「確信犯」という言葉

本当に皆この言葉を間違って使っているか

文化庁の「国語に関する世論調査」で、「役不足」「確信犯」などの言葉が正しく理解されていないという話がニュースで報じられた。役不足についてはまったくその通りだが、「確信犯」という言葉については疑問を持った。

世論調査では、確信犯の意味として

  • 間違い: 悪いことであるとわかっていながらなされる犯罪
  • 正解: 政治的・宗教的などの信念に基づいて正しいと信じてなされる犯罪

とある。しかし、この2つは同じ事を言っているのではないか?というのがここでの疑問だ。

「政治的・宗教的」という言葉は本来の意味とはあまり関係ない。「など」という言葉がそれを象徴している。キーポイントは、前者が「悪いことであるとわかっていながらなされる」というのに対して、後者は「正しいと信じてなされる」ということだ。これは一見正反対の主張だ。

一見正反対の主張に見えるこれらを「同じ事を言っているのではないか?」と言うと、奇妙に思うかもしれない。しかし、これこそが確信犯の本質である。つまり、確信犯とは、一見正反対に見える2つのことが同居する、ある意味矛盾した状態のことを言うのである。

最近、正解とされる定義文が一人歩きして、正しい用法に対してまで「間違いだ」と言う人が増えているように思う。「確信犯」の本当の意味を考えよう。


「確信犯」という言葉は、もともと法の妥当性の問題である。「なぜ法律を守らなければいけないのか?」という問題である。この問題には2つの答えがある。一つは「社会で決めたルールだから守らなければならない」という答え方、もう一つは「人間としてするべきでない行いをルール化したものなのだから守らなければならない」という答え方である。

理想的には、この2つは一致しなくてはならない。人間としてすべきでない行いを社会がルール化したものが法律であるべきだ。だいたいは理想通りにうまく事が運んでいるが、現実には両者の食い違いも出てきてしまい、例えば社会がユダヤ人虐殺をルール化したりしてしまう。

もし両者に食い違いがあったら、つまり人間としてするべきでない行いを社会がルールとして決めたら、我々は社会のルールより人間としてするべき行いを優先させるべきだ。今の自分の行為は社会のルールには反しているかもしれないが、ルールが間違っているのだ。このように考えて実行された犯罪が確信犯である。

まとめると、確信犯とは、次の考え方がベースとなって行なわれた犯罪のことだ。

  • ルールは必ずしも正しいわけではない。
  • 現在自分がしている行為は、ルールには違反しているかもしれないが、人間としてするべき行為である。
  • 誰が何と言おうとも、人間としてするべき行為だと自分が思ったならやるべきだ。

本来、このように自分が正しいと思ったことを断固としてやり遂げるのが信念である。しかし、この「信念」という言葉も欧米のそれと日本語の訳語にはへだたりがある。本来、信念というのは判断の結果である。いろいろ考えた結果、やはりこれが正しいと根拠を持って言えるのが信念である。そして正しさの根拠はつきつめて言うと「正義」に行き当たる。

ここで日本人はきっと「普遍的な正義なんて存在しない」と言い出すだろう。ここが誤解の根本である。欧米流の考え方をするなら、正義はある。正義が人によって違って見えるのは、人によって解釈の仕方が違うからである。こういう考えに立たないと、確信犯の本当の意味は見えてこない。

「政治的・宗教的などの信念に基づいて正しいと信じてなされる犯罪」という確信犯の説明文が問題なのは、これが外国語の文の直訳だからである。日本では「政治」も「宗教」も「信念」も、「正しい(=正義)」すら欧米の概念とは異なる。

本来、政治とは「あるべき社会の未来像を語るところ」であり、宗教とは「人として正しい行いとは何かを教えてくれるもの」である。そして、それらは客観的にズバリと答えが出るものではなく、「信念」としか言いようのないものだ。そして、簡単に答えが出るわけではないこのような問題に対して、自分なりに考えて結論を出して行動することが「正義」なのである。だから、政治と宗教が確信犯の代表となるわけだ。

もし、「政治」を「鬱屈する思いを正しい方面に発散することのできない人のためのエネルギーのはけ口」、「宗教」を「自分の満されない欲望を自分でなんとかすることのできない人が、詐欺師に騙されて有り金を全部吸い上げられるところ」、「信念」を「洗脳によってそう思い込まされ、疑うことすらできなくなること」、「正義」を「自分は正しいと勝手に思い込み、皆の言うことを無視して一人で事を運ぶこと」と定義するなら、上の文章を確信犯の定義とするのは間違いもはなはだしいということになる。もちろんこの定義は変なのだが、世間一般の認識はこんなものだ。

決してこの文が間違いだと言っているわけではない。この文は解釈のわかれる難しい言葉をたくさん含んでいて、この文をその意図した意味にとれる人はあまり多くはないということだ。はっきり言えばこの文章はわかりにくい。答えを間違えた人の多くは、確信犯の意味を間違って把握しているのではなく、この文章を正しく(=出題者が意図した通りに)読めなかったのではないか。もしそうだとすれば、この調査は「確信犯」という言葉を皆がどういう意味だと解釈しているのかを調べるものではなく、単にこの単語に対する辞書的な定義文を知っているかどうかを調べるものになってしまう。

「確信犯」という言葉は、実に奥の深い意味を持った言葉だ。たった1文で書き表せるような内容ではない。


さて、確信犯とは何かという話に戻ると、それを皆が悪いことだと言うだろうがそれでも自分は正しいと思ってやる行為のことだ。「悪いことであるとわかっている」を「皆が悪いことだと言うだろうとわかっている」と読むならば、これは間違いとされる文に近い。「自分は正しいと思って」が省略されただけだ。

「確信犯であるには犯罪だと認識している必要はない」と言う人もあるが、それはおかしい。なぜなら、犯罪だと認識していないでやった行為は、たとえその結果がどうであろうと、犯罪ではないからだ。

この話をするには、そもそも犯罪とは何かという話をしなければならない。なぜ犯罪が非難されるのかというと、その行為をやってはいけないという社会のルールを自分で勝手に乗り越えてやってしまったことだからだ。社会のルールを守る行為と破る行為の2択を迫られ、破る方を選んでしまったことを「犯罪」と呼んで非難するのである。

何かをやってしまった時に、「悪気はなかったんだ」と弁解する人がいる。この弁解は正しい。その人を非難するには「悪気」の存在が必要なのである。悪気のない人は、社会のルールを守るか破るかという2択を迫られていない。自分で「ルールを破る」を選んでない。だから、非難するに当たらない。誰でも、同じ立場にあったらそうしてしまっただろうからだ。

「確信犯」の場合も、同じような考え方をすればいい。確信犯の場合は、それが悪いことであるということをわかっている。ルールを守るか破るかの2択を迫られているから、それは犯罪であると言える。しかし、「ルールが間違っている」と思ってやったことを本当に非難できるだろうか?それは本当に悪いことなのだろうか?誰でも、同じ立場にあったらそうしてしまうだろう。いや、そうすべきなのではないか?

確信犯の問題は、こんなところで簡単に結論を出すことのできない難しい問題だ。しかし、問題の所在は言える。確信犯は確かに犯罪だが、単純に非難することのできないものである。


ある人が「確信犯」という言葉を誤用しているかどうかをチェックするには、冒頭の文化庁の設問なんかよりもっと簡単で正確な方法がある。こう質問すればいい。

確信犯は悪い事ですか?

Yesと答える人は意味を間違って覚えているのであり、Noと答える人は意味を正しく理解している。確信犯が誤用かどうかでモメたら、一度この質問で確認をしてみよう。

確信犯という言葉が文中で使われるとよく誤用だと勘違いされる場合は、そもそもそこで言っている意味が伝わっていないことが多い。例えばこんな文だ。

Aさんは、会社のノートパソコンを家へ持ち出してはならないという規則があるのを知っているのに、取り引き先のプレゼンで使うというウソの申請を出してまで、毎日持ち帰って仕事をしています。彼はまったくの確信犯です。

これを、「確信犯」という言葉の誤用だと取る人が多い。この文を見て、Aさんの行為を悪いことだと思ってしまうからだ。実際には、上の文は「確信犯」という言葉を正しく使っていて、次のような意味を持たせている。

だいたい、仕事ばかり押し付けておいて、残業もさせてくれず、しかもノートパソコン持ち帰り禁止なんていったら、いったいどうしろというんでしょう。もしAさんの立場になったら、仕事を落とすわけにはいかないから、やっぱりウソをついてでも家にノートパソコンを持って帰るでしょう。あんな変なルールを作った人は、きっと現場の苦労なんて何にもわかっちゃいないんですよ。

つまり、前に挙げた文は、「Aさんはけしからん」と言っているのではなく、「Aさんは偉い」と言っているのである。それが、確信犯という言葉を誤用している人には伝わらない。言葉の意味を正しく使っているのに、勝手に誤用されていると勘違いされた上で、正反対の意味にとられてしまう。これが、確信犯という言葉がよく間違って誤用とされてしまう原因である。

確信犯という言葉を誤用している人は、「Aさんは偉い」という考え方をする人がいるということを思いつけない。ルールを破ることを褒め讃える人がいるということが信じられない。そういう人は、本当の意味での「確信犯」の精神を理解できていないのである。


確信犯という言葉を「法を無視して私利私欲に走る」という意味で使う人がいる。これは誤用だろうか?確かに誤用だと言いたくなるのもわかる。しかしちょっと待ってほしい。単純にそうとばかりも言い切れないのだ。

仮に、次の考え方を正しいとしてみてほしい。

自分が得をするような行動こそが正義である

もっと直接的に言えば

私利私欲こそが正義である

もし、これを正しいと信じている人がいるとすれば、「法を無視して私利私欲に走る」というのは「法に反してでも自分の信じる正義をつらぬく」ということであり、これは確信犯である。

「いくらなんでもこんな無茶な正義の定義なんてあるか」と思われるかもしれないが、こう考えてみたらどうだろう。守る意味がまったくないルールを守ることと、自分が得をすることを天秤にかけて、いったいどちらを取るべきだろうか。まったく意味がない行動を取るよりは、自分が得をする行動を取るべきだ。そう考えれば、「法を無視して私利私欲に走る」という行為は、「その法が時代遅れの無意味なものである」という認識を加えることによって、確信犯になり得る。

つまり、法を無視して私利私欲に走る行為を確信犯だと呼ぶのは、誤用ではない。「その人はその法律には意味がないと思っている」という推定が加わっている。そして、結果としてその行為が間違っていると思うのなら、その人の行為を非難するのではなく、その人が思っている「その法律には意味がない」という認識に反論をしなくてはならない。間違っているとしたら、それは行為ではなく認識である。と、ここまでの意味が「確信犯だ」という一語に含まれているのである。

もう一つ言うと、「法」という言葉にこだわって、法律に関係ない事柄について確信犯と呼ぶのは誤用だというのは狭量な考え方だ。法という言葉は「一般的な社会のルール」と読み替えるべきだし、さらに「大多数の人間が良くないことだと思っていること」と読み替えてもよい。

だから、例えば「ライブドアの売名行為は確信犯だろう」という発言は、売名行為は良くないと大多数の人々が思っているのに対して、法律の範囲内で私利私欲を追求することこそ正義だと思っているのではないかという意味だ。これは確信犯という言葉を(だいぶ拡大された解釈ではあるが)本来の意味の延長で使っている。

「あーあ、あいつきっと確信犯だよ。しょうがねえなぁ」という発言には、確信犯の本当の意味、つまり「一概に非難できない」という意味が含まれている。そう簡単に非難するわけにはいかないから「しょうがない」という気持ちになるのである。


結局、確信犯という言葉は、「自分が思う正しさ」と「世間の人が思うであろう正しさ」に食い違いがある状態を指す言葉だ。だから、確信犯という言葉の意味を分かりやすく書けば、次のようになる。

おそらく世間の人は「悪いことだ」と思うだろうが、自分はむしろやった方がいいと思うことを実行すること

こう書けば、誤用されているケースはあまりないように思うのだ。

確信犯の誤用の本質は、言葉の意味の記述ではなく、さらに先にある。確信犯を悪いことだという意味で使うのが本当の誤用である。本来の意味では、確信犯は善いことなのだ。何を確信犯と呼ぶのかを正しく知っていても、それを「悪いこと」と解釈するなら、それは誤用なのである。

冒頭でも書いたが、「確信犯」という言葉を誤用する人は、確かに結構いる。そして、そういう人たちは、「確信犯は政治的・宗教的な信念に基づいて犯罪を正しいと信じているキチガイであり、そういう奴が何と言おうと犯罪は犯罪として処罰されなければならないのだ」と思っている。つまり、世論調査では正解文の方にマルをつけるが、実際は間違えている。

逆に、上のように誤用している人がいることを知っている人は、世論調査の正解文を「政治・宗教=キチガイだと思っているバカが多いんだよなぁ。本当は確信犯は善いことなのに」と思って、間違いとされる文の方にマルをつける。だから、問題文が悪いと言っているのだ。この問題文で正解の方にマルをつけている人が、本当に正しく理解している保証がない。

しかも、誤用している人は自分が誤用していることに気づかないから始末に悪い。自分がマルをつけた文が世論調査で「正解」とされているから、自分の解釈が正解なのだと思ってしまう。だから、誤用を指摘されても「いや、お前の方が間違っている」と言い張る。

問題をさらにややこしくしているのは、世論調査が「間違い」としている文は、正確な意味ではないが、必要条件ではあるということだ。確信犯は、悪いこととわかっていてなされる犯罪である。これは正しい。ただ、確信犯という言葉にはもう一つ違う条件が付け加わっているから、この文は言葉の定義としては正しくないと言っているだけなのだ。

逆に、確信犯には、「悪いこととわかっていてなされる」という条件が必須だ。悪いこととわかっていないでなされた犯罪は、確信犯とは言わない。なぜなら、確信犯とは、ルールと正義を天秤にかけた上で、正義を取るという行為だからだ。ルールをわかっていない人は、天秤にかけていないから、確信犯ではないのである。ここを勘違いしている人も結構いる。

この問題で本当に恐いのは、冒頭でも書いたように、正解とされる文が一人歩きし、間違いとされた文が「間違っている」と勘違いされることだ。「確信犯」という言葉は、とうてい一文では説明できない複雑な概念なのである。本当に確信犯という概念を知らない人は、正解とされる一文を読んだだけででこの言葉の意味を分かった気になってはいけない。

この問題は、単に言葉の意味の記憶違いというだけの問題ではない。その人の倫理観を問われる、非常に奥の深い問題である。そして、誤用だと言われることが増えてきた背景には、ルールに対する倫理観の変化がある。本当の意味での確信犯を、正しい行為ではなく、間違った行為だと思う人が増えてきた。だから、あちこちで誤用されるのである。