ゆとり教育とは何か

問題を解くための知識とは

子供の頃はよくテストを受けさせられたものだが、大人になってもたまに受けさせられる。子供の頃はそれが当たり前だと思っていたが、大人になってテストを受けてみるとあちこちが変なことに気づく。

企業では、試験ができる優等生タイプではダメだと言う人がよくいる。それは半分はその通り、半分は間違っている。試験「も」できる人と、試験「だけが」できる人がいる。そして、試験もできないがその他のこともできない人もいる。本当の優等生は全部できる。試験しかできないのは中途半端な優等生だ。

試験偏重の詰め込み型教育に代わって「ゆとり教育」が言われるようになったが、最近ではそれも批判されるようになってきている。ゆとり教育とは何かがよくわかっていないからだ。必死で勉強させるのが詰め込み型教育で、勉強をさせないのがゆとり教育だと勘違いされている。それじゃ「ゆとり教育は間違っている」と言われても仕方がない。


「円周率は3だと教える」という話がよく批判的に使われているが、ゆとり教育の考え方からすれば、円周率は円周率であり、それが3であろうと3.14であろうとどうでもいい。そんなことより、円周率にどんな性質があってどう使うのかを教えるべきだ。

そういえば、クラスに一人くらい、夏休みの自由研究に「円周率の研究」を選んで、提出されたノートにバカのように円周率の値をだぁーっと写すような人がいる(恥ずかしながら私もその一人だ)。これこそ円周率の素晴しさがまるでわかっていない見本である。円周率の意味や周辺定理を知るべきなのであって、円周率の値を知っても意味はない。

残念ながら、円周率の素晴しさがわかるのは高等数学を学んでからである。複素数とか積分などをやり始めると、円とはまったく関係がないはずのとんでもない式にひょっこりと顔を出して驚かせる。オイラーの式などは芸術的でさえある。子供にでもわかる例で(解けなくてもいいから)何かあれば数の面白さに一気に引き込めるのではないか。これこそがゆとり教育である。


「理論だけで応用が効かない」というフレーズもよく耳にする。こういう人に限って、「動けばいいんだよ」とばかりに適当にあれやこれやいじくる。それで動けばいいんだが、動かない時はお手上げだ。理論がないことには応用はできない。「理論だけで応用が効かない」人もいるかもしれないが、だからといって理論を軽視していいわけはない。

しかし、この話は学者にとってはこれでよいが、一般人に対しては少し違った意味になる。ほとんどの一般人は「理論」を知ることも学校で習うこともない。たいていの「理論」は大学でしか教えない。それは、理論が難しすぎて普通の人の手に負えないからである。

例えば、高校(中学だったか?)で物体の運動と運動方程式を習う。しかし、これは本来の「理論」とは違うものだ。本来の運動方程式は、微分積分の概念がわかって初めて理解できるものである。一般の人はF=maが運動方程式だと思ってしまっている。本当は F=md^2^x/dt^2^である。「二階微分である」というところがキーポイントである。

理論には一般性がある。F=md^2^x/dt^2^を知っていれば、いかなる物体のいかなる運動でも解くことができる(実際にはそう簡単ではないが)。それに対して、F=maは物体が直線的に動き、一方向に一定の力がかかっている時にしか通用しない。だからこんなものを振り回していても応用はきかないのである。

教えられる側になってみると、「物体が一方向に一定の力がかかっている時にはF=maで計算します」と教えられると、「そうでない時はどうするの?」と当然の疑問が湧いてくる。そしてそれには「難しいから大学で勉強してね」と答えられる。大学できっちり教えられればいいのだが、そうでないと「ある問題に対してはある公式を使う」という理解をされてしまう。


これが定着すると、生徒は「先生、この問題の解き方がわかりません」と聞きに来るようになる。本来なら「力と加速度の関係がわかりません」と聞きに来なくてはならないはずだ。あるいは「運動方程式の使い方がわかりません」という質問ならまだ見込みがある。「この問題を解くのにどの公式を当てはめればいいですか」などという質問は絶望的だ。

テスト問題は理論の理解度を試すために存在する。だから、理論がわかっていれば解けるし、わかっていなければ解けない。逆に言えば、問題の解き方がわからないということは理論がわかっていない証拠であり、解き方を教えてもらうのではなくわかっていない理論を徹底的に教えてもらう必要がある。

生徒の目的が「理論を理解する」ではなく「問題を解く道具を身につける」になってしまっている。テストと理論の立場が逆になってしまって、テスト問題を解くために理論があることになってしまっている。テスト問題を解くことは本来はどうだっていいことであり、理論を理解することの方が重要なはずだ。

そうなってしまっているのは、理論を理解させることを先生も生徒もあきらめてしまっているからだ。先生は、生徒が理解することのできない内容(運動方程式)を「教えなさい」と命令される。良心的な先生ならここで微分積分の話を始めるのだろうが、指導要領には「微分積分は使ってはならない」と決められてしまっている。八方ふさがりだ。これをやりとげるには、理解させることをあきらめて単なる道具として教え込むしかない。

そうして理科は「暗記科目」になってしまう。公式を知らない問題は解けない。学校では「公式」という道具とその使い方を教えられる。だから「学校で習ったことは日常の役に立つか?」などという間抜けな質問がされるわけである。F=maという公式を日常生活で使うことはないだろうが、物を放り投げると下へ落ちること、高い所から落ちるとものすごい速さになること、速い車ほど衝突のダメージが大きいことなどは日常生活で役に立つことである。

問題は、生徒が運動方程式の時間でそういう諸々のことを教えてもらったと認識していないことだ。F=maという公式と、この公式を当てはめることによってどんな問題が計算できるかを教えてもらったものだと認識している。これでは日常生活の役に立たないと思うだろう。


このことは子供の教育の話だけではなく、大人の教育にもそのまま当てはまる。「ワードで文字の大きさを変えるには、メニューから書式→フォントを選んで……」と説明すると、その手順をそのままノートにメモする人がいる。これでは「文字の大きさを変える方法」はわかっても、アンダーラインの引き方や太字にする方法はわからない。そういう人は「文字に色をつけるにはどうやってやるんですか?」と質問し、その手順をまたノートにメモする。こんなことを繰り返す限り、応用力のある知識は身につかない。

やり方ではなく、「なぜ」そうなのかを質問すべきだ。「なぜメニューから書式→フォントを選ぶのですか」と。そうすれば、「フォントとは文字のスタイルのことです。文字の大きさは文字のスタイルのうちなのでフォントを選ぶんですよ」と教えてくれるはずだ。そうすれば、それを教えてもらっただけで色のつけ方も書体の変え方も取り消し線の引き方も(これらがすべて文字のスタイルなのだということがわかれば)すべてのやり方がわかる。

あるいは「フォントって何ですか」という質問でもよい。「どうやるか」ではなく「なぜ」「何か」を知らなくては、応用力のある知識にはならない。本来、「どうやるか」は「なぜ」「何か」を知った後で考えて出た結論だからだ。真中を飛ばして結論だけを話すから良くないのだ。


テストで理解度を評価するという方法は、問題とは既知の公式(あるいは問題の解き方)を当てはめて解くものだという考え方を生む。それは暗に、公式を知らないものは解けないという考え方も生む。そして、勉強とはいろんな解き方のパターンを覚えるものだという考え方も生む。

本来は、問題の解き方を自分で生み出せるような「理論」を覚えないといけない。理論とは「考え方」そのものであり、決して簡単なものではないが、わかってしまえば一言二言で言い表されてしまう。例えばニュートン方程式は「F=md^2^x/dt^2^」だが、これを理解するためには微分積分を理解しなくてはいけない。そして、万物の運動はこの一つの式で言い表されるという素晴しいものなのだ。歓喜にうち震え涙し、神々の声を聞いたような、新しい自分に生まれ代わったような、そんな気になるようなものなのだ。

「何の役に立つのか」などと聞くのは愚の骨頂だ。何かの役に立つもの、逆に言えば何か特定のものの役にしか立たないようなものはたいしたものではない。本当に意味のある知識は、何の役にでも立ち、知ることそのものが目的になるようなものである。

さて、ゆとり教育の話だった。「ゆとり教育をどうやったらいいだろうか」とまず考えた人は失格である。「ゆとり教育とは何だろうか」とまず考えなくてはならない。何なのかがわかれば、そのためにどうすればいいかは自ずと見当がつく。そういう思考回路をつくることこそがゆとり教育なのである。

とはいえ、そんなことは本当にできるのだろうか。私は教職とは関係がないからよくわからない。もしできないとしたらどうするか。理念だけ持ったまま実際には詰め込み教育をするのか、それともはなから諦めて詰め込み教育に徹するのか、難しいところである。