本当の学習とは

良い問題とはどうあるべきか

すでにあちこちのブログでも書かれているが、OECD国際学習到達度調査で日本の学力が低下したというニュースがあった。ブログでは賛否両論いろいろある。しかし、このニュースについてあれこれ述べる前に、まず問題を見てほしいと思う。詳しい情報は文部科学省の今回の調査のページや、PISAのページなどにある。文部科学省のページには今回の問題文は掲載されていないが、2000年に行った時の問題は掲載されている。だいたい同じようなものだろう。(問題例 PDF版)

統計の取り方がどうこう言う人もいるが、問題を見よ。こういう問題の話をしているのだ。そして、もう一つの事実は、この手の問題に白紙で出した人が多いということ。そして、昔はそうではなかったということである。事実、2000年の調査では日本人の学生は皆できていたのだ。

問題を見れば、「なんでこんな問題の答えが書けないんだ?」と思う人が多いはず。ちょっと考えれば書けそうな問題じゃないか。なぜこんな問題に答えられなくなってしまったのだろう、というのが今回の問題である。


ここの問題はさすが良問揃いだ。こんな面白い問題、日本のテストでは見たことがない。だから「ペーパーテストで何がわかる」という否定はしてほしくない。これは、昔日本が詰め込み教育だったころのペーパーテストとは別物だ。以前のコラムでテストの問題の話をしたが、変な問題を出すのはやめてこういう問題にしろと言いたかったのだ。これこそが考える力を測るテストだ。そして、その通りに日本のテストも変わってきている。こういう面白い問題が出るようになってきている。

だからこそ、これを「ゆとり教育の問題」ととらえるのは間違いである。そもそもゆとり教育とは何だったかというと、定期テストが終わったらすっかり忘れてしまうような下らない知識の詰め込みはやめて、基本的な考える力を養成しようというものだった。だから、方向性は合っている。つまり、こんなテストをできるようにしようと始められたものだったということである。

しかし、現状を見る限り、それはかえって逆に働いている。「ゆとり教育ではダメだ」と言うのではなく「あんなにゆとり教育が大切だと言ったのに、いまだにゆとり教育ができてないじゃないか」と言わなくてはならない。目的と理念は正しく、手段が良くないのである。

せめて、暗記するだけで解けるテストは悪問、今回のようなテストが良問だとわかってもらえるだろうか。生徒たちがそれすらわからないようになっていたとしたらそれこそまずい。


結果を見ると、考える力の二極化が進んでいる。「考える力」は正のフィードバックを持つから、これはある意味当然の結果である。考えることが得意な人はより考え、考えることの苦手な人はより考えなくなる。だからだんだん差は開いていく。

考えない人には、考えようという意思がない。考えるのは面倒なので、持ち前の記憶力だけで対処しようとする。だから、記憶にある問題は解けても記憶にない問題は解けない。だから答案は白紙で出さざるを得なくなってしまう。

「よくわからないけど適当に書いておこう」とすら思えなくなっている。もしかしたらどうせ適当に書いても無駄だと思っているのかもしれないし、変な解答を書いて先生にバツをつけさせる手間を省くのがマナーだと思っているかもしれない。しかし、何事も書かなければ始まらない、ということに気がつかない。

こんな問題、自分で考えて何か書けばそれが正解だ。と言うと誤解されるかもしれないが、別に難しい問題じゃないんだから、書いてあることを受けて何か書けば、そうそう外れた解答にはならないはずだ。なのに、これができない。

少し前に「国語の問題はインチキ」説が流行った。「国語の問題は作者ですら間違える」とか「こんな問題はできる方がおかしい」という説だ。これは間違いである。国語の問題はインチキではなく、ちゃんと考えることのできる人ならちゃんと正解できる。「人を困らせないように」という変なマナー意識がある。どうせ考えても間違った答えを書けば0点なのだから、そんなことをするくらいなら別のわかる問題をやった方がいい。それどころではなく、わからない問題は白紙で出すのがマナーだとすら思っているかもしれない。先生はいちいち解答の文章を読んで、間違っていたら結局バツをつけなくてはならない。何も書かなければ先生の読む手間が省ける。

「考える喜び」を知らないのだ。


という意味では、詰め込み教育の方がよかったのかもしれない。

言葉と実際に思っていることは違うということを本人も気づかないうちに学んでしまう。言葉は建前、見せかけだけで、その裏にある本音を見抜かなくてはならない。言葉を読解しても役に立たないのだから、読解能力が育つはずがない。「自分の意見を言ってください」と言われても、実際には自分の意見を言うのではなく先生が認める意見を言わなくてはならないのだから、自分の意見を持てるはずがない。

言葉が、「相手に自分の真意を伝えるもの」ではなく、「自分の真意を隠して相手を自分の都合のいいように誘導するもの」になってしまっている。誉められたい、いい成績をとりたいという自分の都合に合わせて、そのためにはどんな答えを書けばいいかを考え、そういう答えを書く。こういう訓練を繰り返すと、自分の意見を考えることができない人間になってしまう。だから、読解力問題で「あなたの意見を」と聞かれても、自分の意見を考えるのではなく、無意識のうちに「ここにどんな意見を書いたら正解なんだろう」と考えてしまう。

今回の調査の論評の中に、「白紙で出す」ことを問題視しているものがいくつかあった。おそらくこれは、あちこちで書かれているような「考えてわからないとすぐ放り出す忍耐力のなさ」ではない。

当の生徒達は「わからなかったんだから白紙なのは当たり前じゃん」と思っているのではなかろうか。しかしこれは数学の問題がわからなくて白紙なのとは訳が違う。「あなたの意見を」と書いてある以上、何か書けばよっぽど理屈に通らない変なことでない限り何でも正解なのだ。「これって何書いても正解じゃん。もしかしてサービス問題?」と考えずに、白紙で出したのが問題なのである。何か書けばそれが正解なのに何も書こうとしないから「書くことができなくなっているんじゃないか」と言われてしまうのである。

おそらく、生徒たちは「何か書けばそれが正解」と理解できなかったのだと思う。そもそもテストは考えて解くものではなく、既存の知識を当てはめて解くものだと思っているのではなかろうか。そうだとすると、テスト問題を見て当てはめられる公式や知識がなかったらその問題は解けないことになる。問題文をパッと見て、見たことのないタイプの問題は絶対に解けないから解こうとしない。

あるいはこれを「真意」と読み換えてもいい。学校の課題には必ず正解と不正解があり、それはいくら「自由に」と書かれてもそうだ。長年学生をやって、読書感想文の場合には「戦争はいけないことだと思いました」みたいに書かなくてはならないし、遠足の作文では「天気が良くて気持ちよかった」と書かなくてはいけないことを学ぶ。「マリア様がみてる」を読書感想文に選んだり、遠足の作文で「遠足なんてガキっぽいことやってられるか」と書くと怒られる。どれにも必ず「正解と呼ばれるもののパターン」があるのである。だいたいは、先生が最初に「読書感想文はこんな風に書くんですよ」といくつか見本をくれる。その見本を見比べてパターンを抽出すればいい。

正解のパターンは先生が一方的に決めるものだから、いくら考えてもわからない。とすると、今回のように初めて見る問題でいきなり解答を求められると何を書いていいのかわからないのだ。おそらく、その下に解答例がいくつか書いてあれば日本の学生にもすらすら解答できたのではなかろうか。

「日本人の子供は家で宿題をやらない」という調査結果も出ているが、さもありなんと思う。こんな面白い問題を出されたら家でもやってみようと思うだろう。なぜ日本の子供は家で宿題をやらないかというと、出される宿題がつまらないものばかりだからだ。そして、そういうつまらない問題をいくらやっても下らない選択問題テストでいい点が取れるだけで、今回のような本物のテストでは何の意味もない。そういう意味で、宿題をやらない生徒たちに私は同情する。単純に言えば、学校の勉強がつまらないのだ。


テストがあって正解と不正解があるという考え方が、このような生徒を生む。正解と不正解を望ましい解答と望ましくない解答に置き換えてもよい。とにかく問題は、どれが正解でどれが不正解なのかは知識として知っていないといくら考えてもわからないという考え方だ。

そしてこの考え方は体験によって生み出される。一生懸命考えてみてどうしても答えが出なかった問題の解説を見たときに、「この公式にはこんな使い方があったのか。知らなかった」と思ったならば、その生徒はこの問題を解くには「公式のこんな使い方を知る」ことが必要だったと思ったということだ。これはつまり、問題を解くには公式の使い方をたくさん知る必要があるということであり、使い方を知らない問題は解けないということだ。

解説を見たときに「なんだ、こんな簡単なことならオレにもわかったはずだ。だったらもっと一生懸命考えればよかった」と思ってもらえるようでなければならない。そして、こう思ってもらえるような問題だったら、そもそも答えがわからなくてもすぐあきらめたりはしないだろう。みんな一生懸命考えて、そして正解するだろう。つまり、いいテストとは、時間がたっぷりあれば皆100点がとれておかしくないようなテストだ。

「そんなテストじゃ差がつかないんじゃないか」と思うかもしれない。そのために絶対評価が導入された。差がつかなくていいのだ。皆100点が取れたら皆よくできましたでいいのだ。冒頭の学習到達度調査では生徒を6段階にレベル分けしている。だから決して差がつかないわけじゃない。6段階に差がつくが、6段階にしか差がつかない。

それぞれのレベルは、何問できたかではなくどれだけ複雑な問題ができたかで分けられている。レベル分けされたら自分は何ができていないのかがわかる。他の人がどの問題をできたかということは自分がどの問題をできたのかということとはまったく関係がない。他人がどうあろうと、自分ができなかった問題をやればいいだけだ。生徒同士を比較するのはおかしいのだ。

例え点数がつくようなテストでも同じだ。単語テストでは単語をいくつ覚えられたかで順位がつく。しかしその順位は無意味だ。順位に関係なく、覚えてなかった単語を覚えるべきであり、覚える必要のある単語はすべて覚えるべきだ。つまり、最終的には結果は100点満点にならなければいけないのであり、100点を取れるようになるまで勉強すべきだ。みんなが80点で自分だけ90点であっても、自分は何もやらなくていいことにはならない。自分は100点を取れるまで勉強しなくてはならない。もし100点を取らなくてもいいのだったら、それは問題が余分なのだ。できないといけない問題だけに絞るべきだ。


こんなことは、昔の生徒はみな分かっていた。学校の規則は間違いだらけで、学校で学んだことは社会では役に立たず、テストは単にいい高校や大学に入るだけのものだった。だから、テストができた/できなかったからといってどうってことはなかった。

「学校で学んだことは社会では役に立たない」というのが当たり前だったから、ちょっとでも役に立つと「おっ、学校の授業もたまには役に立つんだな」と思えてうれしかった。ゆとり教育では「学校で学ぶのはテストでいい成績をとるためではなく社会で役立てるためだ」と教えているはずだ。しかし、本当に教える内容も変わっているだろうか?

これはインチキだと言ってインチキを教えるより、これはインチキではないと言ってインチキを教える方がより罪は深い。