前に宗教についてのコラムを書いたとき、様々な方からご意見をいただいた。そこでわかったのは、「宗教」という言葉の定義がそもそも違うということである。私は「皆、宗教=カルトだと思っている」と書いたとおり、世の中の人が宗教を変に誤解しているだろうと思っていた。そしてその通りだった。
前のコラムで一番よくあった批判は、「絶対唯一のものはない(諸行無常)」を信じているからといって勝手に仏教徒にするな、というものだった。こう言う人には、仏教徒とは何かを考えてほしい。仏教徒とは、仏教の教えを正しいと信じる人のことである。そして、仏教の教えとは何かというと、「絶対唯一のものはない」という教え(もちろんその他にもいろいろあるが)のことだ。
学校で古典の時間に平家物語を勉強する。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。」この概念は仏教思想である。そして、その概念を理解してテストで答えを書くことを要求される。つまり、学校で堂々と仏教教育が行われているわけである。我々はそういう教育を受けて育ったのだ。仏教を教えられてそれが正しいと信じているのなら、それは仏教徒である。
誤解しないでほしいが、学校で仏教教育をやるなと言っているわけではない。実際には宗教を教育しているのに、宗教に関することは教えていないという嘘をつくなと言うだけだ。国語の時間に人間の内面のような深い哲学を教えようとすれば、宗教を避けるわけにはいかないのだ。
以前、「日本では誰も宗教を教えてくれない」と書いた。これは厳密には間違いだ。正確には「日本では誰も『これは宗教だ』と言って宗教を教えてくれない」である。宗教を教えているのに、そこに宗教というレッテルを貼っていないのである。日本人が「宗教=カルト」だと思っているのもここに原因がある。日本では、カルト宗教や既存の宗教団体以外の人間はたとえそれが宗教的な何かであっても「宗教である」と明言しないからだ。そして、それは明言しないだけで宗教でないわけではない。
宗教とは何だろうか。多くの人は、何らかの宗教団体に入ってそこで説く教義を信じることだと思っているだろう。あるいは、何らかの宗教的行事を行うことだと思っている人もいる。
日本人は無宗教どころか多宗教だ、と言う人もいる。クリスマスになればキリスト教のお祝いをし、大みそかには仏教になり、元日になれば神道になるというのだ。しかし、日本人はクリスマスに本当にキリスト教のお祝いをしているのではない。ただ欧米がお祝いをするのに合わせてわけもわからず騒いでいるだけだ。クリスマスに皆ホテルでもレストランでもなく教会へ行くのなら、日本人はキリスト教徒にもなると認めてもいいのだが。
宗教儀式をすればその宗教の信者になるというわけはない。ただお寺に行けば仏教徒になり、教会に行けばキリスト教徒になるというような単純な話ではない。そこで自分が何をしているのかがわかっていないといけない。自分が何のためにお寺に参るのかがわかってなくて、ただガンが治るとか商売が繁盛するといって参拝するのであれば、それは仏教ではない。ただ白いウェディングドレスが着たいがために教会で結婚式を挙げても、それはキリスト教徒になったことにはならない。
儀式をしたから信者なのではなく、信者だから儀式をするのだ。寺に参れば仏教徒なのではない。仏教徒だから寺に参るのだ。宗教的儀式イコール宗教という考え方は、目的と手段を混同してしまっている。
宗教団体もまた同様だ。もともと宗教団体は、その宗教をもっと深く知りたいと思う人のためのものだ。宗教団体に入っていろんな行事に参加し、あるいはためになる話を聞き、その宗教の教えを自分のものにしたいと思う人のための場所である。するとこれも手段と目的が逆だ。宗教団体に入っているから信者なのではなく、信者だから宗教団体に入ろうと思うのだ。
宗教は心の問題であり、形式や行為の問題ではない。ある宗教を信じているから宗教的行動に出るのであり、その逆ではない。宗教は信じることがすべてである。行動(儀式)はその結果である。
ある宗教の信者になるというのは特定の団体に入ることでもなければ儀式をすることでもない。その宗教が教える考え方を受け入れるということだ。宗教団体や儀式は考え方を受け入れる手助けをするためのものである。教えこそが宗教なのである。
ただ、「受け入れる」の定義もまた難しい。これを「宗教の根本原理を完全に理解する」と定義してしまうと、教徒というのはゼロに等しくなってしまう。禅寺で修行するお坊さんたちも仏教徒ではないことになってしまう。だから、その宗教の考え方をざっと知って「それはなかなかいい教えだ」と思った時から、その宗教を受け入れたと考えるべきだ。どんなに下手くそでもギターを手にした時から人はギタリストになるのだし、いくら120叩こうとゴルファーはゴルファーだ。上手い下手(どのくらいよく教えを学んでいるか)は無関係である。
例えば、仏教徒とは何かというと、仏教の教えを「それはなかなかいい教えだ」と考え、それに価値があると思う人のことである。仏教の教えとは何かというと、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三大原理とそこから導かれる数々の教えである。もちろん、この言葉を知っていることが仏教なのではない。こうした言葉が語っている内容、簡単に言えば「すべてのものは移り変わる」「すべてのものに目的などない」「だから何物にもとらわれるな」という教えが仏教である。こうした考え方を少しでもかじっていれば、そしてその通りだと思っているなら、それは仏教徒である。
さらに言えば、これらの教えを「仏教だ」と言われずに教えられたとしても、仏教徒であることを否定することにはならない。その人は自分では仏教の教えなど知らないと言うかもしれないが、それは仏教を知らないのではなく、自分の信じているそれに仏教という名前がついていることを知らないだけなのだ。
宗教とは心の問題であると言うと、宗教とはある経典に書いてある文言を一字一句信じることだと思ってしまう人もいる。そして「空からパンが降ってくるわけはない」とか「水の上を歩くなんてできるわけない」と経典に書いてあることを否定することでその宗教そのものを否定しようとする。
経典に書いてあることが一字一句すべて真実だと考える考え方は「原理主義」と呼ばれる。原理主義はカルト宗教であり、まともな宗教人は相手にしない。普通の宗教人は、経典が一字一句すべて間違いなく真実を語っているとは思っていないし、経典が真実を語りつくしているとも思っていない。だから、この点で宗教を批判するのは的外れである。
経典とは何かというと、その宗教の考え方を人々にわかりやすく書いたものである。ここで注意してほしいのは、これが現代に生きる我々にとってわかりやすく書いたものではないということだ。新興宗教でなければどれも千年以上前の人を対象に書かれている。
もし神がモーセに11戒目として「ネットゲームにはまるな」と書かせたかったとしても、ネットゲームに対応する言葉が当時のヘブライ語になければ書かせることはできない。神はもっといろいろとたくさん言いたかったことの中から当時の人々にもわかるように(そして石板の面積も考えて)10項目を選んで書かせたのだ。経典は教えのすべてを含んでいるわけではなく、当時の人にわかる部分しか含んでいないのだ。逆に、当時は意味があったが社会情勢の変化によって今では意味がなくなってしまっているような事もいくつかあってもおかしくない。
経典を常に今風に修正していく作業が、経典の研究と解釈である。今までに多くの神学者、宗教学者、あるいは僧侶などが経典を(その時代の)現代風に翻訳してその当時の民衆に広めた。宗教とは経典ではなく概念である。文言そのものではなく、それが何を言わんとしているかが重要なのである。だから同じ経典でも解釈の違いによっていくつかの派閥ができたりする。そして宗教とは経典が言わんとしている概念を自分の頭の中に作ることである。つまり、経典を自分なりに解釈することである。
宗教の経典は完璧なものではない。それは神が完璧でないからではなく、それを受け取る我々が完璧ではないからだ。経典にはどれも過度の誇張や省略が含まれている。それは経典が人々に教えを伝えるものであって、教えの定義書ではないからである。ごちゃごちゃしていてよくわからない経典よりは、たとえ不正確なところがあってもわかりやすい経典の方がよい。だから、そんなものの文言について重箱の隅をつつくような指摘をしても意味がない。結局何が言いたかったのかを考える必要がある。
こう考えると、実は宗教にとって経典は絶対的なものではなく、信者になるには経典を読む必要はない。事実、キリスト教徒のほとんどは宗教改革が起きるまで聖書は読めなかったのだ。経典を読まなくとも牧師さんの話を聞けばキリスト教徒になれる。宗教は概念なのだから、経典から直接でなくても概念が伝わればそれでいいのだ。
宗教とは、その教えが伝えようとするものを自分なりにつかむことである。そして「なるほどその通りだ」と思えば信者になったということだ。そしていろんな人の話を聞きながら、あるいは自分でも何かをしながら、その教えをよりはっきりと、より正確に把握しようとする。これが宗教を信じるということである。
無宗教であることを威張ってはいけない。宗教とは、ある人が語る教えに耳を傾けてその言わんとすることを把握しようとすることである。とすると、無宗教であるというのはすべての人々の語ることを無条件に拒否して耳をふさぐことである。もちろん、中には耳をふさいだ方がよいような宗教もある。しかし、世の中のすべての宗教に対して耳をふさぐという態度は良くない。宗教がそれほどダメなものだというのは誤解である。
宗教を信じるというのは、宗教の教えを自分なりに解釈して、それはなかなか良いことを言っていると思うことである。もしそう思えないのなら、それを否定する前に自分の解釈が間違っているのではないかと考えた方がよい。新興宗教ならともかく、何千年もつぶれずに残っている宗教はそれなりに何か良いものがあると考えた方がよさそうだ。
宗教の経典は基本的にその経典が成立した当時の人に対して語ったものである。我々はその中から時代遅れになったものと現代にも通じるものを選別しなくてはならない。それが解釈である。誰か他の人の意見を聞くのはよいが、解釈は基本的に個人が自分自身でするものである。
ある宗教の信者になるのに経典を読まなければならないということはない。その宗教をよく知る他の人の話を聞くだけでも十分だ。そうしていろいろな人の言うことを総合して、自分なりにその宗教の教えを把握することが宗教を信じるということである。
宗教を信じるというのはこのように自分の頭の中だけの問題である。解釈もその人によって幅がある。そしてその結果何をするかはその人次第だ。結果である行動だけを見て宗教を考えてはいけない。宗教は人の行動について言う言葉ではなく、概念について言う言葉である。
と、宗教とは何かを述べたところで、ついでにカルトの話もしておこう。カルトとは、ある教えを自分なりに解釈せず、人が言ったことをそっくりそのまま正しいものと受け取ってしまうことだ。教えを自分なりに解釈して、自分の中で矛盾のない体系を構築することを「理解」と呼ぼう。カルトとは、ある教えを理解しないまま正しいものとしてしまうことだ。これは宗教だけではなく何にでも言える。ある考えについて自分で納得のいくまで考えるということをせず、テストの答え合わせのようにただ答えが合っていればいいという考え方が良くないのだ。
答を丸暗記しただけで自分で考えていないと、応用問題に弱くなる。暗記した問題には答えられるが、ちょっと違う問題になると答えられなくなる。そして仕方がないので暗記した答えをそのまま書いてしまう。カルトが突拍子もない自説をただ繰り返すだけなのはここに原因がある。彼らは問題と答えの組だけを教えられて、その問題の解き方や考え方を教えてもらっていない。だから馬鹿の一つ覚えで答えを繰り返すことしかできない。
しかしこれももちろん程度がある。すべての問題について解き方や考え方を理解しろというのも無理な話だ。問題は解き方や考え方を知らないことではなく、知らないままで満足してしまうことだ。問題について答えを知っただけでよしとするのがいけないのだ。
宗教にとって教義や経典は答えである。質問に対して経典のココにこう書かれていると答えるのは質問に対して答えだけを述べていることにあたる。答えだけを言ってもしょうがない。その答えに至る考え方も述べないといけない。考え方というのはどこかに書かれているものではなく、自分の言葉で語るものである。
まとめよう。カルトでは、質問に対して書物を引用することしかできず、自分の言葉で語ることができない。それは、その人がその教えを本当にわかってはいないからである。そして真の問題は、わかっていないのに書物を引用するだけで答えたつもりになってしまうところである。
さて、宗教とカルトの話をしたところで、どうだろうか。宗教批判としてよく見る文章は、よく見てみると単なるカルト批判であることが多い。おっしゃることはその通り、だけど本物の宗教というのはそんなものじゃないよ、と言いたいのである。