なぜエロゲーオタクは嫌われるか

エロゲー嫌悪を偏見と勘違いするな

とある事件によって、15年前を彷彿とさせるオタクバッシングがまた始まった。しかし、今回は少し15年前とは様相が違う。15年前はオタク文化が何でもかんでも排斥されたのに対して、今回はオタク文化の理解がある程度進んでいることだ。(バッシングを受ける人にとっては残念なことに)今回のエロゲーバッシングは正当なものに私は思える。つまり、排斥されてもしかたがないと思うのだ。

ただし、一つ注意しなければならないのは、この問題は2つに分離できることだ。つまり、「エロゲーは悪か」という問題と、「悪(と決めたもの)を勝手に排斥していいか」という問題の2つである。私は前者に対してはYes、後者に対してはNoと答える。つまり、むやみなバッシング自体には反対だが、「エロゲーは悪くない」という意見にも反対する。

特にバッシングされる側が、この問題の根をわかっていないように思える。この問題を冷静に考えてみてほしい。何を非難されているかをだ。


バッシングに対して怒っている多くの人は、「エロゲーをやることによって犯罪行為に走るから」非難されているのだと思っている。そして「いや、オタクの多くは犯罪行為とは無縁だ」と弁護する。これがそもそもの間違いだ。人々が非難するのは、犯罪行為やその予備軍が現れることへの懸念ではなく、エロゲーをやること自体なのだ。

オタク達は「確かに小学生に性的なイタズラをする同人誌を読んだり、女の子に首輪をつけて監禁してイジメるゲームをする。しかしそれは空想の中だからするのであって、現実との区別はちゃんとついている」と言う。それはその通りだろう。しかし、人々が懸念しているのは、それが実行されることではない。そんな異常なことを空想することを懸念しているのだ。女の子に首輪をつけて「ご主人様」と呼ばせるとうれしく感じる、その感情が良くないと言っているのだ。

正常な人間だったら、人に首輪をつけるような行為は許せない。小学生の女の子に性的なイタズラをしている所を見かけたら怒りを感じる。実際にこんな奴を見かけたら、有無を言わさずぶん殴る。これが「正常な人間の感情」だ。そして、そうした「正常な人間の感情」を持てないことを問題視しているのだ。これに対して「俺は空想と現実の区別はちゃんとついている」と言ってもあまり意味がない。

グロの方が、性のタブーという問題を含んでいないためわかりやすいだろう。人の惨殺死体を喜んで見るのは異常だ。普通の人なら、一度や二度は興味本意でのぞいてみるかもしれないが、すぐに嫌悪感を感じて見たことを後悔するだろう。人の死体を喜んで見ていられるということ自体が、どこか頭がイカレている証拠である。そこが既に問題なのであり、決して人の死体を喜んで作り出すことだけが問題なのではない。


オタクの中には、オタク趣味が理解されないから自分たちは嫌われているのだと思っている人がいる。これは15年前は正しかったが、今はあまり正しくない。今では健全なオタク趣味は肯定はしないまでも少なくとも嫌悪感までは持たれなくなったからだ。新聞の日曜版などによく変な物を集めていたり変な事に凝っていたりする人が登場する。そうした変な趣味を読者は決して理解してはいないし自分もやってみたいとは思わないが、それでも皆は「まあそういう趣味もありかな」と思っている。人は、自分がやってみたいと思わないことでも否定しないことをちゃんと覚えた。

それに対して、エロゲーをやっていると言うと「キモい」と言われるのは、人がエロゲーのことをよく知らないからではない。おそらく、よく知れば「キモい」どころじゃ済まなくなるだろう。理解されていないからこの程度のバッシングで済んでいるのだ。有難いと思え。

ここで言う「キモい」は、決してそれが少数派だからというのではなく、先入観や偏見によるものでもない。心理的な問題によるものだ。これは自我の発達不足であったり、他人の痛みを感じる能力の欠如であったり、分離不安や劣等感であったりする。これらは実際に対人コミュニケーションに問題を生じさせ、健全な社会生活を困難にする。もし素直に考えて本当にエロゲーがキモいと思えないのであれば、そして自分たちのことをわかってないせいで人が非難すると思っているのであれば、それは「俺の頭の中に盗聴器が仕掛けられているというのに、誰もそのことを信じてくれない」と言っている人と同レベルだ。「キモい」という言葉には、そういう人たちと同レベルだという思いが込められている。

オタクの中には、対人コミュニケーションが苦手なことが問題なのだと比較的正しく自分を考察している人もいる。しかし、対人コミュニケーションが得意になれば、自分のようなフィギュア趣味の人でも嫌悪されないと思うのはきっと間違いだ。おそらく、対人コミュニケーションが得意になればフィギュア趣味もなくなるだろうからだ。その頃には、「なんで俺はこんなものを集めていたんだろう」と自己嫌悪に陥るに違いない。もちろん、ただ技術だけを磨くだけでは無意味で、肝心なのは心なのだが。


話が変わるが、エロゲー撲滅論でよく見る「エロゲーのせいで性犯罪が増える」というのは当たっていないだろう。エロゲーがあれば、エロゲーがない時よりはきっと性犯罪は減る。普通ならば性犯罪に至る異常者のはけ口となるからだ。しかしこれはいわば精神安定剤のようなものだ。精神を安定させて犯罪を防止することももちろん必要だが、精神が不安定になるもとを断つことも必要である。

エロゲー自体は性犯罪を減らすが、エロゲーの肯定は性犯罪を増やす。異常を肯定してしまうからだ。「ペドフィリアは悪ではない」というメッセージを送り続けることで、ペドフィリアになりかかってしまっている人が自分自身の問題点に向き合うきっかけをつぶしてしまう。

だからこそ、「エロゲーは悪」と言う。そして、悪だとわかっていてやる分にはある程度は許容する。これは煙草なんかと同じだ。煙草に害があるとわかっていてそれでも吸うのなら、迷惑にさえならなければ許容する。しかし、煙草には害はないと言って吸う人には、煙草の害をきちんと知らしめる必要がある。そして、「煙草でイライラを抑えているからこそ犯罪を犯さないのであり、煙草は犯罪防止に役立つ」と言っている人には、そもそもそのイライラをなんとかしろと言う。「ニコチン中毒の人は煙草が切れると暴れるのだから、煙草を与え続ければいい」というのはおかしい。

エロゲーを売るなとまでは言わないが、目立つ大通りにポスターを貼るのはやめろ。裏でこっそりやれ。昔の風俗やエロ関係にはこうした節度があった。自分たちが日陰者であることを自覚していた。その自覚がないことが問題なのである。


エロゲーオタクが嫌われるのは、エロゲーをやっているからではない。エロゲーをやりたいと思うような、そしてエロゲーを面白いと思うような心理状態にある。そしてそれは人間性の未熟さに起因する。こころの問題なのである。

そういうわけで、ここでは「エロゲー」とひとくくりにして言ってしまったけれど、健全なエロゲーと不健全なエロゲーとがあり、ここで問題にしているのは不健全なエロゲーだけである。そして不健全なエロゲーとは、人間性の未熟さに起因する心の問題をかかえたもの、あるいはそうした心の問題を肯定するものである。そしてもちろん、これはゲームだけではなくコミックや同人誌やビデオにも同じことが言える。

そしてここで言う「心の問題」とは何か。これは複雑な問題だが、ここではあまり深入りせずに「人をモノとしてしか見られないこと」としておこう。とすると、「空想と現実の区別がついている」ということは、問題がないのではなく逆に問題である。「人」を空想上の「モノ」と同一視しているからだ。

「健全なエロゲー」と書いたが、今の日本にはそんなものはほとんどない。これは、暴力描写とかセックス描写の問題ではない。むしろ、大っぴらにセックスとバイオレンスを売りにしているVシネマなんかの方がずっと健全だ。問題は「倒錯」にある。だから、セックス描写の全然ないギャルゲーの方が逆に問題だったりする。

エロゲーは悪。そんなことは、ここでわざわざ声高に言わなくてもうすうす感づいているはずだ。自分のかかえている問題を無理に肯定して目をそらすのではなく、問題をかかえている自分そのものを肯定してほしい。人間はいくつも問題をかかえているのが普通なのだから。