ゲームとリアリティ

ゲームで学ぶ

先日、Full Spectrum Warrior というゲームを購入した。とても面白いゲームだった。「楽しい」でもなく「ハマる」でもなく「面白い」ゲームだった(楽しくないという意味ではないのでお間違えなく)。万人に勧めはしないが、私と好みが似通ってそうな人にはお勧めする。

このゲームってどんなゲーム?と聞かれると、FPSライクなRTSとか、米国陸軍歩兵になって市街戦をやるゲームとか、わかったようなわからないような説明をするしかない。そして聞いた方もやっぱりよくわからないだろう。

一言で言うと、「現代のアラブの市街ゲリラ掃討作戦を体験するゲーム」だ。「体験するゲーム」というのがポイントだ。ジャンルで言えば文字通りの「シミュレーションゲーム」だ。


実際、イラク戦争で実際に何が行われたのかは、よほどの軍事マニアでない限りよく知らないだろう。航空爆撃のシーンはTVでよく見るが、本当はそれだけじゃない。もしこれが第二次大戦の頃だったら、全土を絨毯爆撃しておしまいだっただろう。現代では、たとえ軍事力が格段に違っても、たとえ本気を出せば赤子の手をひねるも同然であっても、そういう力でねじ伏せる手を使うことはできない。

とするとどうするか。やはり歩兵が銃を持って巡回するしかない。いかに科学技術の力が違おうと、人が鉄砲を持って撃ち合えばそんなに力に差が出るわけではない。それなのに、敵を完全に制圧して味方には一人の死者も出さないという圧倒的なキルレシオを求められる。ではどうすればいいか。それを身をもって体験できるのがFull Spectrum Warriorである。

このゲームはホントよくできている。歩兵に対する戦車のバカ強さ(本当は戦車ではなく格下の歩兵戦闘車なのだが)や、対戦車ミサイルの恐しさ、側面攻撃の重要性などがよくわかる。「十字砲火」とは言葉だけよく聞くけれど、それがどういう意味なのかはこのゲームをやれば一発でわかる。


セガのアドバンスト大戦略(最近のはイマイチだが)も昔からのファンだ。これをやると、第二次大戦がよくわかる。電撃戦とは何か、艦隊戦における索敵の重要性、補給の意味といった戦いに関することから、ロシアの冬の厳しさまで、身にしみてよくわかる。

これらを体験させるのは、きれいなグラフィックスの力ではない。体感性でもない。なにせ、小さなヘックスに雪原と戦車の絵が書いてあるだけなのだ。3D のかっこいい戦闘シーンなんかは一回見てすぐOFFにするのが常識。それでも、ロシアは十分寒く感じるのである。期日はすぐそこまで来ているのに、目的地まではまだ遠く、連日の吹雪で戦車は一日一ヘクスしか進めず、そうこうしているうちに補給物資も尽きてくる。そんな状況がロシアの冬を感じさせるのである。


最近のRTSやFPSは、その複雑さやきれいなグラフィックのわりには、どうもイマイチに思える。なぜかというと、それがリアルではないからだ。マウスさばきが速い方が強いのがおかしい。画面上の1ドットをマウスで的確にポイントして敵を倒す、なんて芸当ができるのがおかしい。

「本物の射撃だって練習すればうまくなるんだから、おかしくはないだろ」と言うかもしれない。それはその通り。問題は、ゲームで何をしたいかである。ゲームで射撃をしたいのなら、マウスで1ドットを撃ち抜く練習をすればいいし、それで通常ではあり得ないような華麗な射撃をすればよい。しかし、そんなことをして何になる?射撃の練習なんて地味で面倒なことはせずに、いきなり射撃の名手であるかのごとく遊べるのがゲームなんじゃないか。

と書くと、昨今の「魅せるプレイ」ブームと勘違いされるかもしれない。確かにバレットタイムエフェクトを使ったガンシューティングはかっこいい。素人でも射撃の名手になったような気になる。しかし問題はゲームで何をしたいかである。何もしなくてもいきなり射撃の名手になったつもりになりたいのなら、簡単操作で誰でもど派手な演出が楽しめるようなゲームをするとよい。

そんなことをしたいんじゃない。「体験」したいのだ。射撃の名手になりたいのは、別にガンガン撃ちまくって派手な演出を見たいのではない。射撃の腕を上げたいわけでもないし、ましてやマウスさばきを上達させたいわけでもない。普段はなかなか体験できない射撃の世界を体験したいと思うからである。考える部分はきっちりと残して、その他の部分は省略してほしい。そして、現実は単純化してもらってかまわないが、現実にはあり得ないような振舞いはできるだけないようにしてほしい。射撃のベテランだけが知っている様々な知識や物の見方を自分も持ちたい。そのためにゲームをやっているのだ。

そういう意味で、Full Spectrum Warrior は良いゲームデザインである。特に練習をしなくても市街戦を気軽に「体験」できる。「体感」ではない。体感は単に体で感じるだけだが、体験はもっと知的だ。脳内麻薬がドバドバ出て快楽中枢を刺激されるようなものではなく、「なるほど、そういうことだったんだ」と一つ賢くなるものなのだ。


一応書いておくが、Full Spectrum Warriorは「気軽に体験」と書いたが、決して簡単なゲームではない。親切なチュートリアルがあるものの、それなりに覚えることはあるし、ゲーム内容も決して楽々クリアできるものではない。ちゃんと理解しないと先へ進めないようになっている。ここがまたよい。以前「軟弱なゲーム」という話をしたが、私は難しいければ難しいほどいいというようなマゾではない(と思う)。理解してないのに先に進めてしまうゲームがよくないのだ。

これがゲームの「壁」である。プレイヤーは壁に到達すると、そこを何とかして乗り越えるまでは先に進ませてもらえない。ただ漫然とゲームをするだけではいつまでたってもそれは乗り越えられない。立ち止まって考え、自分自身が一段成長しなくてはならない。そうすることで壁を乗り越え、先に進むことができる。自分自身が一段成長することこそがゲームの楽しみである。

お前らゲームを何のためにやってんだ?もしかしてあたり構わず撃ちまくってストレスを発散するためにやってんのか?ゲームってのはそんなんじゃねえんだよ。ゲームは「道」だ。ゲームは人生の縮図であり真理の探究なんだよ。と、クリスマスにだけデートの延長でやってくるバカップルどもにブチ切れる教会の神父さんのような心境で言うわけなのだ。

ゲームを現実を理解する手段とみるなら、リアリティは必須である。ゲームはリアルでなくてはならない。ただし、ここでいう「リアル」は現実そっくりのグラフィックスや挙動をいうのではない。現実をうまくモデル化し、エッセンスを取り出したことをいう。現実を忠実に持ってくるのは不可能なだけでなく、ゲームである意味がない。エッセンスをうまく取り出してあるおかげで、重要な部分だけをお手軽に楽しめる。

「現実」というのは少し誤解を招く表現かもしれない。「学ぶべき何かがある」とでも表現した方がいいだろう。「あっそう、ふーん」と軽く流されてしまうものではなく、「なるほど。そうだったのか。素晴しい発見だ」と感じることができるということだ。そこに何らかの「意味」があることをここでは「リアル」と呼んでいる。

ライトゲーマー批判をよく聞くが、お手軽なのが悪いのではない。リアルでないのが悪いのである。学ぶところがないのが悪いのである。そんなカスよりはクソゲーの方がまだましだ。クソゲーをやると、なぜこのゲームは面白くないのかを学ぶことができる。

戦闘のエッセンスをうまく取り出すと将棋やチェスになり、勢力争いのエッセンスをうまく取り出すと囲碁になる。これらは普通にはアブストラクト(抽象的)ゲームと呼ばれ、リアリティはあまりないように見える。しかし、戦力の集中と分散、陣地、ユニット同士のサポートなどの概念など、現実の戦いと共通する概念は多い。見ようによっては、ただ撃ちまくるだけの駄作FPSよりずっとリアルに戦争を再現している。


「リアル」といえば、最近のゲームで気になったことがある。最近の(ちょっと前の?)RPGではカードバトルを取り入れることが流行りだが、ストーリーを見るとたいてい、そこにカードについての言及がある。例えばちょっと古いがバテン・カイトス(ナムコ)だと、この世界の人々は物体のエッセンスをマグナスと呼ばれるカードに封印して携帯し、必要に応じて元に戻して使うことができるのだそうだ。

この話に違和感を感じなかっただろうか?違和感の原因は、「カード」という現実のモデル化のための手段を、ゲームの中の現実と混同してしまっているところだ。もっと身近な例で言えば、RPGでゲーム中のNPCが「○○をするときにはパッドのAボタンを押して……」と説明する時の違和感だ。画面の中の主人公の世界にはボタンは存在しない。ゲーム中の世界と、パッドやボタンやカードというものは本来は切り離されていなければならないのだ。

とはいっても、ゲーム中の人物が操作のチュートリアルをすることにいちいち目くじらを立てるつもりはない。それはそれと割り切れる。しかしバデン・カイトスの方は必要もないのにそうしている。わざわざそのゲーム内世界にカードの概念を導入しなくても、単に「ゲーム内世界の武器やアイテムをカードという形で表現しました」というだけでいいではないか。なぜ違和感を感じさせてまでゲーム内世界にそれを持ち込まなくてはならないんだ。もしかしてこいつらはゲームシステムと対象世界の違いをわかってないんじゃないか?と疑いを持つわけなのだ。

ゲームを題材にしたマンガや小説でも同じようなことが起こっている。ゲームシステムの都合で存在するものを、あたかもゲーム内世界の中に実際に存在するかのように扱っている。セーブポイントや瞬間転送システム、死んだときの復活などはゲーム上だけの都合だ。本来その世界にはなくてもよいはずのものだ。そんなものは小説では無視すればいいのに、それらが律義に世界に存在することにしてしまう。勇者がたんすを漁ったり、村人が同じことしか言わなかったりするのは、もちろんギャグやパロディならいい。しかし真面目な小説では、「ここの村の人は同じことしか言わない。なぜなら……」と下らん理由付けなどするな。それはゲームだから仕方なくそうなっているのであって、それを小説にまで引きずる必要はないのだ。

「ゲームと現実の区別がつかない」なんて言うとまるでゲームを知らないおじさんのように思われてしまうが、ゲーム内の出来事を現実だと思ってしまうことを言っているのではない。これはゲームの操作とゲーム内世界の区別の話であり、ゲーム内のキャラクタは自分が操作してはいるのだがそれは自分自身ではないということだ。自分のキャラクターのレベルがいくら高くてもそれは自分自身のレベルとは関係ないということや、自分のキャラクターが他人のキャラクターに攻撃されたとしてもそれは自分が攻撃されたことではないということだ。これが混同されているものに対して本能的に違和感を感じるべきところである。私も以前は「ばかばかしい。ゲームと現実の区別がつかない人なんているわけないだろ」と思っていたのだが、恐しいことにMMORPGを見るとそうでもないようなのだ。


ゲームは現実をモデル化したものである。モデル化、つまりは不必要な部分を削って重要な部分だけを残すという作業を怠ってひたすらリアリティを追求すると、ゲームシステムは面白そうだけどやってみるとまったくつまらないクソゲーができあがる。これが一昔前の典型的なクソゲーだった。

しかし、今のゲームは現実をモデル化するのをやめてしまった。ゲームが現実の一部分を切り取って反映させると「それは現実の一部しか反映していない。不完全だ」と批評されることになる。それはその通りであり、それは当たり前のこと。ゲームである以上、現実は一部だけを切り取って省略したり誇張したりして提供されるべきものだ。そういう意味では、ゲームは不完全であるべきなのだ。「現実を完全に再現!」なんてキャッチコピーは嘘っぱちだ。できるわけがないし、またする必要もない。

我々は、戦争や冒険といったゲーム内での出来事を、パッドやボタンや画面、あるいはユニットやパラメータといったものを通じて客観的に見る。とすると、ゲームは体感するものではないのだ。体感とはゲーム内の出来事を我が事のように感じることだ。ゲームはそうではなく、その世界の外にある別の視点から客観的に見ることである。「リアル」を「体感」にすり替えてしまい、ゲームに必要である客観的な視点を排除してしまったのが今のゲームなのではないか。「体感」というのは確かに興味をそそるが、それはゲームとは違うものだ。

昔、日本のゲームに勢いがあった理由は、ストレスを感じさせない設計にあった。彼らはゲームの原則をわかっていた。外国のゲームでなぜストレスを感じたかというと、そのゲームとは関係のないところで本来やりたくもない面倒な作業をさせられたからである。ゲームには省略と強調が必要である。それを認識してゲームを作っていたから面白かったのだ。

今は逆にストレスを感じさせない設計が問題になっている。省略と強調ばかりに注目して、元が何だったのかを忘れてしまっている。何がゲームと関係あり、何がゲームとは関係ないのかを見極められなくなってしまっている。その証拠に、「ゲーム的表現を追求したゲーム」などといううさん臭いスローガンを掲げ始めた。何か伝えたいことがあって、そのためにしなければいけないことが「表現」である。表現は手段に過ぎない。表現そのものが目的になってしまってはいけないのだ。

結局、過去の面白かったゲームを自分なりの表現方法で作ってみる、という「リメイク」という形になってしまう。過去のゲームの縮小再生産だ。日本のゲーム業界はもう資産を使いはたして底が見えてきている。TVでは無知なエコノミストが「日本のゲームは世界一」なんて言っているが、それはとうに過去の話だ。

「ゲーム好きならPS2なんかやめてXBOXを買え。そして海外のゲームをしろ。PSPやPS3に期待するのはムダだ」というのが今回の結論だ。一時期はXBOXを買ったことを後悔もしたが、今なら投売り状態で買えて、今が旬の面白い海外ゲームをいち早くプレイできる。


なお、上で出したバデン・カイトスは単にすぐタイトルが思い浮かんだだけで、プレイしたこともなければ面白いかどうかもよくわかりません。ゲームの内容や出来について言っているわけではないということをご了承下さい。