技術の結晶

十分に進歩した技術は魔法と区別がつかない

「十分に進歩した技術は魔法と区別がつかない」というクラークの第三法則は非常に有名だが、これはSFが描く未来世界の話ではない。既に起きてしまっていることだ。もはや、ほとんどの人にとって技術は十分に進歩しすぎて魔法と区別がつかない。だから理系離れが起きるのである。

マイコンの出現が技術を魔法にした。今やコンピュータのないハイテク製品は考えられない。すべてのものにマイコンが入り出した1980年代以降に産まれた人は、技術と魔法が違うものであることを知らない。コンピュータは魔法であり、プログラミングは魔法の呪文である。そして、それが技術だと思ってしまっている。今回は、技術と魔法のどこが違うかである。

魔法とは何か。現実に存在しない(と思われている)ものなので難しい話だが、ここでは勝手にこう決めてしまおう。

魔法とは、自然の持っている力をうまくコントロールすることで自分の目的を達成することである。

魔法では、例えばファイアーボールは硫黄の粉末にむにゃむにゃと呪文を唱えて発生させる。硫黄の粉末には「火を起こす」という力が備わっていて、魔法使いは呪文を使ってその火をどこで起こすかをコントロールする。精霊の力を借りる魔法はもっとわかりやすい。風を起こすには風の精霊シルフを呼び出してそれに命令する。もっと現実的な例も挙げよう。例えば、我々は畑で「野菜を作る」と言う。しかし、本当のところは野菜というのは種をまけば勝手に生えてくるわけだ。「野菜を作る」という力は種にもともと備わっており、我々はそれがどこに生えるかをコントロールする。


私は子供のころラジオ少年だった。というとちょっと真実を歪んで伝えていることになる。私はちょうど「ラジオ少年」に乗り遅れて、「マイコン少年」との端境期にあたる頃だった。

「初歩のラジオ」は愛読していたが、ラジオは全然作っていなかった。理由の一つが、産まれたときからテレビがあったせいでラジオは全然聴かなかったことだ。私より上の世代にとって、ラジオは今のテレビくらい身近なものだった。(今やテレビはまったく身近でも何でもなくなってしまったのだが。少なくとも私は。)

そしてもう一つの理由が、鉱石ラジオが使えない程度には田舎に住んでいたことだ。鉱石ラジオこそラジオ少年への登竜門である。鉱石ラジオの意義は、それが電線と鉛筆と鉱石か錆びたカミソリの刃(とイヤホン)といった身近な材料だけで作れてしまうところである。ごく身近にあるこれらのものを組み合わせることでなぜかラジオができてしまう。これこそが技術だ。

私は、ラジオ少年には乗り遅れたが、かといってマイコン少年になるには早すぎた。そこで、デジタル電子工作少年になった。早押しゲームやモグラたたきゲームやパトカーサイレンなんかを作った。「身近にある」という条件が満たされなかったので、残念ながらラジオ少年が鉱石ラジオを作った時の感動は得られなかった。しかし、それなりには感動したし、今考えればそれは技術への感動だった。

「技術」とは、自分が目的とするものを、それとは関係ないものを組み合わせて作ることだ。鉱石ラジオのいいところはそれが身近にあるもので作れるということなのだが、その意義はこの技術の意味に関係している。電線や鉛筆や鉱石は、ラジオを作るために作られたものではあり得ない。しかし、それを組み合わせるとラジオができる。これが技術である。

技術の意味を知る上で鉱石ラジオがトランジスタラジオよりいいのは、「トランジスタはラジオを作るための部品なんだから、それを組み合わせてラジオができるのは当たり前じゃないか」と言わせないからである。鉱石ラジオの部品として目の前にあるものは、どれもこれもラジオを作るために作られたものではないことが一目でわかる。


ラジオ工作は技術だが、プラモデルは技術ではない。プラモデルは、ガンダムを作るために用意された部品を組み合わせることでガンダムができる。だから技術ではないのだ。それが「技術」になるために重要なのは、部品を組み合わせることではない。作るもととなる部品が組み上げた後の製品とは無関係であり、別の部品と組み合わせればまったく別のものができるということだ。

そんなわけで、PCの自作とラジオの自作には厳然とした壁がある。PCの自作は、PCを自作するために用意された部品を組み合わせてPCを作る。それがいかに難しいことだろうとたくさんの知識が必要だろうと関係がない。あるものを作るのに、そのものを作るために用意された部品を組み合わせていたのでは、できて当たり前なのだ。

これが「部品」と「モジュール」の違いだ。ラジオ工作で使う様々な部品の説明書(データシート)を見ると、やってはいけないことが書かれている。逆に言えば、やってはいけないこと以外は何だってやっていい。そして、何をすればいいのかは自分で考えないといけない。それに対して、PCパーツの説明書にはやるべきことが書かれている。そして説明書にある正しいやり方を実行しないと動かない。ものを「作った」といえるのは前者であって、後者は単に説明書通りに手を動かしたにすぎない。


最近では電子工作も一から部品を集めて作る人は少数派で、キットを買ってくる人が多いだろう。ラジオのキットを買ってただ説明書通りに組み立てるのであれば、これはプラモデルやPCの組み立てと同じだ。単に言われた通りに手を動かしただけに過ぎない。しかし、これを言ったら雑誌に書いてある通りにパーツ屋へ行って部品をバラで買ってきてそれを組み立てても同じだ。とすると、ラジオ少年も結局のところ本に書いてある通りに手を動かしたに過ぎない。説明書も何もないところから回路を自分で書いてラジオを作るのが「技術」であり、それ以外は単に手を動かしただけだ。とすると、昔も今もあまり違いはないのだろうか。

いや、そうではない。ラジオ少年は雑誌を見て「いつかは自分も回路を自分で書けるようになりたい」と思った。回路を考えて記事を書いた執筆者を「先生」と呼んだ。彼こそが技術者である。ラジオ少年は技術者を尊敬し、自分もああなりたいと思った。ラジオ少年は技術を持っていないが、技術に「触れる」ことはできたわけである。

しかし、PCの自作雑誌では執筆者は技術者ではない。本当の技術者はマザーボードやHDDなどを開発した人であり、記事の執筆者は単にそれを説明書を読んでつなげたに過ぎない。PCの自作雑誌にはここで言う技術者の名前は一人も出てこない。だから、PCをいくら自作しても技術に触れることはできない。

そうやって考えてみると、最近の電子キットには残念なものが多い。頼むから専用ICを使わないでくれ。理想的な電子キットは学研の「電子ブロック」だ。電子ブロックは、ブロックを組み合わせることでそれがラジオにもブザーにもウソ発見器にもなることを教えてくれた。そして、電子ブロックがすたれたのは、上位シリーズでサウンドICとかマイコンのようなコンセプトのずれたものを入れ始めてからだ。サウンドICを使ってサウンドを発生できてもそこには何の感動もない。


ラジオ少年がいなくなったのは、子供が誰もラジオを聴かなくなったからだ。その役目はマイコンが引き継いだ。しかし、マイコン少年は、ラジオ少年が持っていた技術への感動を一部引き継がなかった。

ラジオ少年の入口が鉱石ラジオだったのに対して、マイコン少年の入口はBASICだった。「ものを作る」という意味では同じだが、BASICでプログラムを作るのはラジオを作るのとは決定的に違う。ラジオとは違い、マイコンではBASICという他人の作ったものを土台としていることだ。

「ラジオだってトランジスタや抵抗という他人が作ったものを土台にしているじゃないか」と言うかもしれないが、少し違う。これは何度も述べている目的の問題である。BASICは、マイコン少年がプログラムを組むために作られたものであり、それ以外の何者でもない。しかし、トランジスタはラジオ少年がラジオを組むために作られたものではない。

しかし、マイコン少年にはまだ救いがあった。「マイコン少年」ともはや死語になった言葉を使ったが、この言葉は「パソコン少年」とはまた違う。PCがマイコンと呼ばれた時代は、本屋に行けば「PC-8001全回路図」みたいな本が買えた。それに「N-BASIC全解析」みたいな本もあって、メモリの何番地にどんな情報が入っているのかが全部載っていた。当時のマイコンは今のPCみたいな魔法の箱ではなく、中身を知りたいと思えばいくらでも知ることができた。

マイコン少年はみなBASICを卒業した後にマシン語を覚えた。マシン語こそがCPUを動かす根源的な仕組みである。マシン語を知れば、「なるほど、CPUはこうやって動いていたのか」とわかる。BASICといういかにも作り物臭いものの中をのぞいてマシン語を知り、自分が使っているPCが実はこうした単純な命令の集積であることを知る。

しかし、ここに実は一つのごまかしがある。マシン語はPCを動かすために誰かが作ったものであり、ラジオの部品のように無目的ではあり得ない。この違いはトランジスタとICの違いとはまた違う。デジタル工作ではトランジスタがたくさん集まったICを使うが、トランジスタとICは同じレベルにある。ICは単にトランジスタがたくさん集まったものだ。しかし、マシン語はトランジスタがたくさん集まったものではない。マシン語は何が集まったものでもなく、これ以上要素に分解することはできないものだ。だから、BASICを次々に要素に分解していき、これ以上分解できないマシン語に行きついた時点で人は満足する。しかし、マシン語はそれ以上部品にはできないが、マシン語は誰かが作ったものであり、単なる決まりごとである。

ラジオとマイコンの違いは層構造にある。ラジオは単純で、単に部品を組み合わせたものだった。マイコンは、トランジスタの組み合わせであるハードウェアという層の上にさらにマシン語の組み合わせであるソフトウェアという層を重ね、そこにBASICという皮を被せたものだった。ラジオ少年はラジオという皮をはいで中の部品を見て感動した。マイコン少年はBASICという皮をはいでマシン語を見て感動した。しかし、マイコン少年はさらにその下に皮がもう一枚あることに気づかなかった。もしかしたら気づいていたかもしれないけれど、その下の皮は自分の知っている世界とは全然違ったものだったからはがすのをやめた。

重要なのは「皮をはがす」ことなのか、「皮を全部はがす」ことなのか。前者ももちろん重要だが、後者こそが技術である。もっと正確に言えば、皮が一枚もないところから皮を順次積み重ねていってものを作るのが技術である。だから、土台を発見しないと技術の感動とは言えない。ラジオ少年とマイコン少年は一見対象が違うだけで同じことをしていたように見えるが、質的に大きな違いがある。もちろんマイコン少年はラジオ少年より劣っていたわけではなく、ラジオ少年にはなかった「層」という概念を代わりに発見したのだが。


時代が下って、PCは「マイコン」ではなく「パソコン」と呼ばれるようになった。そしてPCはやりたいことをやるための道具になった。マイコン少年とパソコン少年の違いは、他人の作ったものに乗っかることに対する抵抗感である。

マイコン少年は原理のわからないものを使うことが嫌いで、それがどんな原理に基づくものなのか知ろうとする。それに対して、パソコン少年はその抵抗感がない。ブラックボックスはブラックボックスのまま使おうとする。ソフトウェア工学はパソコン少年的なものの考え方を勧めている。

PCでは、何か目的を果たすのにもはや独創的な技術は必要ない。その目的を果たすための部品がすべて用意されているからだ。我々がしなければいけないのは、自分がしたいことの一部を実現するソフトウェア部品をかき集めて、それらをつなげてものを作ることだ。そして、ソフトウェアを作る時にはブラックボックスの中身を気にしてはいけない。そんなことを気にしたら泥沼にはまって抜け出せなくなる。

昔は、ソフトウェア部品のバグや副作用を利用することもたまにあった。これこそが、部品を本来の用途で使わないで新たな用途を作り出すことこそが技術だ。そして、ソフトウェアの世界ではそれはしてはいけないことだ。ソフトウェアの世界では自分勝手に技術を発揮してはいけないのだ。

そして、パソコン少年はマシン語を勉強しなかった。いや、もしそれが必要ならば勉強するのだが、それが自分のやりたいことに必要でなければ勉強しなかった。パソコン少年には「自分のやりたいこと」が他にある。これが、PCを理解することが目的だったマイコン少年とは違うところだ。そして、自分のやりたいことをやるためにPCを利用する。

もはや、技術の皮ははがしてはいけないものになった。皮を一枚や二枚はがしたところで意味はないし、皮をはがし始めるとキリがないぞ、というわけだ。皮をはがそうとはせず、自分で上に皮をかぶせるだけにする。それが技術の使い方だ。それが何なのかわからなくても、使えればそれでいいのだ。


今では、人の目的が複雑すぎて、目的のない部品から作り上げられなくなってしまった。それだけではなく、目的のある部品をどんどん分解して目的のない部品にまで行き着くことすら普通の人には不可能になった。そして、ものを作るために目的のある部品を組み合わせることが当たり前になってしまい、そこに疑問をはさまなくなった時、技術は魔法になる。

今の子供は技術に触れる機会がない。と、こんなことを言うと「じゃあ子供向けの工作教室でペットボトルロケットでも作らせよう」と言う人がいる。それでは意味がない。今、自分がすごいと思っているものが技術の力で実現されなくてはダメなのだ。ラジオ少年は日頃「ラジオってすごいなぁ、なんでこんな魔法みたいなことができるんだろう」と思っていた。ラジオは彼らが接する一番高度なものだった。それが実際には魔法ではなく技術でできていたから感動したのだ。もし子供が「ペットボトルロケットってすごいなぁ、なんでこんな魔法みたいなことができるんだろう」と思っていたならペットボトルロケットを作って技術の素晴らしさに感動できるのだが、そうでなければ「わーい、飛んだ飛んだ、面白ーい」で終わってしまう。

子供が接する一番複雑なもの、今だったら例えばケータイやゲーム機を技術の力で作ってみせないといけないのである。我々が示したいのは、「技術の結晶も存在する」というメッセージではなく、「すべてのものは技術の結晶である」というメッセージだからだ。ケータイが技術の結晶だということを示すには、ケータイの原理をAND/ORゲートや電磁波といったレベルに至るまで説明し尽くすことが必要である。もちろん、「ケータイもトランジスタからできてるんだよ」「ふーん」というお話ではなく、時間さえかければ自分にもトランジスタを組み合わせてケータイが作れると思えるようになるまで説明をしなくてはならない。そんなことは子供相手でなくてもほとんど不可能だ。神秘のベールを一枚や二枚はいだところで、それは魔法の結晶にしかならない。

結論。我々にとって技術はもはや魔法になった。だから技術立国などという前時代的なスローガンはやめて魔法立国(正しくは「情報立国」)を目指せ。ただ、マザーボードやCPUを買ってきてPCを組み立てることを「自作」と呼びたくない心境は理解してくれ。