SF・ファンタジーは何でもありか?

SFやファンタジーは本当は何でもありの荒唐無稽な話なんかじゃない

いい加減な話、ホラ話、荒唐無稽な話はよく「SFみたいな話」と呼ばれる。そう言う言葉を使う人は、大抵はいかにもSFとは縁のなさそうな人だ。まあ、SFを少しでも読んだことのある人ならそんな事を言うはずはないから当然なのだが。

なお、最近はSFの影が薄くなってきて、それがファンタジーに置き換わりつつある。絵空事や架空の話は「まるでファンタジーだね」と、こう言われるようになった。SFファンとしては寂しい話だが、ファンタジーファンとしてはうれしいか?と言われるとそううれしい話でもない。

よく考えてみると、一般の人が触れることができるSF・ファンタジーは、荒唐無稽なホラ話が多いような気がする。ファンをうならせる本物のSF・ファンタジーが、そうそう一般人の人目につくところにあるだろうか?かくして、SFやファンタジーは一般の人々には誤解されたままなのだ。誤解されるだけならまだいいのだが、誤解は再生産され、どんどん世の中に浸透していく。

今回の話は、SF・ファンタジーファンではなく、そんな物にこれっぽちも興味がない人でもなく、SF・ファンタジーを誤解している人に向けてである。


さて、まずはそのものズバリ、「SFやファンタジーは荒唐無稽か」という点について考えたい。答えはノーである。それどころか、SFやファンタジーはあらゆるジャンルの中で最もリアリティを重んじるものなのである。

それはなぜか。それがSFやファンタジーの売り物だからである。「現実じゃないけど、こんなに真に迫った世界がある」というのが売り物なのであり、そういう世界を垣間見るのがSFやファンタジーなのである。これらにリアリティが無けりゃ、そこにはもう何もないのである。

現代のものなら普段自分達が持っている世界法則や常識をそのまま適用すれば、十分真に迫った話を書ける。時代劇の場合はその時代の常識を昔の文献から引っぱってこなくてはいけないから少し手間がかかる。しかし、SFやファンタジーでは対象となる世界が存在しないのだから、科学性や論理性といった根本的なものを使って自ら作り上げないといけないのだ。そして、作り上げた世界が真に迫っていないといけない。

なお、この点では、SFよりファンタジーの方が大変だ。SFは現在の科学知識を使えるのに対し、ファンタジーではそれすら使えないからだ。


つまり、「SF・ファンタジーは荒唐無稽だ」というのは間違いだ。「SF・ファンタジーは荒唐無稽になりやすい」というのは正しい。しかし、荒唐無稽になってしまったらもう一文の価値もなく、それはSFでもファンタジーでも何でもないただの妄想なのである。しかし、それを分かっていない連中がそうした駄文をSFやファンタジーと称して世の中に出してしまった所からどこかがおかしくなってしまったのだ。

日本でファンタジーが爆発的に流行したポイントはわかっている。RPGである。主にドラクエやファイナルファンタジー、そしてそのあたりに雨後の竹の子のようにうじゃうじゃ出てきた似たようなゲームである。そしてメディアミックスと称してゲームをそのまま小説やマンガに持っていったのが間違いだったのだ。

RPGはストーリーがあっても所詮はゲームである。主人公を動かして、ゲームとして遊んで面白いようにできている。そして、セーブがあるとか、街から街へとテレポートするとか、死んでも復活するとかいったゲームならではの都合というものもある。そういった世界設定をそのまま小説に持ってきてしまった。これがそもそも間違いの始まりだ。ファンタジー小説がその一番の売り物をゲームなんかからそのまま持ってきてうまくいくはずがない。それは小説用ではなくゲーム用に作られているのだから。

そして、そういう小説ばかりが氾濫したために、ファンタジー(やSF)はそんなものだという一般常識が成り立ってしまった。これが現在の状況の原因である。


もしかしたら、ここでいつもSFとファンタジーをひとくくりにしてしまっているのに違和感を感じる人がいるかもしれない。「ガンダム」と「千と千尋」をひとくくりにするのか、と。しかし、サザエさんや美味しんぼやキャプテン翼なんかよりはずっとずっとひとくくりにできるではないか。

異世界ファンタジー(いわゆる剣と魔法の世界というやつ)は、もともとSFの分派という色彩が強い。「ゲド戦記」のルグィン、「エルリックサーガ」で知られるムアコック、「天駆ける十字軍」のポールアンダースンなど、皆SF作家だ。そして、そういった作品を好んで読んだのもSFファンだった。

SFというのは、「科学知識を基にして魅力ある異世界を構築する」ジャンルである。そして、ファンタジーは、「科学知識を基にして」という足枷を解き放っただけのことだ。どちらも目指す所は同じなのだ。動機という観点から見れば、恋愛ドラマやミステリーとは違って同じ範疇に入れられるものなのだ。


さて、現在では事態はもう一段進行している。普通の小説がみなファンタジー化して、ファンタジーと普通の小説の境目があいまいになっているのだ。

「パラサイト・イブ」や「らせん」などを思い起こしてもらえば、筆者の言いたいことがわかってもらえるのではないだろうか。これらは世間一般ではSFで通っているかもしれないが、実際のところこれらはSFというにはあまりにもお粗末だ。科学的知識のかけらもなく話は矛盾だらけだ。これこそまさに荒唐無稽という言葉がふさわしい。そしてこんなのはSFなんかじゃない。

筆者は、これらの小説の科学的知識の足りなさを問題にしているのではない。問題は彼らがなぜ単なるホラーでいいところにわざわざ科学を持ち出しているかだ。科学的な言葉を並べたてれば何でもSFになるとでも思っているのだろうか。サイエンスが最も重要視する「論理性」がかけらもないのだ。これをSFの軽視と呼ばずして何と呼ぼう。

ファンタジーの世界でも問題は着実に進行している。その一つは、何でも魔法や神で片付けてしまう態度である。魔王を倒せるのは魔法のかかった伝説の剣だけだとか、神が何でも願い事を叶えてくれる、とかいった類いのものである。そんな都合のいい物があったら世界がどうなってしまうだろうかと、世界法則から世界を演繹することがまるでない。

異世界は決して「何でもあり」ではない。この世とは違う何らかのルールにのっとっているだけだ。そのルールを明示するなんて野暮な真似は一流の小説家はしないから、そしてルールがよく出来ていればいるほどそれは世界にとって空気のような存在になるから、読者にそのルールの存在を気付かせないものである。そしてプロでありながらそれに気付かない低レベルの作家はそうしたルールの存在しない小説を作ってしまう。


そしてもう一つは、人間の心、感情や内面を具体化するという仕掛けだ。邪悪な心が凝り固まって襲ってくるとか、それを汚れを知らぬ真っ白な心が浄化するとか、そういった話のことである。こういう話が好きな人には一言言いたい。「自分で何を言っているのかわかってるのか?」と。

人間の感情や内面の表現は深みのあるよい物語には欠かせない。しかしそれらは直接表には出すものではなく、主人公の仕草や行動からにじみ出てくるべきものである。そういうものを正面きって書けないから、そしてファンタジーならそういうものを「魂」とか「魔法」なんかで直接表現できるから、筆力のない作家はファンタジーという形をとりたがるのだ。


最近、完全な異世界ファンタジーが少なく、「現代社会に住む主人公が異世界の扉を開けて……」というパターンが多いのにお気づきだろうか。彼らはファンタジーを書きたいのではなく、普通の恋愛物か何かを書きたいのだ。しかし、それだけの筆力がないものだから、そして話が多少いい加減だったり矛盾があったり表現が直接的であってもファンタジーと名乗ればなぜか許してもらえるからそうしているだけにすぎない。

本物のSFやファンタジーはそんなに甘い物ではない。「異世界のリアリティを出す」というのは大事業なのだ。単なる恋愛物すら書けない作家が、恋愛とファンタジーを両立させられるはずがない。


SFやファンタジーは論理性が最も重要視されるジャンルである。だから、本来なら「荒唐無稽」という言葉が最も当てはまらないジャンルなのである。しかし論理性が重要視されるということはつまり注意しないと論理性が保てないという事でもある。そういう注意を怠った作品は「荒唐無稽なエセSF」であり、本物のSFではない。

甘い考えの作家にはノーを突きつけよう。そして本物を読もう。