サイバーパンク

「楽しければいい」の履き違え

今、ちまたにはサイバーパンクがあふれていて、どの小説もマンガも当たり前のように電脳世界やらジャックインやらと言い始めている。しかし、本当はサイバーパンクは形式ではなく精神である。そして、サイバーパンクの精神を本当に体現している小説は多くない。特に日本には。サイバーパンクとは何か、これが今回のテーマである。

最初に言っておくが、私はこういう考え方もあるのだと言っているだけで、こういう考え方をしなければいけないとは言わない。以下すべては「もしサイバーパンク思想が正しいとしたら」という仮定が頭についていると思って読んでほしい。


脳にジャックインして電脳世界が出現すれば何でもサイバーパンクだと思っている人もいるかもしれない。しかしそれは形式を真似ただけで、底に流れる考え方までを言い表していはいない。サイバーパンクとは極論すれば次の考え方のことだ。

自分とは、脳の神経細胞の興奮パターンのことである。

このパターンさえ同じならば、それが脳だろうと電気信号だろうとソフトウェアのシミュレーションだろうと、それは自分である。体がどうだろうと、これさえ同じなら自分であり続ける。これがサイバーパンクの精神だ。

だから、脳以外がすべて人工器官だからといってうじうじ悩む主人公はサイバーパンクぽくない。脳さえあれば体は何だっていい。体は化物だって機械だってかまわないし、体なんてなくたっていい。

マンガやアニメではよく心臓の音がしなくなったことを人間性を失う前触れのように表現する。これもサイバーパンクの考え方からするとおかしい。心臓の音と自分の意識や人間性とは関係がない。自分の心臓の音がしなくなったら「これで心臓麻痺で死ぬことはなくなった」と素直に喜べばいいのである。

サイバーパンクの思想から言えば、能力は人間誰しも欲しがるものである。もし走る速度が10倍になるサイボーグ足が発明されたら、皆自分の足を切り落としてそのサイボーグ足をつけるだろう。そういう仮定に立っている。そういう意味では、日本のマンガで一番サイバーパンクっぽい主人公は星野鉄郎だ。人間誰しも機械の体が欲しい。この考え方である。

しかし、身体改造には限界がある。いくら速く走れるようになってもせいぜい時速100km程度だろう。それより速くなろうと思ったら体を捨てるしかない。ただの電気信号になれば秒速30万kmで走れる。そこで電脳空間の出番だ。電脳空間こそ、物理的な制限が無くなった理想郷だ。だからサイバーパンクには電脳空間が出てくるのである。


サイバーパンクの思想は、精神というものを体から切り離して考えることだ。だから、欲求も精神の欲求と体の欲求を分けて考えないといけない。食欲や性欲などは体の欲求であり、精神の欲求ではない。だから、そんなものは適当にあしらっておけばいい。

うまいものを食べることに情熱を傾ける人がいる。後述するようにこれは精神の欲求ととらえることもできるが、基本的には体の欲求である。食は人間が情熱を傾けて求めるものではなく、体が満足しさえすればそれでいいものだ。腹がふくれさえすればジャンクフードだろうがパンの耳だろうが何だっていい。ただ、あまり栄養がかたよると体を壊すので、それに気をつければいいだけだ。

人は、より良いクソをすることを求めないように、より良い食事も求めないものだ。食事は自分の体が壊れないためのメンテナンスである。メンテナンスは必要悪であり、やらなくても問題ないのならやらない方がいいことだ。もし一日分のバランスの取れた栄養が丸い粒1個でとれるのなら、料理というものはこの世から姿を消して、皆喜んで丸い粒だけを食うだろう。

では体の欲求ではない精神の欲求とは何かというと、体験の欲求である。新しいものを見たい、知りたい、感じたいといった欲求だ。食事の欲求を「うまいものを食べたい」ではなく「新しい味覚を体験したい」と解釈するなら、新しい食を日夜求めるのはおかしくない。そしてその時には、評価基準はうまいかどうかではなく新しいかどうかだ。新しければ、それがバナナ味のスパゲッティだろうと辛いかき氷だろうと喜んで食べに行く。もっとも、不味いものは簡単に作れるから、わざわざ不味いものを求めて努力することはないだろうが。

つまり、食の欲求(やその他いくつかのもの)は動物並みのレベルの低い欲求であり、そんな欲求に振り回されているうちは本当の自分の欲求である精神の欲求は満たせない、ということだ。動物並みの欲求はできるだけない方がいいが、そうはいってもある以上仕方がない。今のところは、いつかこんな下らない作業は必要なくなるような体が手に入ることを夢見て、面倒に思いながらも労力を割くしかない。


自分とは精神であり知性である。考える能力だ。しかし、自分とは感情であると思っている人がいる。感情は体に左右される。だから体とは切り離された自分というものは存在しないことになってしまう。

サイバーパンク思想ではアルコールは害悪だ。アルコールは体に作用して、その結果精神に影響を及ぼすからだ。精神が体を動かすのではなく、逆に体が精神を動かすようになってしまう。酔うと「精神の自分」が消失して「体の自分」にとって代わる。これが「自分を失う」ということであり、「私が消えていく……何かに侵されていく……別の何かが私にとって代わろうとしている……」と言って恐怖すべきことである。

逆に、サイバーパンクでよく出てくるのはアッパー系のドラッグや幻覚剤である。アッパー系ドラッグは精神の活動を促進し、幻覚剤は精神を体から切り離す作用がある。だからどちらもサイバーパンクの思想にマッチし、好んでネタとして用いられる。(もちろん、実際にはどれも副作用があって大変なことになるので、よい子のみんなは真似しないように。)

酔うことを「ありのままの自分が表に出る」と表現する人がいる。これは、普段の知的活動はありのままの自分ではないということであり、人間的な脳が眠らされた後の動物的な脳こそが自分だということだ。これはサイバーパンク思想と対極にある考え方だ。サイバーパンク思想では、酔った後の自分は本当の自分ではなく、体の制御が効かず暴走した結果である。


最近では面白さを表現するのに「鳥肌が立つ」とか「アドレナリンがドバドバ出る」といった表現をする。こうした身体の状態による表現はしょせん体のレベルのものであり、精神のレベルのものではない。「鳥肌が立つ」感動があることは否定しないが、それはしょせん体が感じているだけの感動だ。我々はできるだけ体の影響を断ち切って精神のレベルでものを考えたい。味や感動をすぐ身体的なもので表現する最近のTVレポーターは、様々なことを精神ではなく体のレベルでしか受け止められないということであり、動物的で知的水準が家畜並みに見えるから批判されるのだ。

批判に対して、「楽しければいいじゃん」という人がいる。これはその通りだ。問題は何を楽しいと思うかである。批判は、「楽しくないこともしなさい」という意味ではなく、「そんなものは真の楽しさじゃない」という意味だ。自分とは精神であり知性であるから、「楽しさ」とは精神的、知的な快楽をいう。肉体的な快楽ではない。肉体的な快楽で満足しているのは、自分が体に騙されているということだ。

もし「楽しさ」が知的な快楽なのであれば、なぜ楽しいのかが説明できるはずだ。それができないから「理屈なんてどうでもいい。楽しければそれでいいじゃないか」と言うようになる。これは、その楽しみが動物並みのレベルの低いものだと自ら言っていることだ。それは本当に楽しいのではなく、脳内麻薬におぼれているだけだ。


まとめよう。人間には精神というものがあり、それは体とは独立していて、それこそが真の自分自身である。精神は体を使って現実世界に関わりを持つ。体は精神の道具である。

常に道具をいい状態に保っておきたいと思うし、もっといい道具があったらそれに交換しようと思う。しかしそれはあくまで道具を使って自分の望みを達成するためにである。道具のメンテナンスやアップグレードが自己目的化しているところに違和感や空しさを感じるのだ。ほとんど乗りもしない車を毎週末洗車している人や、最高スペックのPCをつくったのにベンチマーク以外に実行するものがない人に抱く空しさである。

道具は使うものであり、道具に使われてはいけない。それよりもっと恐いのは、道具を使ってやりたいことがないのではないかという危惧なのであるが。