外見と本質

結果がすべてか

日本人は「結果オーライ」という言葉が好きだ。ゴタゴタ理屈をつけるより実際にやってみろ。体で覚えろ。経験を積んで初めてわかるんだ。こんなことを言う人が多い。

と言うと、いかにも頑固親父を批判しているだけのように見えるが、実際はそうでもなく、若い人間でも同じことを言う。動いてるんだからそれでいいじゃん。楽しければそれでいいんだよ。そんなことを考えて何の役に立つわけ?などなど。

多くの人は、学校を「真理の探究の場所」ではなく「役に立つ知識を覚える場所」と見ている。そもそも一般人は「真理の探究」なんてしないし、「そんなことをして何の役に立つの?」とすぐ聞く。(カミオカンデで有名な)小柴さんにそんな質問をした新聞記者もいたそうだ。

では役に立つ知識とは何かというと、問題を簡単に解くための知識である。問題の解法のパターンである。こうしたパターンをいくつも持っていれば、どんな問題が来てもすぐに対応できる。しかし、本当にこれでいいのだろうか?


話は飛んで、ロボットの話をする。最近ロボットの世界で歩行ロボットや話すロボットなどいろんなロボットが出てきたが、これが起きたのには理由がある。人工知能の基本的なトレンドが変わったのだ。

今までは、人工知能は「理解」を目指していた。例えば机の上にあるオレンジを認識するには、機械は「丸い」「黄色」「表面がぶつぶつしている」といった特徴を認識して、「だからこれはオレンジだ」と結論づけていた。今の手法はちょっと違う。オレンジの絵、リンゴの絵、バナナの絵などの膨大なデータベースを比較して、「これはオレンジの絵に一番似ている。だからこれはオレンジだ」と結論づける。

昔の人工知能学者は、「知能とは何か」「認識とは何か」と一生懸命考えた。「丸いというのはどういうことか」「人間はなぜみかんやボールを見て丸いと認識するのだろう」と考えた。結局、彼らは答えを出すのをやめた。みかんは丸い。ボールも丸い。そういう知識があるからみかんやボールを見て丸いと判断するのだ。「丸い」というのは丸いものの総称である。こう考えるようになった。

人工知能学者は、「知能とは何か」という難しい問題を考えるのをやめた。問題に対して答えが出てくれば、その過程は何であってもかまわない。ニューラルネットワークや遺伝的アルゴリズムなどの考え方もこれだ。なんかよくわからないけど答えがあっていればそれでいい。入力があってそれに対応した出力がされればそれでいいのだ。

ペットロボットがその最たるものだ。「頭をなでると喜ぶ」というけれど、頭をなでられたのを感知して喜んでいるような動作をするだけだ。ロボットが本当に喜んでいるわけではない。ボタンを押すと決まった動作をするだけのもので、本質はからくり人形と大差ない。それを大げさに「感情を表現するAIを搭載」と宣伝する。

いや、これはもしかしたらロボットが本当に喜んでいるのかもしれない。そもそも「喜ぶ」とは何か。「『喜ぶ』とは喜んでいるような動作を見せることである」と定義するなら、このロボットは喜んでいる。逆に、それ以外にどうやって「喜ぶ」を定義できようか。


話はまた飛んで、今度はゲームの話だ。最近、日本のゲームは見る影もなく落ちぶれている。昔はなぜ日本のゲームがもてはやされたかというと、海外のゲームはどれも大味だったからだ。

大味とは、ゲームが細部まで作り込まれていないということである。理不尽にすぐ死んだり、アイデア倒れでつまらない単純作業の繰り返しだったりした。日本の人達は、細部を詰めることに重きを置いた。同じようなゲームでも敵の配置や動きを変えるだけでずっと面白いゲームになる。これが「作り込み」である。

日本のお家芸はこの「作り込み」である。職人技とも言えるだろう。こうしたノウハウというものは考えてできるものではなく、長年積み重ねてきたカンと経験によるものだという考え方が根底にある。「こういう問題にはこう対処すればよい」という膨大な経験を基にして、あとは労力をかけてゲームを磨き上げていった。

リアリティを出すには、リアリティのある動きをさせればよいということだ。きれいな3Dゲーム画面をつくるには、ポリゴンにきれいなテクスチャを貼ればよい。敵の動きをリアルにするには、どんな動きをさせたらリアルなのかを考えて、その動きをさせるようにプログラムすればよい。

ちょっと前に「ゲームの製作費の高騰」が言われたが、その原因はこれである。ゲームのあらゆる状態に対応させるために、細部まで作り込まなくてはならない。これによってゲームはリアルになったが、情報量が膨大になってしまった。

FPSで発達したピクセルシェーダーや物理エンジンによって、この図式が最近崩れ始めた。物理エンジンができる前は、「机を撃ったら壊れる」とか「ひもを撃つと吊り下がっていた電球が落ちる」というのはすべて個々にプログラミングしていた。それが物理エンジンによってすべてひとまとめになった。

つまり、リアリティを作り込みによって出すのをやめたのである。「机を撃ったら壊れる」とか「電球のひもを撃つと落ちる」といった、個々の現象の積み重ねとしてリアリティを表現するのをやめた。そうではなく、ちゃんと物理的な解析をすることで個々の現象を実現しようとする。

作り込みでは、作った現象しか起きない。ゲームデザイナーが仕組んだ事は起きても、デザイナーが思ってもみなかったことは起きない。プレイヤーはゲームデザイナーの手のひらの上で踊っているだけだ。本当にこんなのが面白いのだろうか。こんな矛盾に人々が気づき始めた頃だ。


「○○とは何か」を説明するのに、正攻法でいくのは結構面倒な場合が多い。例えば「『blog』とは何か」という質問に対してどう答えるだろう。

「有名なblogをいくつか見てみればわかるよ」と答える人がおそらくいるだろう。blogを見ただけでは「ああこれがblogなんだ」とはわかるが、これでは「blogとは何か」がわかったことにはならない。「○○は何か」と「何が○○か」はよく似てはいるが、別の質問である。blogである条件(「コメントとトラックバックがあるのがblogだ」)も、blogのメリット(「blogはここがに楽しい」)も、blogって何?と聞かれた時に答えたくなる内容ではあるが、blog とは何かを答えたことにはならない。

「何が○○か」は記憶力があればいくらでも言うことはできる。そしてそれは実際、新しいものがやってきた時に「これは○○かどうか」と判断する役に立つ。世の中を見回してみれば、ほとんどの場合はこんな思考でカタがつく。

「まったく新しいものが出てきた時のために、柔軟な思考が必要なんだ」などと批判するのは的外れだ。まったく新しいものが出てきたら、どんな風に考えてもあまりうまく行かない。それより「役に立たないけど面白いからいいんだ」と言うべきだ。(*)

「役に立つかどうか」という価値観、あるいは「現実の問題を解けるかどうか」という価値観で考えるのは、確かに現実的で賢い選択ではある。しかしそれでは本当の知性とは言えない。

「そんな事を考えても答えは出るわけないよ」と言うのは簡単だ。しかし、考えること自体が目的であって答えが出なくてもいいんだと考えれば、そう言われても困ることはない。


(*): 「役に立たないけど面白いからいいんだ」と、冒頭で書いた「楽しければいいんだ」は違う意味である。前者は価値観の転換を意味し、後者は同じ価値観に固執することを意味する。