信頼

囚人のジレンマの話

最近、他人への信頼感がなくなってきているように思う。「人を見たら泥棒だと思え」と、初対面の人をむやみに警戒する。もちろんこの物騒な世の中で警戒するなと言う方がおかしいのだが、それはそれで何か寂しいものを感じる。

なぜ寂しいと感じるのか、それをここでは「囚人のジレンマ」の話を使って考えてみることにする。


囚人のジレンマの話は有名なので今さら書くことでもないと思うので、単純化して話を進めることにする。AさんとBさんという2人がいて、「協力」と「裏切り」の2枚のカードを伏せて出すものとする。そして同時にオープンして、その結果に従ってAさんBさんにお金の得失が発生する。どのようにお金のやりとりが発生するかを利得行列という。

次の利得行列になっているものが、典型的な囚人のジレンマゲームである。表の内容が、それぞれの人がもらえる金額だと思ってもらえばよい。

AB
両方とも協力20002000
Aが協力、Bが裏切り03000
Aが裏切り、Bが協力30000
両方とも裏切り10001000

このゲームのジレンマたる所以は、Aさんの立場になって考えてみればわかる。もしBさんが既に自分の手を決めてカードを伏せて出しているものとしよう。もしそのカードが「協力」だと仮定すると、自分は裏切りを出した方が1000円得をする。もしそのカードが「裏切り」だったとしても、裏切りを出すと1000円得をする。つまり、そのカードがどちらだったとしても裏切りを出すと1000円得をするわけだ。こう考えて裏切りを出す。非常に合理的な考えだ。

そしてBさんも同じように考えて裏切りを出す。すると両方とも1000円しかもらえない。もし二人とも協力を出していたら2000円もらえたはずなのに。どこが間違っていたのだろう?


上の話は単発のゲームだったが、それを何回もやることにしてみよう。相手は時々変わるが、それまでにその人がどういう手を出してどうだったかはわかるようにする。この方がより現実を模したゲームである。

このゲームには有望な戦略と言われているものがある。「しっぺ返し戦略」である。これは、相手が協力的なら自分も協力的にするが、相手が裏切り者なら自分も裏切り返すというものだ。実社会ではこれは基本的な戦略であろうし、ほとんどの人はこういう戦略をとっているだろう。それによって、裏切り者は割に合わないという認識ができて、結果的に皆2000円ずつ儲かるようになる。

しかし、しっぺ返し戦略が普及している世の中で、「しっぺ返し戦略」を知らずにこのゲームに新たに参加する人にとってはどうだろうか。恐いのは、しっぺ返し戦略に気がつかないうちに「裏切り」という手を試してみた人だ。最初の何回かはうまくいって、人より儲かる。そして「このゲームは裏切りの方が効率良くできているんだな」と思ってしまう。しかしそのうちその人は「裏切者」のレッテルを貼られ、会う人会う人みな「裏切り」しかしてこなくなる。ある時自分がたまたま「協力」を出してみても、相手は「裏切り」を出してくるだろう。相手はそいつが今まで裏切りしかしてこなかったことを知っていて、「きっと相手は裏切りを出してくるだろう」と思っているから。何をやっても「こいつはきっと俺を騙そうとしてわざと協力の手を出しているんだ」と思われてしまう。

そして裏切者本人はこう結論づける。「世間の人は口では協力が大事だと言っているが、本当は裏切りだらけだ。世間は俺を騙そうとしているのだ。俺が協力しようとしても相手はいつも俺を裏切った。やっぱり人間の本性は裏切りなのだ」と。それは自分でまいた種なのだが、その種を知らずにまいていたというところが痛々しい。


こんな時、「社会のルール」が決められる。ここでは「協力しかしてはいけません」というのが社会のルールだ。相手が協力しか出さないという取り決めがあるからこそ、自分も安心して協力を出すことができ、結果として儲かるわけである。

「ゲームのルール」と「社会のルール」は分けて考えてほしい。ゲームのルールは物理法則と同じで、そのゲームに参加する限り変えることはできない。それに対して、社会のルールはその場にいる人同士の取り決めで自由に変えることができる。ゲームのルールには存在理由はないが、社会のルールには存在理由がある。ルールに従うと最終的には皆が儲かるからルールになっているのだ。

しかし、人間が決めたルールなのだから間違いもある。時にはルールに従うと皆が損害を受ける結果になることもある。そういう時にはルールは守らなくてもよい。いや、守ってはいけない。ルールはあくまで皆で得をするためにあるものなのだから、皆が得をしない場合には守ってはいけないのだ。

「社会のルールを守りなさい」といくら言っても、ゲームのルールで認められている限り、相手はそれを聞かずに裏切りを出し続けることができる。ゲームのルールは変えることはできないから、相手が裏切りを出し続けるのを止めることはできない。ここで行われるのが「制裁」である。つまり、社会のルールを守らない相手を裏切者とみなし、そいつには裏切りしか出さないと決めることだ。これによって、少なくとも相手が得をすることは防げる。そして相手に「やっぱり裏切りを出すと結局損するんだなぁ」と思ってもらえるまで待つしかない。ゲームのルールを変えることができない以上、皆で儲ける仕組みを破壊する人を排除するにはこれしかないのである。

「自分が裏切りばかり出してたから悪いんだな」と理解できずに「世間は俺を敵だと思っている。俺は被害者だ」と言う人がいたら、単に「ルールを破ったからだ」と言うだけではダメだ。なぜルールが存在するのかまで説明しないといけない。ルールは自分たちが得をするためにあるのだ。


さて、利得行列を少し変えてみたらどうなるだろう。次には、この形の利得行列を考えてみよう。

AB
両方とも協力20002000
Aが協力、Bが裏切り5003000
Aが裏切り、Bが協力3000500
両方とも裏切り00

上の場合、両方とも協力的なら計4000円をもらえるのに対し、片方が裏切ると計3500円しかもらえない。この利得行列は完全に対称だから、同じように考えるプレイヤーが何回もやれば、平均的には双方が同じ金額を得ることになろう。だから、やはり双方で協力すべきである。

この状況が一般的な囚人のパラドックスと違うのは、相手が裏切りなら自分は協力した方が儲かるという点である。もし相手が、「裏切り」の手を真っ先に表を向けて出したとしたらどうなるか。目先の利益を考えると、自分は協力した方がいい。また、自分が裏切りを出したら両方とも何ももらえないのに対して、自分が協力を出すと全体の利益が3500円ある。このターンだけを考えると、協力を出した方がよいように見える。

しかし、ここはやはり裏切りを出すべきだ。なぜなら、ここで協力してしまうと相手がつけ上がるからである。「全員が協力する」という一番いい状態に持っていくためには、裏切りは例え自分が損をしてでも許すわけにはいかない。


もう一つ、別の利得行列の話をしよう。次のような行列だったらどうだろうか。

AB
両方とも協力10001000
Aが協力、Bが裏切り-1000000
Aが裏切り、Bが協力0-100000
両方とも裏切り00

これはどう考えても裏切りは割に合わない。しかし、本当に安心して協力の手を出せるだろうか?もし万が一相手がとんでもないバカで裏切りの手を出してきたらどうしよう。裏切りの手を出せば、相手がどうであれとりあえず損失はまぬがれる。いったんこう考えてしまうと、裏切りの手を選んでしまうだろう。それによって自分が「とんでもないバカ」になってしまう。恐い話だ。

相手を自分と同じように理性的に考える人間だと考えることができない人は、こういうジレンマにはまってしまう。「無知な一般大衆」というフレーズが好きな連中だ。相手がとんでもないバカだと仮定して話を進める人は、自分では「バカどもの行動までお見通しの俺って天才」と思っているかもしれないが、外から見たらただのバカである。


現実の世界では、ほとんどの場合は長期的に見て「互いに協力」が一番うまく行く。だから、互いに協力して相手に迷惑をかけないようにしましょうというのが社会のルールになっている。そして、それを守らない人には罰則を課す。それによって、より「互いに協力」をやりやすくする。

決して「ルールだから守らなければならない」のではない。ルールにはそれぞれ存在する理由がある。存在する理由があるルールは守らなければならないし、存在する理由のないルールは守らなくてもいい。こう考えれば、「ルールで禁止されてなければ何をしてもいい」という考え方はおかしい。間違っているという意味ではなく、たとえルールで禁止されていても何をしてもいいのだ。そのかわり後でどうなっても知らんぞ、と。

相手がルールを守って協力の手を出すだろうと予想して、自分も協力の手を出す。これが「信頼」である。相手が必ずこうするだろうという論理的な保証はない。しかし、保証がないからといって相手を信頼しないでいると、相手からも信頼されない。相手に信頼されなかったから自分も相手を信頼しない。この悪循環で、いつまでたっても誰からも信頼されない。

相手への信頼は必要。そして、相手が信頼に足る人間でなかった時は信頼しないこともまた必要。あと、良くわからなかったらルールはとりあえず守っとけ。そして、考えてわかるようになれ。なお、自分がわからないからといって「世の中が間違っているんだ!」なんて言うと後で恥をかく可能性が高いぞ。