言葉の誤用

なぜ言葉の誤用が起きるのか

言葉の誤用はよく話のネタになる。以前のコラムで挙げた「確信犯」もそうだが、「役不足」「情けは人のためならず」などいくらでも例はある。

こういう言葉に対して「誤用してるぞ。お前バカじゃねえのか」「いや、言葉の意味は変わるんだよ。お前は頭が古臭いだけだ」などという不毛な言い争いはやめよう。こんな事を言うと「いや、言葉に対して『正しい意味』があるのだから、それを使わないと話が通じなくて困るじゃないか」と言う人がいる。それはその通りだ。しかし、言葉の「正しい意味」とはそもそも何だろうか。そんなものが本当にあるのだろうか。

結論から言うと、「話が通じなくて困る」というのはよくある話で、それは頭の中身が人によって違うからである。それは言葉の使い方を統一したくらいでは解決するものではない、深くて難しい問題なのである。


「言葉とは何か」は難しい問題であるが、ここでは頭の中にあるもやもやとした概念に名前をつけたものだとしよう。例えば「自動車」という言葉を聞けば、おそらく多くの人の頭の中には、4つタイヤがあってエンジンが乗っていて、ハンドルやブレーキがついているものを思い浮かべるだろう。それが概念である。そのもやもやとした概念に「自動車」という言葉を対応させる。これが「言葉の意味」である。

しかし、江戸時代の人には「自動車」という言葉は通じない。なぜなら自動車そのものがなかったからだ。彼らの頭の中には、もやもやとした「自動車」という概念が存在しない。だから、自動車についてどう言葉で説明されようと「ああ、あれのことか」にはなりっこない。

他の人から知らない概念をもらおうとする時にも、やっぱり説明をもらうしかない。自動車についてまったく知らない人は、詳しく説明してもらってどうにかして自動車とは何かを理解しようとする。

説明には2種類あるということだ。双方とも頭の中に概念はあるのだが、それを結びつける言葉がないという状態での説明が一つだ。この場合には、連想ゲームのように「ああ、あれか」と思いついてもらうだけの説明でよい。それに対して、相手の頭の中にその概念が存在しない時は、一からその概念を作り出さなくてはならない。後者はつまり「○○とは何か」を論じるということだ。これはそう簡単にはすまない。


「説明しろ」と言われて辞書の説明を持ってきてすませる人がいる。辞書が集めているのは前者の説明(連想のための説明)である。たかだか数行の説明ではその概念をすべて説明するにはとても足りない。辞書の説明を絶対視するな。なぜなら、辞書はすべてを説明しているわけではないからだ。

例えば「自動車って何?」と聞かれた時に「4つタイヤがついていて、ハンドルがあってブレーキがあって、道路を走っているあれだよ」というのは、子供にならよい説明だ。子供は既にしょっちゅう自動車を目撃し、日常的にそれに乗せてもらい、自動車とは何かをよく知っているからだ。知らないのはその概念に「自動車」という言葉を対応付けることだけだ。

しかし、上の説明にはいくつも嘘がある。自動車のタイヤは必ずしも4つではないし、必ずしも道路を走っているわけではない。だから、上の説明だけをもって「これが自動車の定義だ」と言うわけにはいかない。辞書的な(連想のための)説明では正確なことを言う必要はない。それどころか、正確さを第一に考えるとわかりにくい説明になってしまうから、正確な説明は避けなくてはならない。自動車を見たことがない相手には、その説明だけでは何のことかさっぱりわからないだろう。

ここで言葉の誤用の話に戻る。問題は、そもそもその概念をまったく持たない人に対してわかりやすい(そして不正確な)説明をし、受け取る側がそれを正確な定義として受け取ってしまうことによる。言葉の誤用の問題が起きるのは、概念としては当然知っているであろうと話し手が思っていることを相手が知らない時である。そして、話し手が当たり前のこととして省略したことが相手にとっては当たり前でなかった時である。


「情けは人のためならず」という言葉を「情けは自分のためである」という意味ではなく「情けは人のためにならない」というふうに解釈している小中学生が多いという話がある。なんとなく後者に親近感を覚える世代を新世代、「近頃の子供はバカだ」としか思えない世代を旧世代だとしよう。この世代間には「情け」に対して大きなギャップがある。

「情けは人の利益か自分の利益か?」という問いには4パターンの答えがある。

  1. 人の利益でもあり、自分の利益でもある
  2. 人の利益であり、自分の利益にはならない
  3. 人の利益ではなく、自分の利益である
  4. 誰の利益にもならない。

旧世代にとって、この言葉は2)を否定し1)を肯定している。人の利益であるのは明らかだが、自分の利益でもあるんだ、と説いている。それに対して新世代にとっては1)を否定し3)を肯定している。つまり、人の利益でないこともあるんだと説いている。そして3)をそのまま肯定するのはいかにもおかしいから「人の利益ではないのだからやってはいけない」と説く。

世代間の大きな違いは、「情けは無条件に人のためになる」という前提、もっと簡単に言えば「情けはいいことだ」という前提があるかないかだ。この前提がなく「情けは人のためではなく結局は自分のためになるのだ」という説明だけを受ければ、3)が一番その説明に近い。つまり、この説明が旧世代にとっての「情けは人のためならず」の意味になるには、3)と4)は存在しないという前提が必要である。その前提がない人に向かって同じように辞書的な説明をするから誤用されるのである。


まとめよう。言葉が誤用されるのは、自分と相手が同じような概念を持っていないにもかかわらず、同じような概念を持っているだろうと勘違いして(あるいは希望的な観測で)詳しい説明を省略してしまうところにある。しかも、「ああそれでわかった」と相手が言ったところでそれが本当に自分の思っていることと同じである保証がないことが問題をややこしくする。

「言葉の意味は時とともに変わる」というのは、意味が連続的に変化するのではない。ある言葉で代表される旧世代の概念は新世代の頭の中には存在しない。それを旧世代がなんとかして新世代に植えつける。しかし考え方の土台が違うせいで、新世代の頭の中には旧世代の頭の中のものと微妙に違うものが出来上がる。そしてそれに元の言葉を対応づける。言葉の意味はこのようにして変わっていくのである。

つまり、誤用はなぜ起きるかというと、相手の頭の中に同じ概念が存在しないからだ。聞き手にとって、話し手が何を言っているのかチンプンカンプンなのだ。だから、言葉の意味だけを教えるだけではダメで、概念ごと教えなくてはいけないということだ。「辞書を読め」では不適切だ。辞書は概念を教えるためのものではなく、言葉と概念の対応付けをするためだけのものだ。

さらに、自分から説明して終わりではいけない。相手がそれを正しく受け取っているという保証はどこにもないからだ。話を聞き、どこに差異があるのかを研究しなくてはならない。