自信と客観性

「どんなことでも根拠なく信じてはいけない」の誤り

「どんなことでも根拠なく信じてはいけない」と言えば、きっと誰もがその通りだと言うだろう。しかしそれは間違いだ。一つだけ、根拠がなくても信じられるものがある。それは自分である。自分を何の根拠もなく信じられることを「自信」という。

もちろん、これは本当に何もかも「自分は正しくて他の人が間違っている」と思い込んで行動することではない。たいていは、これは逆に自信のない人がする考え方だ。声を荒げて「自分は正しい」といつも自分に言いきかせていないと何も信じることができなくなってしまうからだ。

自分を信じるとは、他の言葉で言えば自分に素直になるということだ。自分が思ったことを素直に信じられること、これが自信である。もし自分の言ったことが本当に正しいのかどうか不安だというのなら、それもまた自信がある証拠だ。自分が思っている「自分の言ったことは正しくないのかもしれない」ということを信じているからだ。


自信のない人は「客観的」という言葉が好きだ。客観性とはつまり、根拠を自分以外のところに置くことである。客観的に正しい事実ならば、自分が信じられなくても言うことができる。こういう人は、反対意見に対して「絶対にそうだというのか」とか「証拠を挙げろ」とか言うからすぐわかる。もう一つ、やたら他人の受け売りをするタイプの人もいる。歴史上の偉い人がこう言っていたとか、ネットで有名な誰々がこう言っていたとか。

こういう人々の共通点は、自分の言ったことを自分の言葉で説明できないことである。彼らはそもそも自分の言葉を持たない。彼らの言葉は「事実」あるいは「誰かが言ったこと」だけで構成されている。この2つだけを言う限り、どう否定されても自分が否定されたと思うことはない。だから安心できるのだ。自分の言葉を持つと、それが否定された時にパニックになってしまう。

これに対して、自信のある人は根拠を必ず自分に置く。「正しい」とは、自分が信じられることと同義だ。ある事柄が正しいかどうかを判定することは自分以外の誰にも任せることはできない。客観より主観を大事にする考え方である。

つまり、自分が正しいと思ったことは常に自分にとって正しい。だから、正しいと思ったことは何があろうと曲げることはない。例え何を言われようと正しいと思ったことは正しいのである。客観性のある意見が大事なのは、それを聞くと正しいかどうかわからないことが正しいと思えるようになるからだ。あるいは、自分が正しいと思っていたことが実は間違っていたと思えるようになるからだ。これは「自分が正しいと思ったことは常に正しい」の法則を逸脱してはいない。自分が思っていることが変化するからだ。

客観性というのは、自分が正しいと判断するための道具に過ぎない。客観性があるから正しいのではない。客観性があることによって自分が正しいと思えるようになるから正しいのである。客観性がある(ように見える)ことを言われても、自分が正しいと思えないのならそれは正しくないのである。これを「屁理屈」という。

ただ、「それは屁理屈だ」と言うのは良い批判とは言えない。それは自分が納得できないだけの問題であり、自分が納得すればいいだけの問題だからだ。だから、自分で理解するように努力すればいい。もちろんこの努力は「なるほど。確かにそうとも言える」という肯定的な結果でも、「なるほど。こいつはこういう面をまったく無視しているからこういう結論になってしまうのだな」という否定的な結果でもかまわない。とにかく「なるほど」が必要なのである。

自信のある人にとっては、「正しい」というのは「なるほど」と同義である。「なるほど」のない情報はどうでもいい。逆に「なるほど」さえあれば(極端に言えば)結論が現実と違っていてもかまわない。毎年新年になるとどこかの経済評論家がする経済予測が良い例だ。よくこれを当たった当たらないで評価する人がいるが、そんなことはどっちにしろ年の始めにはわからないのであって、後になって「当たった」「当たっていない」と言っても無意味である。それより、解説を聞いて「なるほど」と思えることが重要なのである。


しかし、相手に「なるほど」と思わせるのは結構難しい。あまりに当たり前なことだと「そんなこと当たり前だろ」で済んでしまうし(これはまだよい)、相手にこれは面白いことだということを伝えられないと、「あっそう、はいはい、よかったねー。勝手にそう思ってなさい」で終わってしまう。どちらも、伝える側が目的を果たせなかったということであり、伝える側の失敗である。

ここで、客観を大事にして主観をおろそかにする人は、「自分の客観的な意見を理解できない相手がバカだ」と言い出す。彼らは「自分の意見が客観的だ」ということは主観でしか結論が出せないことに気づかない。もちろん、主観を大事にして客観をおろそかにするのも問題だ。自分の主観と相手の主観は違うからである。だから「はいはい、よかったねー。そんなことをいちいち私に向かって言わなくていいから」と言われる。

実は、客観のみを大事にする人も主観のみを大事にする人も、外から見ると同じように見える。大事なのは主観と客観を区別することだからだ。このためには、主観性も客観性も両方とも持っていないといけない。「主観的なものは存在しない。すべてのものは客観的である」と主張する人は、実は「客観的」という言葉の意味を間違えて使っている可能性がある。

客観とは、各自の主観の共通部分である。とすると、主観がなくては客観は存在できない。逆に、客観がなくても主観は存在できる。だから、客観を認めるためにはまず主観を認めなければならない。主観とはすなわち、人はそれぞれ違った考え方をするということである。その上で、それはてんでばらばらではなくある種の共通認識があるということである。


ことさらに客観を主張する人を見ると、妄想や幻聴(電波)の類いを連想する。「誰かが頭の中に直接電波で命令を送り込んでいる」というのは、彼らにすれば客観的な出来事である。いくら「それは客観的な事実ではなく、あなたの主観的が生んだ妄想ですよ」と言っても聞かない。相手が「客観的な事実だ」と言っているのを否定するのは、それがいかに明確であっても難しいことだ。

結局、客観とはその程度のものである。客観性の評価は非常に難しい。「リンゴが木から落ちる」という事実と「誰かが頭の中に電波で話しかけてくる」という事実を区別することは究極的にはできない。前者を肯定して後者をバカにする人は、自分の頭の中に本当に電波が飛んできてもまだバカにしていられるだろうか?私にはその自信はない。しかし、それでも私は前者を肯定して後者を否定する。これは自分の頭の中に電波が飛んできていないからであり、大多数の人の頭の中にも電波は飛んできていないだろうと思っているからである。これがいい加減な論拠であることは百も承知だ。

自信がある人は、客観性を確保することが難しいことだと知っている。だからこそ、客観性を大事にはするが、客観性がないことをことさらに非難はしない。客観性はあって当然なのではなく、努力の結果なのである。そして、ことさらに客観性を要求もしない。自分が「なるほど」と思えればそれでいいのだ。