確立してない人でも妄想の世界だけは自由に行動することができる。いつも不安定な吊り橋を恐怖におののきながら歩いている人にとって、唯一心が休まる場所だ。

妄想が現実と区別されていることは重要である。現実のルールが妄想にまで入ってくると、妄想まで「恐い世界」になってしまうからだ。そうすると、唯一の逃げ場所が無くなってしまう。妄想は一切のルールが存在しないからこそ妄想なのであり、安心できる場所である。

自我が確立された人にとっては、現実こそが安心できる場所であり、妄想は恐しい場所である。一切の現実のルールが通用しないからだ。何でもありの世界だから、自分の「これはいい」「これはダメ」という判断が無意味になってしまう。これは意味の喪失である。

こういうわけで、(従来の)空想小説はリアリティを重要視した。言い換えれば、現実と空想の区別をつけないように努力した。現実でないものには意味がないからである。できるだけ現実からかけ離れているように見せて、なおかつ現実とつながっているように作るのが小説家の腕の見せどころだった。それに対して、今の妄想小説は、できるだけ現実を感じさせないように作るのが腕の見せどころだ。

居心地のいい妄想の世界に浸っていると、だんだん現実世界がどうでもよくなってくる。これがひどくなると、妄想と現実の区別がつかなくなる。常に妄想の中にいて、妄想の中のテレビに映っている現実を見ている。こうなると大問題だ。人を殺しても、テレビドラマの殺人くらいにしか思えなくなる。

これは、自我が確立している人にとっての「現実と妄想の区別がつかない」とは根本的に違う。自我が確立している人は、現実の中に妄想が入り込んでくる。ふと我に返って、なんてことしてしまったんだと恐くなる。自我が確立していない人の場合は、現実に返ってこない。自分がしたことと頭ではわかっているが、その「自分」という感覚がなくなってしまっている。「あー、俺が殺したんだ。そうなんだぁ」くらいの認識しか持てなくなってしまう。


最後の話を「そんなバカな」と思う人は多いだろう。しかし、これは現実に起こっている。人が思うほど現実と妄想の壁は厚くない。「自分は大丈夫」と思っている人が一番危ないぞ。

「自分は完璧にルールを守っている」と言っている人は、普通の人はそんなにルールを守ることにこだわっていないことに気づけ。「妄想の中だから何をしたっていいんだ」と言う人は、現実の世界だって何をしたっていいんだということに気づけ。自分を肯定することができるのは自分しかいないし、自分を否定することができるのも自分しかいないんだ。

「読みたくない」とわざわざ言うくらいなら、読むな。いくら「書くな」と言われても、書きたいものは書け。「必死だな」と言う奴は、一度くらい必死に何かやってみろ。たとえそれが派手に失敗したとしても、最悪殺されるだけで済む。一生ビクビク暮らすくらいなら、いっそ殺された方がいいじゃないか。

「誰が何と言おうと、俺はエロゲーに青春をかけるんだぁぁぁ!!」と言う人にはもう何も言わん。がんばれ。