カタカナ語

漢語に言い替えればすむ問題ではない。

カタカナ語を平易な漢語に言い替えようという運動がある。カタカナ語では老人がわからないからだという。カタカナ語がわからないなら漢語にすればいいという発想は、少しは認める面もあるがバカげている面もある。それで済む問題ではないのだ。

そもそもなぜカタカナ語を使うのかを考えてほしい。言い替え派の人は「カタカナ語の方がかっこいいと思っているから」だと思っているフシがある。ほとんどの人はそんなコンプレックスは持ってはいない。便利だから使うというだけである。コンプレックスを持っているからこそ、漢語に言い替えることにこだわるわけである。

そしてなぜカタカナ語が便利なのかというと、それが従来の日本語のどれとも異なる意味を持っているからである。だから、カタカナ語を今ある日本語に置き替えてはいけない。これは同じように見えて別の意味なのである。


「マニフェスト」がいい例だ。よく「政権公約」と訳される。しかしマニフェストという言葉は政権公約という言葉と似てはいるが微妙に違う。この微妙な違いを無視して同じものだとしてしまうのが問題なのである。

マニフェストはもともと「声明文」であり、もっと言えば「共産党宣言」である。社会をこうしていきたいという明確なビジョンを持ち、そのためにはどんなことが問題で、何が必要で、どのように解決していけばよいかを書いたものである。党の基本理念なのである。

それなのに、「政権公約」という漢語にしてしまうと、「カタカナ語だと難しく見えるけど、なんだ、政党が出す公約のことなのか」と間違って理解されてしまう。だから「○○項目のマニフェストを出しました」なんてバカな話が出てくるのである。マニフェストは基本理念なのだから、箇条書できるようなものではない。項目が並んでいるものではなく、目指す社会をストーリーとして語るものである。「マニフェストを○割守りました」なんて本当にバカ丸出しだ。マニフェストは理念であり、何割守ったとか守らなかったとか言う類いのものではない。


なぜ「マニフェスト」という言葉がわかりにくいのかというと、それが(日本人には)新しい概念だからである。「マニフェスト」という言葉でよくわからない人に対しては、安易に「政権公約だ」と言ってごまかさずに、マニフェストの意味を説明すべきなのである。

本当は、マニフェストの訳語として「政権公約」よりは「政策綱領」の方が意味をより正確に表している。しかし世間では「政権公約」の方がよく使われる。なぜかというと、マニフェストという言葉がわからない人には「政策綱領」と言ってもやっぱりわからないからだ。

意味がわからない人に意味を説明するのではなく、それに一番近い別の言葉をあてはめてしまうのが「言い替え」である。言い替えによって、もともとの言葉が持っていたニュアンスは失われてしまう。だから言い替えはよくないのだ。


しかし、外来語を漢語に言い替えるということは別の側面も持っている。漢語の持っている「字面から意味がなんとなくわかる」という利点を生かすということだ。マニフェストという言葉やその概念も知らなくても、「政策綱領」と書けばなんとなく政治に関係する言葉だとわかる。これが漢語の力であり、もっともっと利用していくべきだ。

外来語を漢語に言い替えるのはいいが、外来語を今ある漢語に置き替えてはいけない。その二つには微妙な意味の差があるからだ。外来語を漢語に置き替えるなら、その漢語は新しく造った言葉でなくてはならない。「なんだその言葉は!言い直したところでちっとも意味がわからないぞ」と言われるような言葉でなくてはならない。

もともと、言葉に対応する概念を持たない人にその言葉の意味がわかるはずはないのだ。だから、あるわかりにくい言葉が言い替えただけでわかりやすくなるはずはない。それはわかったのではなく単なる勘違いである。わかりにくい言葉で置き替えれば、少なくとも「これは日本に従来からある概念のどれにも当てはまらないものなのだ」ということがわかる。そっちの方がまだマシだ。

カタカナ語より漢語の方が良いことも多い。短くなるし、漢字からおおよその意味がわかるからである。言い替えは多いに結構。しかし、従来からある言葉を勝手に当てはめてはいけない。「なんじゃこれは」と皆が思うような言葉を造り、それを皆で使うことで慣れていかなければならない。