文系と理系 再び

文系と理系の本当の違い

このコラムの始めの頃に、文系と理系という話をした。それから、話を始めたまま放り出してしまっていた。世の中で文系と理系がどう定義されているかはともかく、ここではまた違った見方を提案したい。単なる仮説なので、あまり真に受けないように。

理系人間と文系人間の間でよく文化摩擦が起きる。理系は文系のことを「ただのバカ」とみなし、文系は理系のことを「現実離れ」とみなす。世の中では本当に「文系=ただのバカ」という意味で使うことも多々あるのだが、ここではそんな単純な話はせず、「頭のいい理系」と「頭のいい文系」の違いの話をする。

なぜこういう差が出るのか。それは、理系と文系の研究対象の差からくる。理系は自然を、文系は人間を研究対象とする。どちらも同じように複雑で、同じように頭のいる研究対象だ。しかし、その考え方はほとんど逆といってもいいくらい異なる。


理系の人は、まず自然をよく観察し、実験をしてデータを集め、そこから法則性を導き出す。文系の人はまず人間をよく観察し、仮説を立て、それを現実にあてはめて正しいかどうかを確認する。

つまり、理系と文系では、法則性と事実が逆になっている。理系はまず事実があってそれにあてはまる法則を出すという順番なのに対して、文系ではまず法則を立ててそれを事実と比べて検証する。

この方法論を逆にすると困ったことになる。理系の分野を文系の方法で研究すると、それはトンデモ科学になる。彼らは「ゲームは脳に悪い」とか「マイナスイオンは体にいい」といった法則をまず立て、それを実験によって実証する。逆に、文系の分野を理系の方法論で研究するとそれは机上の空論になる。株価の過去のデータから株価の法則を導き出すと、それは確かに過去のデータについてはよく当てはまるが、未来のデータには全然当てはまらない。

これは、自然と人間の特色の違いを考えればわかる。自然の法則は変化しない。同じ実験を繰り返せば同じ結果になる。だから今やった実験から求めた法則性はいつになっても通用する。それに対して、人間の法則は時代とともに変わる。だから、今のデータから法則性を求めても、それが未来に通用するとは言えない。だから、文系の分野を理系の方法論で研究することはできない。

しかし、文系の分野には強みがある。自然は未知のものであるのに対して、人間とはすなわち自分であり、自分のことは自分で知っているからだ。ある状況下で原子がどのように動くかは実験しないとわからないが、ある状況下で自分がどのように動くかは実験しなくても自分にはわかる。だから、既にわかっている「自分ならどうするか、どう感じるか」を基準にして物事を考えていくのだ。

つまり、理系の分野では実験して集めたデータこそが正しく、それを集めてきて何らかの法則を導き出すという帰納法を使う。それに対して文系では、自分が感じたことこそが正しく、それが複雑に絡み合うとどうなるかを演繹法で導き出す。


残念なことに、学校教育ではこの原理の正反対のことをやっている。理科ではまず公式を教え、そしてそれを実験で確認する。逆に文系では個々の歴史上の出来事をまず教え、その間の関連性を考えさせる。だからどちらもつまらない授業になってしまう。

例えば、理科の実験はどうあるべきか。万有引力の法則を教えたいのなら、公式を教える前にまず実験をさせよ。手順も何も説明せず、理科室で課題だけ与えて放置しろ。例えば「物体が落下する時の位置と時間の関係を導き出しなさい」とだけ言えばいい。もう少し面白そうに言うなら「東京タワーのてっぺんから石を投げたら何秒後に地面に当たりますか?」と質問してもいい。ただし、教科書も参考書も何も見ないこと。そのかわり、理科室にあるものは何でも使っていい。そして、「○○がしたいんですけどこれを測れるいい道具はありますか?」という質問のみ受け付ける。あとは道具を壊されないようにすることだけを気にかければいい。

逆に、社会だったら例えば「学校のルールを決めるにはどうしたらいいと思う?」と聞いて、自由に意見を出させてみよ。(本来なら)これは討論番組のような激しい議論になるはずだ。それが一服したら、「実際にはどんな仕組みになっているかを調べてみよう」と言えばよい。こう誘導すれば、きっと自分の意見を正当化しようと海外の立法制度や古代ローマの民主制の例を持ってくる生徒もいるだろう。想像するだけで面白そうな授業だ。

もちろん、「それは理想論であって、実際はそんな悠長なことは言ってられない」というのは事実かもしれない。しかし本当のところはどうなんだろう。方程式を覚えさせて宿題で練習問題をやらせてそれを黒板で解かせてみて……という時間すべてと比べて、上で書いた実験は本当に時間がかかるだろうか?


と、またまた教育の話になってしまったがこれは本意ではない。理系と文系の考え方の違いを認識すればいろいろなすれ違いが見えてくるということだ。

例えば、物事を説明するのには2通りのやり方がある。前にも書いたが、Word のメニューを説明するのに「フォントを変えるには書式→フォント」「インデントの数を変えたいなら書式→段落」などというように数々の例を示すのは理系のやり方だ。理系の考え方をする人なら、こうした数々の例を見て「ああ、書式というのはフォントやインデントなどのことなんだ」と思う。彼の頭の中では、フォントやインデントといったものが一般化された「書式」という概念がつくられる。

しかし、同じ説明を文系の人にすると「例ばかりいくら出されてもわからん。結局書式とは何なんだ」と言われる。いくつも例を挙げた後で、「なんだ、書式とは文字の見せ方の指定のことなのか?だったらはじめからそう言えばいいのに」と言われる。

逆に、「文書にはテキストと書式という2つの概念があり、テキストとは文字の並び順のことで書式とはその見せ方の指定で……」と説明すると理系の人はおそらく「そんな風に文章でグダグダ言われてもわからん。書式とは例えば何だ。例を挙げてくれ」と言うだろう。つまりこれは何を説明とみなすかの話である。理系の人が説明だと思っているものは文系にとっては説明でもなんでもなく、逆に文系の人が説明だと思っているものは理系にとっては言葉遊びにすぎない。


これを「避けられない文化摩擦」だと言ってはいけない。どっちの考え方もできるようになればいいだけだ。言いたいことはむしろ逆で、これを避けられない文化摩擦だとみなすことは問題である。

冒頭にも書いたように、本来、理系の考え方と文系の考え方は対象で分けるべきなのである。自然や現象、事実を対象とする場合は理系の考え方を用い、人間や表現、思想を対象とする場合には文系の考え方を用いるべきだ。どちらか一方の考えを修得すればいいというものでもないし、相手によって使い分けるべきことでもない。

また教育の話に戻ってしまうが、「文系=バカ」とみなされるのは学校教育に原因がある。学校では理系の考え方、つまり数ある事実からパターンを抽出して法則を見出だすことは教えるが、文系の考え方、つまり自分の思ったことを述べて自分の観点から検証することを教えないからだ。学校では全くやらないから、それが知性の一要素だと認識されないのである。

教育の話ついでに読解力の話もしておこう。読解力とは、自分の中にある概念を書いたり、他人が書いた概念を読んで自分の中にも構築する力だ。これは文系の力である。それが落ちている、という話は前回した通りである。

学校で理系の考え方ばかりをやって文系の考え方を訓練しないから、理系の考え方だけがはびこることになる。文系の考え方をする人もあまりにも下手だから、なんとなくみんな文系の考え方より理系の考え方の方がいいように錯覚してしまう。そして、文系の考え方をつらぬく自信がなくなってしまう。

かくして、理系の議論に文系の論理を持ち出すと「トンデモだ」と批判されるが、文系の議論に「客観的に証明してみよ」とか「証拠を出せ」などと理系の論理を持ち出しても批判されない。客観的な証明の方が主観的な意見より良いという思い込みがあるから、「人間の気持ちなんて客観的に証明できるわけないじゃん。あんたバカ?」となかなか言えない。「お前の意見には証拠がない」と言って喜んでいるバカにははっきりと「そうだよ。それが何か?」と言ってやればいい。


結論。文系の考え方と理系の考え方は違う。それは考える対象によって使い分けるべきだ。目の前の問題が文系の問題なのか理系の問題なのかを認識し、それに適した考え方をせよ。

と結論を書いた後の蛇足で恐縮だが、私の「プログラマは文系の職業」説もここから来る。制御プログラムみたいなものを除けば、最近のソフトウェアの多くは人間だけを対象としている。だから、文系の考え方をしないといけないのだ。ソフトウェアを理系の考え方で作ると、ごちゃごちゃしていて基本概念のないものができてしまう。