科学万能主義

科学で解明できない事はあるか

超常現象を扱ったTV番組ではよく「この世には科学では解明できない事もある」というメッセージが流される。今回はこの事について考えてみたい。

ここでは、まず「この世のすべての事は科学で解明できる」というのを科学万能主義であると定義したい。科学万能主義の発端はニュートン力学にさかのぼる。今まで神秘とされてきた天体の運行がニュートン力学という簡単な法則の結果であることが発見された事だ。これをを使えば、未来永劫にわたって天体の動きを知ることができる。

18世紀にフランスの数学者ラプラスは「ある瞬間において宇宙のすべての原子の位置と速さを知ることができるならば、未来永劫にわたって宇宙がどうなるかを解析することができる」と述べた。有名な「ラプラスの魔」である。これはまた未来は既に決定されているという運命論でもある。

これらが科学万能主義の発想である。現在の状態を適切に観測し、それに科学法則を適用すればすべての結果が導き出せるというものだ。また逆に現在の状態から科学法則を逆に適用すれば原因が導き出せる。つまり、観測しさえすればあとは科学法則によって何でも解明できるという立場である。


それが20世紀初頭から崩れ始めた。相対性理論の発見もあるが、科学哲学的に大きな影響を与えたのは何といっても量子力学だろう。量子力学では事象は確率的にしか起きない。ラプラスの魔は存在しなかったのだ。科学法則を適用しても完全に未来を予測することはできない。

20世紀に相対性理論と量子力学という2つの大きな力学理論の発見があって、これらが「科学法則」というものに対する考え方を変えた。以前は科学法則というものは(端的に言えば)ニュートン力学しかなく、これだけで全てが言い表せると思われていた。しかし今では科学法則というものに対して皆はもっと懐疑的だ。すべての場合において普遍的に成り立つ「究極の科学法則」というものは本当にあるのだろうか。そして、もし究極の科学法則というものがあったとしても、それが究極であることをどうやって知ることができるだろうか。

おそらく、「すべての事は科学で解明できる」という科学万能主義を一番信じていないのは科学者本人だ。彼らは自分たちの限界はよく知っている。


科学者は「この世には科学では解明できない事もある」というのを認めていながら、なお科学を信頼している。別の意味の科学万能主義があるからだ。「科学以外の方法で解明できるものは何もない」という主義である。ここからはこの主義を「科学的手法万能主義」と呼ぼう。言い換えると「科学以外の方法で何をしてもそれは解明したとは呼べない」ということであり、「非科学的な手法による事実は事実とは認めない」ということだ。これは「科学」の力の問題ではなく、言葉の定義の問題である。

つまり「科学には何ができるか」ではなく「科学とは何か」という問題なのだ。まずこれらの言葉の意味を考えてみよう。「意味」として挙げる文は三省堂の大辞林を引用する。

まず解明とは何か。辞書によると「わからない事柄を明らかにすること」である。そして「明らか」とは「事柄が、だれにもわかるようにはっきりしているさま。疑いをはさむ余地のないさま。明白なさま。」とある。つまり、解明とはその事柄を誰が見ても正しいと思えるようにすることである。

次に科学とは何かを見てみよう。「科学」の説明には「学問的知識。学。個別の専門分野から成る学問の総称」とある。つまり科学とはいろんな学問の総称である。そして学問とは何かというと「一定の原理によって説明し体系化した知識と、理論的に構成された研究方法などの全体をいう語」とある。なお「理論」とは「科学研究において、個々の現象や事実を統一的に説明し、予測する力をもつ体系的知識」であると説明されているから、簡単に言えば学問あるいは科学とは「説明し体系化した知識である」といえる。

次に「説明」とは何かを見てみよう。辞書には「記述が事象の単なる描写や確認であるのに対して、ある事象がなぜそうであるかという根拠を法則からの演繹によって明らかにすること」と書いてある。つまり、ある事象について根拠を示して明らかにすることである。ここで「明らか」がまた出てきた。「科学」と「解明」の関係のキーポイントとなるのはここだ。なお、「体系化」の話今考えたいこととはあまり関係がないので省略することにする。


さて、今までの話をまとめよう。科学というのは「根拠を示すことによってものごとを解明すること」である。そして「科学的手法万能主義」とは、「根拠を示すことによってのみものごとは解明される」という主義である。これを考えるには「根拠を示さなくてもものごとは解明されるか?」という疑問と「根拠を示しても解明されないことはあるか?」という疑問を考えればよい。

まず前者について考えてみよう。少々トリッキーではあるが、「根拠を示さないとものごとは解明されたことにならない」と言う人が一人でもいれば「根拠を示さないとものごとは解明されたことにならない」と言えるのである。誰かがそう言うならば、科学によらないものは「誰が見ても正しいと思える」ようなものではなくなってしまう。だからそれは解明ではない。

この論法は後者にも当てはまる。誰かが「根拠を示しても解明されたことにならない」と言ったら、それはまた解明されたことにならない。だから根拠を示しても解明されたとは言えないのである。つまり、万人が認める「解明の方法」がない限り、解明するいうことは不可能である。

そしてその「解明の方法」こそが「科学」である。万人が「そういう理由でなら納得できる」と言える思考の道筋が「科学的手法」であり、それによって積み重なった万人の認める「解明されたもの」が科学なのである。科学イコール解明なのである。


UFOというものがこの問題を象徴的に示している。UFOというのは「未確認飛行物体」のことだ。この意味においては科学者全員がUFOの存在を認めるだろう。単に「なんだかわからない物体」のことなのだから。ただこれが「宇宙人の乗った船だ」という主張は認めない。その「なんだかわからない物体」が光の反射でも観測用気球でもなく宇宙人の乗った船だと主張する理由がないからだ。

だから、「UFOは観測用気球だ」という主張にも同様に反対する。提示された写真にたまたま写った光る物体には宇宙人が乗っているかもしれないし、観測用気球かもしれない。可能性はいくらでもあるが、その写真だけではその可能性のうちのどれなのか特定はできない。情報が不足しているのだからこれ以上の議論は意味がない。これが正しい主張である。

なお、TVで「UFO否定派」が「UFOは光の反射のせい」と言うにはれっきとした理由がある。その前におそらくUFO肯定派が「こんな真昼にこんなスピードで空を飛ぶ物体は宇宙船以外あり得ない」と言っているだろう。この発言に対する反論である。「宇宙船以外あり得ない」という主張に対して「光の反射だという可能性もあるから、宇宙船以外あり得ないというわけではない」と言っているだけで、「その物体は単なる光の反射だ」と断定しているわけではない。正確に言えば「(その)UFOは光の反射だ」ではなく「(その)UFOは光の反射だという可能性もある」という主張であり、それは正しい。


この議論では「UFOは宇宙人の乗った船ではない」と言っているのではない。「『UFOは宇宙人の乗った船である』とは言えない」と言っているだけだ。この2つの主張はよく取り違えられる。「(あの)UFOには宇宙人が乗っている」という文は事実について述べた文である。しかしこの文の真偽を確かめる方法がない。だからこの文は真偽不明の、いわば価値ゼロの文だ。

真偽不明の文に対して「それは正しいかもしれないから意味がある」というのは間違っている。真偽不明の文の価値はゼロだ。例え結果的に正しくても無価値だ。きちんと筋道を立てて説明したものにだけ価値があり、そうでないものはすべて価値がない。これが「科学的手法万能主義」である。なぜなら、科学とは説明することなのだから。

「非科学的」というと超能力や霊といった超常現象がよく挙げられるが、本当はこれらの現象そのものが非科学的なのではない。それを目撃談や手品まがいの実演といった真実だとは認めない人がいる方法でしか見せないから非科学的なのだ。現象そのものの問題ではなく、それに対してきちんと筋道を立てて説明しようとしない態度が悪いのである。「非科学的」というのは現象ではなく、それを研究する方法論にあてはまる言葉だ。たとえ霊現象であっても、きちんと説明ができた時点でそれは「霊科学」になる。科学の仲間入りをするわけだ。つまり、解明されたらそれは科学になるのだ。だから科学と解明は等しいのである。

科学者は最も疑い深い人種である。「きちんと説明されたものしか信じない」と言う。嘘でも何でも簡単に信じることができればそれは楽だろうが、科学者はそうしない。そして科学者はただ純粋に「信じたい」と願っている。だから「信じられるものなんて何もないのさ」とは言わない。このジレンマを解決するよりどころが「説明」である。


「科学万能主義」を信じている人はもはや誰もいない。しかし「科学的手法万能主義」は妥当な主義である。「正しい」ではなく「妥当」と呼んだのは、「もし解明というものがあるとすればそれは科学的手法だ」と言っているに過ぎないからである。もしかしたら「解明」というものは存在しないのかもしれない。しかしそれを言ったら何も解明できないことになってしまう。だから解明したいのであれば科学的手法をとるしかない。

科学とは何でも解明できるというような傲慢なものではなく、何もかも未解明な中で唯一解明できたほんのちっぽけな領域なのである。ここが「科学では解明できない事がある」という言葉に対する違和感の原因だ。そんなことは当たり前だ。そしてそれは科学が悪いのではなく、解明するということが難しいからなのだ。科学で解明できない事は、科学以外の方法ではなおさら解明できないのだ。