「ルールを守れ」という発言

ただ言うだけでは何の役にも立たない。

いつもはコラムを書き直すことはあまりしないのですが、これはかなり書き直しました。論点のずれを直しました。


ネット上の掲示板で、たまに長ったらしい「利用上の注意書き」が掲げられているものがある。「誹謗中傷発言は禁止」「公序良俗に反する書き込みは禁止」「法に触れる発言は禁止」などと書かれていたりする。こういう注意書きはどうもヘンだと思う。

「法に触れる発言は禁止」なんて書かれていると、「そりゃ当たり前だろ」とツッコみたくなる。こう書かれてなければ法に触れる発言をしていいとでも思っているのだろうか。まるで「『万引するな』と書いていない店では万引をしていい」とでも思っているようだ。もっと正確には「『万引するな』と書いていない店で万引をされても、それはそう書いておかなかった店が悪い」というところだろうか。どっちにしろ、「法に触れる発言は禁止」というのは書いた本人にとっては当たり前の事ではないようだ。だからわざわざ書くのだろう。

店に貼ってある「万引するな」のステッカーはまだそれなりに意味がある。万引をしようとする瞬間にこのステッカーが目に止まれば抑止効果もあるかもしれない。しかし掲示板の注意書きはたいてい誰も読まない。だから抑止効果すらない、単なる無意味な文章にすぎない。

なぜこういう文章は「利用者はまずお読み下さい」と書いてあるにも関らず誰も読まないのだろうか。当たり前の事しか書いてなくて、意味のある事は全く書いてないからだ。読む意味がないから読まれない。そしてあまりにも無意味な注意書きが多いものだから「注意書きは読む必要がない」というのが一般的になってしまっている。さらにそれに対して皆「注意書きは必ず読め」と書くものだから、「『必ず読め』と書いてある注意書きも読まなくていい」という通念になってしまう。この悪循環によって注意書きを読んでもらう方法はなくなってしまった。

無意味な注意書きは一掃しよう。少なくとも意味のある注意書きと意味のない注意書きは分けてほしい。そして意味のある方には「意味がある事が書いてあるので読んで下さい」と書き、無意味な方には「これらは無意味な注意書きなので読む必要はありません」と書け。そうすれば意味のある方はきっと読んでもらえるだろう。


「無意味な注意書き」とは結局のところ何かというと、同語反復の注意書きのことだ。「法に触れる発言はしてはいけない」と言うが、「してはいけない事」を決めたのが「法」なわけだから、法に触れる発言は当然のことながらしてはいけない。これは言葉の定義から自動的に導かれることで、この注意書きはそれに何も足していない。だから当たり前であって無意味なのである。

「誹謗中傷」も同じである。やられた人が「それはしてはいけない発言だ」と思うような発言が誹謗中傷発言である。つまり「誹謗中傷」というのと「してはいけない」というのは同義語だ。同様に「人の迷惑になる」というのも「公序良俗に反する」というのも「してはいけない」というのと同義語だ。これらの注意書きは、結局のところ「してはいけないことはしてはいけない」と書いているにすぎない。この文章が何かおかしいということはわかってもらえるだろう。

ただ、「○○は人の迷惑になるのでやめましょう」なら話はわかる。そこには「○○は人の迷惑になる」という情報が入っている。しかし、多くの掲示板の注意書きにはそういった意味のある情報と意味のない情報が一緒くたになって列記してある。だから必要な情報まで伝わらなくなってしまう。だから無意味な注意書きを一掃して、意味のあるものだけを残そうと言っているのだ。


ルール破りの発言に対して「迷惑になる発言はやめましょう」とだけ言う人がいる。これは無意味だ。発言の主はどこがなぜ迷惑になるのかわかっていないか、もしくは迷惑になることがわかっていてやっているかのどちらかだからだ。どっちの人に対しても、「迷惑はやめよう」というだけでは何の解決にもならない。

「ルールを破ってもいい」と思っている人に対しては、「ルールを破るな」だけでは当然のことながら平行線をたどる。相手にわかってもらうには、なぜルールを破ってはいけないのかを説明しなければならない。あるいは実力行使(掲示板の場合は発言の強制削除)かのどちらかだ。それ以外の事は言っても無駄だ。

問題発言の主に対して「話せばわかる」的な態度をとる人は多い。しかし、そういう人に限ってわかるような話をしない。ただ自分の主張を繰り返すだけである。相手が自分と同じ(そのルールを守らねばならないという)価値観を持っていないかもしれないという事に思い当たらない。すべての人は同じ価値観を持っていて、それは自分のと同じだと思っている。だから誰に対しても「話せばわかる」と思ってしまうのだし、相手の価値観を否定して自分の価値観を押し付けるだけになってしまう。


もう一つ、よく見かけてそして問題だと思うのが、自分の掲示板のルール違反だといって注意をすることである。問題発言に対して「ここでは誹謗中傷発言は禁止だと書いてある。そしてあなたの発言は誹謗中傷だ。だからあなたの発言はここではしてはいけない」という論法だ。もちろんその論法は筋が通ってはいる。しかし問題は結論が「『ここでは』してはいけない」となっている点だ。つまり他所へ行ってやれということだ。「万引するならうちじゃなくあっちの店に行ってやりなさい」と言っているようなものだ。自分の所だけが良ければそれでいいのだが、根本的な解決にはなっていない。

誹謗中傷発言はどこでもしてはいけないことであり、それは掲示板の注意書きに書いてあろうとなかろうと同じはずだ。なぜ「ここでは」と制限するのだろう?それは、その注意書きを書いた本人が「『掲示板では誹謗中傷発言はしてはいけない』とは思っていない人が比較的たくさんいる」と思っているからである。

もしかしたらこれはある意味正しいのかもしれない。こう思っていない人は確かにいるかもしれない。しかしだからといって注意書きで「誹謗中傷発言はここでは禁止」と「ここでは」を強調して書いてしまうと、それは「掲示板では普通は誹謗中傷発言はしてもいい」という考え方を肯定することになってしまう。だから、少なくとも「ここでは禁止」ではなく「どの掲示板でも普通は禁止されている」と書いてほしい。

注意書きで「これこれの発言は禁止」と書くと「ではここに書いてない発言はしてもいいのか?」という話になる。答は普通ノーだろう。してはいけない発言を注意書きに漏れなく列挙することは普通はしないから、一般的でない事項(例えば「ここは○○についての話をする場所なのでそれ以外の話題はご遠慮下さい」のように)だけ書いて、当たり前の事は書かない。しかしそこに「法に触れる発言は禁止」と書いてあったらどうだろう。もしかしたらここの管理人はしてはいけない発言をすべてここに書いたつもりなのかもしれない。そうでない限り書く必要のない事だからだ。するとそこでは「注意書きに書いていない発言は何でもしてよい」ということになってしまう。それを補強するのが前述の「その発言は注意書きで禁止されているのでしてはいけません」という発言である。「法に触れるから」してはいけないのではなく、「注意書きで禁止されているから」してはいけないと言われた。ならば、注意書きで禁止されていない事はしてもいいということになってしまう。


「ルールを守れ」というだけの発言は意味がない。そしてこういう発言は「ルールを守れと言われなければルールは守らなくていい」という考え方が一般的だと思っていることである。日本にはこんなルールが実際多い。だからルールを見た時に「これは守らなくてはいけないルールなのか、守らなくてもいいルールなのか」と個人が判断しなくてはいけない。本来はルールは言われなくても守るべきものであり、守らなくてもいいルールは無くさなければならない。

ルール違反には「ルール違反だ」と言えばいいのであって、「守れ」という部分を強調してはいけない。「ルールを守れ」と言えば言うほど、「そうやって強調するということは実際にはそのルールが守られていないのだ」と思われてしまう。「守れ」と言うのではなく、なぜ守らなければいけないのかその理由を説明せよ。その方がずっと建設的だ。