自己中心的

他人を自己中だと言う自己中

ネットの掲示板を見ていると、「自己中心的」という言葉がよく非難の言葉として使われる。最近では自己中と略されるまでになっている。略されるということは、それだけよく使われているということだ。

しかし、よくよく見てみると、たいてい他人を自己中呼ばわりする人の方が問題なように見える。相手をバカと言う方がバカとよく言われるように、相手を自己中だと言う方が自己中なのである。

それにしても何か変だ。「自己中」という言葉を間違えて使ってないか?というのが今回の話の内容である。


「自己中心的」という言葉を辞書で引いてみてほしい。自己中心的とは「物事を自分を中心としてとらえ、他人のことを考慮しないこと」とある。もう一つ似た言葉に「利己的」という言葉がある。利己的とは「他人の利益を考慮に入れず、自分の利益だけを追求しようとすること」である。「自己中心的」という言葉を「利己的」と混同している人が多いように思えるのだ。

説明の文章だけを見ると、どっちも大差ないように見える。しかし違いが一つある。自己中心的な人は、他人がいることが見えていない。それに対して、利己的な人は他人がいることは見えているが無視している。よく掲示板で見かける「自己中になるな」というのは、「人のことを無視して自分勝手な事をするな」という意味だ。本当は、それは「自己中になるな」と言うのではなく「利己的になるな」と言わなければならない。

なぜ「利己的になるな」と言わなければならないところで「自己中になるな」と言ってしまうのか。言い換えると、なぜ「俺の事も考えてくれ」と言わなければならないところで「俺の存在が見えてないだろ」と言ってしまうのか。自分のことが無視された時に、なぜ「自分の存在が見えているけれどわざと無視された」と思わずに、「自分の存在が見えていない」と思うのだろうか。

それは、「自分の存在が見えているなら無視されるわけがない」と思ってしまっているからである。言い換えれば、「自分にとって自分の存在は無視できないが、相手にとって自分は無視できる存在である」ということに考えが及ばないからである。これが本物の自己中である。


もともと、自己中心的というのは、他人を他人であると見なすことができない状態を言う。相手も自分と同じような自己を持った人間であるということを認識できない。自分は相手とは違う特別な人間だと思う。自分が自分を大事にするように、相手もまた自分を大事にして当然だと思ってしまう。相手は自分ではなく相手自身が大事なんだということに思いが至らない。

「自分は自分がかわいい」そして「相手も自分と同じ人間である」という2つのことから、「相手は相手自身がかわいい」ではなく「相手も自分がかわいい」という結論を出してしまう。「自分」を一般化して考えられないのである。一つ目の「自分」を「Aさん」に変えたら、二つめの「自分」も「Aさん」に変わるのだということがまだわからない。思考が未発達な乳幼児期の特徴である。

とはいっても、本当にそこまで思考が未発達なままの人はいないだろう。しかし、とっさにそう考えてしまう人は多い。誰しも少しはその気があると言っても過言ではないだろう。そりゃ少しは仕方がない。問題は、自己中を自己中だと認識していないところである。

ネットでよく見かける「自己中になるな」と言う自己中は、相手が理由なく自分の言うことを聞かないといけないと思い込んでいる。だから自己中心的なのである。相手には自分のことを無視するという行動が自由にとれるのだということを認識していない。自分のことが無視され続けるのに対してした「自己中になるな」という発言すら無視されるかもしれないのに、自分の思っていることをただ言うだけで相手がその通りに行動してくれると思い込んでいる。

自分の望むことを相手にしてほしいと思ったら、自分からお願いしないといけない。お願いしてもやってもらえなかったとしたら、それはお願いのしかたが足りなかったのである。もっとお願いのしかたを工夫するか、お願い以外の方法(脅迫や実力行使など)に出るか、あるいは自分の望むことを相手にしてもらうことをあきらめるかのどちらかしかない。それなのに、「自己中だ」などと非難するからおかしなことになるのだ。「相手を非難してもどうにもならない」ということがわかっていないのが自己中の証である。

では、「自己中になるな」というのを「利己的になるな」とだけ言い換えればいいかというと、そういうわけでもない。利己的になるなと言われたことを素直に聞く理由はどこにもないからだ。しかし、「利己的になるな」はいくらかマシだ。理由を添えて「○○だから利己的になるな(=俺の言うことを聞くと○○という良いことがある)」と言うなら、それは相手も納得するだろう。そんな良いことがあるんだったらちょいと利己的をやめてみようかと思ってくれるだろう。


ヤマアラシのジレンマという有名なお話がある。某アニメのおかげでこれを持ち出す人は多いが、これを「適当な距離を見つけました。めでたしめでたし」という結論にしない人がいる。つかず離れずの適当な距離になってしまうことがジレンマだと思っている人が結構いる。ジレンマを解決するには「針をなくせばいい」と思っている。針はヤマアラシにとって大事なものであり、なくせないものであるという前提がない。

「相手には針がないのに自分に針がある」なんて悩んでいる人もいる。最近の自己中心的な人間は、自分が他人を刺すことに敏感で、他人が自分を刺すことには案外鈍感だ。そしてそれを自己中心的ではない証拠だと思っている。とんでもない。自己中心的とは、「人間誰しも針を持っている」という考え方のできない人のことである。相手が持っている針が見えていないだけだ。

そのような人は、自分が近寄ると「自分の針が相手に刺さって、相手は死んでしまう」と思ってしまう。「相手が逃げていくだろう」とは思わない。相手には相手の自由意思があることに気がつかない。そういう人は、往々にして自分の自由意志にも気がつかない。相手が近寄ってきて相手の針が自分に刺さると「痛い」と叫ぶ。その前に自分で避けろ。

相手のことをことさらに気づかったり、世話を焼こうとしたりするのも同じだ。そういう人に限って、感謝されないと怒る。いちいち世話を焼く前に、相手が本当にそのくらいのこともできない人間なのかを考えてみるべきだ。


「自分の考えを人に押しつけてはいけない」というのは自己中心的な考え方だ。なぜなら、相手にも行動の自由があれば、人に「考えを押しつける」ことはできないはずだからだ。もちろん、「自分の考えを人に押しつけるべきだ」と言っているわけではない。考えを押しつけられるのが嫌なら、聞かなければいいだけなのだ。無視すればいいだけである。押しつけるという行為は良い悪いもない。存在しないのだ。(現実では拷問や洗脳などの方法で考えを押しつけることはできる。しかしネットではそんな場合のことを言っているわけではなかろう。)

自己があることを「自己中心的」だと言うな。自己はあって当たり前。自己中心的とは「自己は存在しない」という考え方のことをいうのだ。人とは違う自分の考えがあっていい。それが自己というものだ。すべてのことは自分で判断してよい。それが自由というものだ。

それから、誰でも少しは自己中心的になることはある。自己中心的とは「他人が目に入っていない」状態のことだ。そんなことはちょっと顔の角度が変わればよくあることで、「おーい」と呼びかけて気づいてもらえばすむ話だ。そんな事に対してことさらに非難する人は、自分を相手の立場において考えることのできない人、つまりは自己中心的な人である。なお、相手の発言を勝手に非難だと思ってしまうのもまた問題のある考え方である。

結局のところ、まあ「自己中心的だ」と言うところまではよいとしよう。これを「おーい」と同じ意味だとするなら。そして相手が気づいたらそれでよし、そして「わざわざ呼ばなくてもとっくに気づいてるよ。忙しくて返事ができなかっただけだから」と言われたら「そう、それならいいんだけど」で終わり。これに対して、「呼びかけないと気づかないのは人として問題」なんて言うから問題がこじれるのだ。まあ問題ではあるかもしれないけど、もともと人なんて問題だらけの存在だよね。