平等とは何か

平等とは自由に争うことである

今回は「平等」について考えたい。結論を先に言うと、「平等とは自由に争うことである」というものである。平等を保つには争いが必要なのだ。争いのないところには平等はない。


さて、クイズ本などでよく見る次の問題を考えてもらいたい。

一つのケーキを二人で平等に分けるにはどうしたらいいか

そしてすぐタネ明かしで申し訳ないが、答も書いておこう。

一人がまずケーキを好きな場所で切る。そしてもう一人が二切れのうちどちらがいいかを選ぶ。こうすれば平等に分けることができる。

こう書かれるとなるほどと思う。しかしこの方法では二人に渡るケーキの量が同じであることは保証されない。それでも平等だということならば、平等とはいったい何なのだろうか。


まず言えるのは、「平等」というのは結果について言うものではないということだ。二人に渡るケーキの量が等しいことが平等なのではない。平等というのはプロセスである。平等というのは上記の手順を形容する言葉である。

ではなぜ上記の手順を踏むと「平等」なのだろうか。ケーキを切る人は自由に好きなところで切ることができる。真ん中で切ってもいいし、大きく偏ったところで切ってもいい。しかし偏った所で切ってしまうと、おそらく大きい方を持っていかれて自分には小さい方しか残らない。だからできるだけ真ん中で切る方が自分にとって得をする。そして選ぶ方は二切れのうち自分が得をする方をとる。平等とはこれのことだ。

まとめよう。平等とはそれぞれが自分が得になるように自由に行動することだ。そしてケーキは有限だから、自分が得になるということは相手に損になるということだ。つまり、平等とは各人が相手にとって損になり自分にとって得になるという行動をとれるということである。そしてケーキの量が増えない限り、各人の行動は真っ向からぶつかり争いになる。互いが自分の利益を最大にするために争うことができるというのがここでの要点である。


ケーキを二人に等しくなるように分けようとしてはならない。それは不可能だ。そんな事ができないから苦労して方法を考えているのだ。だから切る人は「真ん中で切ろう」とは考えずに、ただ「自分が得をするように切ろう」と考えればいい。そして選ぶ人は迷わず大きい方をとればいい。

平等なプロセスにのっとっている限り、それぞれの行動に「それは不平等だ」と文句を言ってはいけない。行動そのものには平等も不平等もない。だから切る方はわざと大きさを違えて切ってもよい。そしてそれに対して選ぶ人が「自分が大きい方をとって相手に小さい方を押しつけるのは良くないのではないか」と思ってはいけない。いや、言葉を間違えた。そう思ってもいい。そして自分があえて小さい方をとるのもかまわない。しかし大きい方が相手に行った時に「わざと不平等に切り、自分に小さい方を選ばせるように仕向けるとは卑怯だ」と言ってはいけない。選んだのは自分なのだから悪いのは自分なのである。相手が「大きい方でも小さい方でも自由に選んでよい」と言ったのに、勝手に「大きい方を取るのは悪いことだ」と思い込んだ自分が悪いのだ。


この件に関して言えることは二つある。一つは、「平等」は行動でも結果でもなく、プロセス、言い替えれば社会の仕組みやルールに対して言うべきものであるということだ。個々の行動に対して言ってはいけないし、結果について言ってもいけない。

そしてもう一つは、平等さというものは各自が自分の利益を主張することによって守られるものだということだ。もし相手が「たとえ自由に選択できたとしても、自分が大きい方を取り相手に小さい方を渡すのは良くない事だ」と思っていたとしたら、その事によってかえってケーキは不平等に切られる。ケーキを真ん中から切らせるには、「俺は自分の利益だけ考えて常に大きい方を取る」と宣言すること、つまり自分の権利を主張することである。


ただ、平等なルールを定めるのは難しい。今までケーキの例を平等だとしてきたが、切る側と選ぶ側のどちらを取るかと言われたら私なら選ぶ側を取る。ケーキを真ん中で切る事より切られたケーキの大きさを比較する事の方が簡単だからだ。とすると、ケーキを切る側は常に損をしていることになる。

これは難しい問題だ。「ケーキをちょうど真ん中で切る事は不可能だ」というのはプロセスの問題ではなく個人の能力の問題だからである。だから「それはお前のせいだ」と言われると言い返せない。この問題も解決しようとすると次は「どちらがどの役割を受け持つかをどう決めるか」の問題になってしまう。「ケーキを等しく切るのは難しい」という問題から、「完全に平等な役割を決めるのは難しい」という問題に変わってしまう。そしてそれはいつまでたってもキリがない。

しかし一方でこう考えることもできる。ケーキというのはしょせん完全に等しくは切れないものだから、少々の誤差はあきらめるべきだ。あるいはもっと正確に言えば、自分は努力すればするだけケーキをより真ん中で切ることができる。しかしそんな努力がバカバカしくなったらそれはいつでもやめればいい。そして努力をやめたということはそのくらいの誤差を許容するということだ。

この問題を、この問題と同じ手法で解決することもできる。誰が切る側で誰が選ぶ側になるかをくじ引きで決めることにするというのが一つの解決法だ。そうすればルールを下手に自分のいいように変えることはできなくなる。どちらかにとって都合のいいルールにすることはできるが、それは自分ではなく相手の利益になるかもしれないからだ。参加者が「どちらの立場でも同じように自分の利益を追及できる」と思うルールが平等なルールである。

もちろん、ケーキをより真ん中で切ることだけが「努力」ではない。「ルール自体を変えよう」というのも同じように「努力」である。平等の原則に従えば、努力をしない者は不利益を被っても仕方がない。それは自分の責任である。ありていに言えば「ルールが気に入らないのなら対案を出せ」というわけだ。


「くじ引き」という概念が出た。もしかしたら、わざわざ複雑なルールを持ち出さなくても単にくじ引きでいいじゃないかと思う人がいるかもしれない。つまりは次のルールだ。

ケーキを適当なところで半分に切る。そしてくじ引きでどちらを取るかを決める。

これは「公平」ではあるかもしれないが、「平等」ではない。当事者の努力が及ばないからである。この問題はあくまで当事者の行動によって決まるべきものであって、当事者の行動と関係なしに決まるべきものではない。

これは(いつものように)言葉の定義の問題である。「平等」というのは人間の権利の問題である。すべての人間が等しく自分の権利を持つという状態が「平等」である。そして権利というのは自分の利益のために行動できるということだ。

こう定義すると、皆が勝手に好きなことをやる無政府状態が「平等」であるように見える。確かにそれも一つの「平等な社会」なのかもしれない。しかし無政府状態では力のない者は満足に権利を行使することができない。ケーキの話で「ケーキを切る側」になった人間がそうだ。だから、より平等な社会を実現するためにはルールが必要だ。適切なルールを定めることで社会はより平等になれる。


平等の原則を使うことで、同じ大きさに分配する事が難しい問題でも両者が納得するようにできる。両者ともに自分の利益を主張することができる状況を作り出し、あとは勝手になんとかしろと当事者にまかせることだ。双方が自分の利益を最大限にするように行動すれば、同じ大きさに分配される。分配されなかったとしたら自分が悪いのだ。

平等の原則では、ルールを変えることも行動の一部である。ルールを自分の有利にすることも、ルールを壊すこともまた自由である。しかし、誰がどの立場に立っても権利を行使できることが平等であるとすると、これを実現することは難しい。複雑なルールなしでは到底実現できないことだ。

平等と公平は違う。公平な配分では本人が何をしたかに関係なくまったく同じに扱われるが、平等な配分では権利を主張すればするほどもらえる量は多くなる。上では「権利の主張」のことを「努力」とも呼んだが、これは一般的な意味での努力ではなく「権利を主張する努力」のことである。仕事と対価の例えがわかりやすいだろう。仕事をすればしただけ給料がもらえるのは「公平」である。「平等」はこうではない。仕事をしただけでは給料はもらえない。給料をもらうには「給料をよこせ」と言わなければならない。こう言うことが権利を主張するということであり、権利を主張して始めて利益があるという社会が「平等な社会」である。