性悪説

性悪説の方が人にやさしい。

「あなたは善人ですか?悪人ですか?」と聞かれてどう答えるだろうか。「俺が悪人だと!?とんでもない。俺は今まで警察の厄介になった事も一度もないし、約束を破ったこともない」と言い切る人もいれば、「いやいや、俺はまだ善人なんて域には全然達してないよ」と言う人もいるだろう。概してこの質問の答えは真実とは反対の結果が帰ってくる。悪人ほど「俺は善人だ」と言うものだ。

結局、「あなたは善人ですか?悪人ですか?」という質問はその人が善人かどうかを質問しているのではなく、その人の善悪観を質問しているのである。「あなたにとって善とは何ですか?」というのと同等だ。そしてそれに対して「俺は善人だ」と答える人は「普通の人は善人である」という善悪観であり、「俺は悪人だ」と答える人は「普通の人は悪人である」という善悪観である。

「普通の人は悪人である」という善悪観は「性悪説」と呼ばれて嫌われる。しかし性悪説は人にやさしい説である。そして、よくよく考えてみればどちらもたいして違うことは言っていない。


まず性悪説とは何か。辞書では次のように説明している。

性悪説とは、人間の本性を利己的欲望とみて、善の行為は後天的習得によってのみ可能とする説である。

つまり、人間はもともと悪い存在であり、努力しないと善くはなれないという説である。

その反対の性善説はこう説明されている。

性善説とは、人間は善を行うべき道徳的本性を先天的に具有しており、悪の行為はその本性を汚損・隠蔽することから起こるとする説である。

つまり、人間はもともと善い存在なのだが、なんらかのきっかけで悪に染まってしまって悪人になるという説である。

性善説は正統派儒教の教えであるため、(長く儒教を規範としてきた)日本人は何となく性善説の方が良いように思っている。しかし本当のところはこの二つは対立しているわけではなく、双方の「善」「悪」の定義が違っているだけだ。


キリスト教は性悪説である。姦淫の罪で石を投げられる有名な話があるように、「人はみな大なり小なり罪を犯している」というのがメッセージである。浄土真宗も同じような教えである。善人より悪人の方が往生しやすいと説く。人は善行を積んだからといって救われるようなものではなく、逆に自分の中の悪を正視し自分の限界を認識することによって救われる。

「俺はちゃんと戒律を守っているし神への感謝を欠かしたことはない」と言う人は、本当に完全無欠な善人なのではない。ただ自分の中にある悪に気がついていないだけだ。あるいは自分が昔やった悪い行為をすべて忘れてしまっただけである。完全な善人などこの世にはいない。善というのは目標であって、実際にそこへ到達することはできない。いわば「前に向かって歩く」というようなものだ。前に向かうことはできるが、前に到着することはできない。これが性悪説における「善」の定義だ。

誰でも「お前は悪人だ」と言われるより「お前は善人だ」と言われるほうがうれしい。しかし、善人であるということはそれ以上努力の必要がないということを意味する。善人になったとたん、自分ができることといったら現状維持という後ろ向きな行動だけになってしまう。まず必要なのは、自分が悪人であると認識すること、つまり前に進む必要があるということを認識することである。


とはいえ、「お前は悪人だ」と言われると誰でもつらい。そこで用意されているのが「赦し」である。赦しというのは「悪人でもよい」と悪人を肯定することだ。どうせ皆悪人であり、この世に善人は一人もいないのだ。だったら少々悪人でもまあいいじゃないか。悪人でもよいのだから「俺は悪人だ」と素直に言えるようになった。

しかし、もともと「善人」というのは良い人のことで、「悪人」は悪い人を指す言葉だった。それを「悪人でもよい」というのはすさまじく自己矛盾な言葉である。悪人でもよいとなったら「よい」とはいったい何のことだろう。結局「よい」「悪い」は意味を持たなくなってしまう。そしてそれでいいのだ。善悪なんてものは存在しなくてもなんら困りはしない。

そもそも善悪とは何だったのだろうか。考えてみるとよくわからない概念である。そういうよくわからない概念を振りかざして人を糾弾する場面によく出くわす。ある行為を悪だと決めつけるのは勝手だが、そうして何になるというのか。善悪を言い出すと話はとたんに非建設的になる。行為(や人)が善であろうと悪であろうとそんな事は問題ではない。問題はこれからどうするかである。つまり、これからはやってはいけないような行為が「悪」であり、これからもどんどんやろうという行為が「善」である。


性悪説というのは「悪は普遍的なものであり、特に問題視するものではない」という説である。この説を採るなら、とりたてて「お前は悪人だ」と糾弾してはいけない。なぜなら普通はだれでも悪人なのだから。「お前は悪人だ」というのは当たり前のことであり、わざわざ言う必要のないことだ。

性悪説には赦しがつきものである。過去の罪は水に流して、これからどうするかを考えるべきだ。もちろんそれには過去の罪の冷静な分析も含まれる。そして「その行為は悪である」という結論が出るかもしれない。しかしその人がした行為が悪だからといって、その人自身が悪であることとは関係がない。「罪を憎んで人を憎まず」である。

そもそも、ある行為を「悪である」と結論づけるのは何のためなのかを考えないといけない。これはその行為についてあれこれ結果論を言うためのものではなく、これから同じようなことをするのはやめようと決心するためのものだ。だから正確には「○時○分にした××さんのこの行為は悪である」という結論は無意味で無目的な結論である。これからの話をしているのだから、個々の事柄について述べるのではなく一般化しないといけないのだ。「こんな行為をすると今回のように困った事態になることが多いから、これからはやめましょう」という結論になるはずである。あくまで「これからはやめましょう」であり、これまでの事については何も言っていない。これまでの事については何を言っても結果論になってしまうからだ。

冒頭で性悪説を「人にやさしい」と称したのはこの点である。性悪説をとるなら人を非難することはできない。性善説をとるなら、悪いというのは特別な状態だから「お前は悪人だ」といって人を非難することができる。しかし非難して結局どうなるというのか。そんな意味のないことはやめようよ、と性悪説は言っているのである。「俺が悪人だって?そうだよ。そんなの当たり前じゃん」で終わらせてしまえばいいのだ。人を責めたてるエネルギーをもっと前向きな方向へ生かすべきだ。


性悪説は善悪という概念そのものを「どうでもよい」と否定する。いや、正確には「既に起きてしまったことについて善悪をとやかく言う必要はない」という否定の仕方だ。問題はこれからどうするかである。自分が悪であることを自覚して、しかし悪であることにとらわれずに善という目標に向かって歩けばよいのだ。


今まで性悪説の立場で書いてきたが、「お前は悪人だ」といって人を非難するのは本当は性善説でもない。なぜなら性善説によれば人はすべてもともと善人だからだ。ただ少し道を外れただけなのだ。そんな人をことさら責めたてるのは良くない。

とすると、性善説も性悪説も根本的なところは同じだ。「人はみな善なのだから人の善悪をどうこう言ってはいけない」と言うか「人はみな悪なのだから人の善悪をどうこう言ってはいけない」と言うかの違いだ。言っていることは同じであり、ただ人間の本性を「善」と呼ぶか「悪」と呼ぶかという言葉の定義の違いだけである。