成果主義

成果主義が失敗するのは間違った使い方をするから。

「成果主義」は少し前に大企業を中心にもてはやされたが、今になってそのツケが回ってきている。成果主義の問題点が色々と指摘されていて、成果主義は悪者のように扱われている。

「成果主義」に対するものとして「努力主義」「能力主義」がある。努力主義はたとえ結果が出なくても努力した人に報いるという主義で、能力主義は能力のある人に報いるという主義である。今回はこの3つの違いを考えてみよう。


「能力主義」と「成果主義」は一部で混同されているが、実際は全然違うものである。「能力主義」はどちらかというと「努力主義」に近い。「能力主義」「努力主義」はどちらも「その人がやった仕事に対して支払いをする」という立場であり、成果主義は「その人がもたらした結果に対して支払をする」という立場である。

能力主義でも努力主義でも、支払いは労働者が会社に対して提供した労働の量と質に比例する。能力主義と努力主義の違いは、「質」をどう評価するかにかかっている。もし会社が労働の質を一切評価しなければそれは努力主義になるし、質を評価すればそれは能力主義になる。食料品を買うことに例えてみればわかりやすい。少々高くてもおいしいものを買い求める人が能力主義であり、安ければ味なんてどうでもいいと思っている人が努力主義である。実際後者の立場で買物をする人は多いし、それを非難するいわれもない。

努力主義は単純労働で顕著だ。単純労働の場合、個人の能力がどうであろうとそれが仕事の質に影響することはほとんどない。いくらハーバード大出の人が交通整理をやったところで会社にとっては何のメリットもない。だからこうした仕事では個人の能力を評価するのは理にかなっていない。努力主義が一番合っているのであり、それで不満な人は他の仕事につけばいい。


しかし、単純労働でない場合には労働の質を評価するのが難しい。単純に「皆同じ」とは言い切れないからである。そこで能力主義の出番だ。個人の能力を見極めてそれに合った報酬を出す。

これは会社にも大いにメリットがある。努力主義をとると能力の高い人ほど辞めて他のもっと給料の高い会社に移ってしまうからだ。そして能力の低い人ほど会社に残る。すると「質×量」に対する平均賃金が上がってしまう。つまり、仕事の質が個人の能力によって変化する場合には、努力主義ではなく能力主義にしなくてはならない。労働者を正しく評価しない事は会社にとっても損失である。

ただこの話では雇用の流動化が前提である事に気をつけてほしい。「現在の報酬で不満な人は他の仕事につく」という仮定で成り立っているからだ。実際には会社を変わるのはコストのかかる話であるから、会社は労働者が辞めない程度に真の能力より低く査定することができる。この不平等を改善するには会社を変わるコストをできるだけ低くしなければならない。


時として能力主義において努力が問題になることもある。「努力する能力」の問題だ。実際、長い時間根をつめて仕事のできる人と、すぐ仕事が嫌になってしまう人の二種類がいる。この問題はどう扱うべきだろうか。

これは会社側の搾取の言い訳になりやすいので気をつけるべきだ。低い労働条件で文句を言わずに働くことを「努力する能力がある」と呼んでしまいがちだからである。これは「努力する能力」ではない。単なる労働の不当廉売だ。努力する能力があるのではなく、自分の能力を正当に評価する事ができないのだ。不当廉売は自分の損であるだけでなく他の労働者にも迷惑をかけるから止めてほしい。

「努力する人は報われる」というのは当たり前のことだ。これは「努力する能力」を持ち出さなくても、労働を質×量で評価されることで既に折り込まれている。「努力する能力」を「残業や休日返上で働く」という意味で言うなら、これは評価される必要がある。残業手当や休日手当として通常の時間給より多くの報酬を出すということである。ただし、「努力する能力」が評価されるのは、普通以上に努力する意味がある場合だけでなくてはならない。例えばソフト会社で「たとえ徹夜してでも納期に間に合わせる能力」は確かに評価の対象になるかもしれない。しかし工場で代わりの人員がいくらでもいる場合には「徹夜で働ける」という能力は評価に値しない。その人に徹夜で働かせて割増賃金を払うよりは、別の人に普通の賃金で働かせる方が会社にとって得だからだ。「努力する」という能力の使いどころは限定的なものだ。

「努力する能力」というのは確かにある。しかし努力というのは「文句を言わないこと」ではない。そして努力する能力を発揮する場所は限られている。努力が必要ない場所で勝手に努力をしてもそれは(仕事の量が増えた以上に)評価されるべきではない。


ここで「年功序列賃金」と「学歴主義」について述べておこう。これらは両者とも能力主義の一種である。「ある仕事について経験の深い方がその仕事の質が高い」あるいは「良い学校を出られるというのはそれだけの能力があり、仕事の質も高い」という考え方に基づいている。

学歴を否定する人もいるかもしれないが、学歴は能力を見分ける簡単なものさしであることは否定できない。もちろんレベルの低い学校にも良い人材はいるしレベルの高い学校にも悪い人材はいる。しかし確率論で言えばレベルの低い学校から人を採るよりはレベルの高い学校から人を採る方が良い人材を採れる確率は高い。能力を見分けるのは難しくコストがかかることから、簡単に見分けることのできる学歴で代用するのは当然の話である。

ただこれはすべての会社が学歴だけで人を採る時だけに成り立つ。どこかの会社が学歴だけではなくきちんと能力を見極めて採用すると、その会社はそれだけのコストをかけた見返りとしてそれぞれの学校での優秀な人材を集めることができる。そして学歴だけで採用する会社はその残りかすを採用することになってしまう。飛び抜けて優秀な人を採用する確率はゼロだが、飛び抜けて悪い生徒を採用してしまう確率は残る。だからどこの会社も横並びで学歴重視だった時代はそれでよかったが、今の時代に学歴で採用するのは会社にとってよくない。

年功序列もまた能力主義である。年功序列にするのは「同じ仕事を続けてやっていればそれだけ能力が高まる」という理由だからだ。職人が「この道○○年」と自慢するのと同じ理由である。問題は、仕事が昔と同じではなくなってしまった事だ。時代が変わって昔の常識が通用しなくなってしまっている。うどん一筋30年のうどん屋が急にラーメン屋に変わってしまったようなもので、30年のキャリアのほとんどは無駄になってしまう。

年功序列賃金制が問題なのではない。世の中が変わり仕事の内容も変わってしまっているのに、全然関係のない昔のキャリアを評価するのが間違いなのだ。会社の中でパソコンが重要な道具になったのならパソコンを使えない中高年がお荷物扱いされるのは当然のことだし、そういう人はパソコンを使えなくても困らない会社に移るべきだ。その方が双方幸せになる。


時として、仕事の質×量ではなく、労働者の能力そのものだけが評価される時がある。年俸制が顕著なものだが、サービス残業が常態化している場合もこれにあたる。あるいは残業の上限が決められていて、皆その上限いっぱいまで仕事をしている職場もそうだ。仕事の量が人によって変化しないので質だけで評価されることになる。

この評価形態は仕事の量の計測が難しい時に使われる。ホワイトカラーの職場では仕事をしている時と仕事をしていない時の区別が難しい。机に座って懸命に次の企画を考えている時も、今日の夕飯をどこで食べようかと考えている時も外からは見分けがつかない。専門雑誌を読んで情報収集をするのは仕事の一環だが、その中で仕事とは関係ない所ばかりを読んでいてもわからない。こんな調子で残業時間いっぱいまで仕事をせずに過ごした人に対して量を評価するのはよくない。

とすると仕事を質だけで判断するしかなくなるのだが、この評価形態ではいくら努力しても通常の方法では報われない。努力というのは残業をすることではなく、残業中に夕飯の事ではなく仕事の事を考えているということだからだ。これは客観的に証明することができない。だから労働の量を時間という客観的な量で評価するのではなく、人事考課の際に努力という形で定性的に評価するしかない。

これが一般に言われる「ホワイトカラーの能力主義」だ。本来評価されてしかるべき仕事の量が正しく評価されていない。そしてそれはホワイトカラーの仕事の性質上仕方のない事である。仕事の量は「能力」と名前を変えて評価される。すべての事項を「能力」という言葉に変えて定性的に評価するのが能力主義だ。

こう言ってしまうと、「能力主義」というのは実は何も言っていない事がわかる。「能力に対して報酬を支払う」というわけではなく「報酬に足る何かに能力という言葉をあてはめる」というだけだからだ。つまり能力主義というのは「労働者の給料は査定者が好きなように決める」というものだ。会社は労働者が提供する労務に見合った報酬を査定する事を放棄して、代わりにその人が会社にいる事によるメリットを考えてどのくらい出せばそのまま働いてくれるだろうかと考える。

努力主義では給料は会社側が一方的に決めていたが、能力主義では給料は交渉で決まる。労働者は「そんなに低い給料なら辞めるぞ」と脅しながら、自分をアピールして給料をつり上げていく。価格の正当性を保証するのは「自分が損をするのは自分の責任」という自己責任原則だけだ。そして、そこで決まった価格というのは労働者がその会社に勤め続ける事に対する対価であって、仕事に対する対価ではない。


能力主義までは建前上「やった仕事に対して報酬を支払う」という考え方だった。しかしホワイトカラーの仕事ではこの原則が崩壊した。「やった仕事」が客観的に評価できなくなったからである。仕事に対してではなく「その人がその会社に勤め続けること」に対する報酬になってしまった。そこで、「やった仕事」ではなく「やった仕事の結果」に対して報酬を支払うということにしたのが成果主義である。「やった仕事」と「やった仕事の結果」は比例関係はなく、同じように仕事をやっても確率的に成功したり失敗したりする。ここが能力主義と成果主義の大きな違いだ。

リスクプレミアムの考え方からすると、能力主義から成果主義に切り換えた場合、同じ結果ならば給料は上がらなければならない。なぜなら昔は会社が負っていたリスクを今度は社員が負うようになるからだ。社員がリスクを負う分、同じ結果ならより高い報酬をもらえなければならない。

そして、リスク分散の考え方からするとリスクは社員に負わせるより会社で負った方がよい。社員にとっては確率的に報酬がもらえなくなる事は大きなリスクであるからその分大きなプレミアムを要求する。それに対して会社ではそうしたリスクをいくつも一手に引き受けるおかげでリスク分散がなされるから社員よりプレミアムは低くてよい。

つまり、本来なら能力主義より成果主義の方が労務費が余計にかかるはずなのだ。リスクを不合理な方に負わせるからである。割増報酬という代償を払う代わりに、「やった仕事」という目に見えないものではなく「やった仕事の結果」という目に見えるものを評価すればよくなる。これが会社にとっての成果主義の本当のメリットだ。

能力主義と違って成果主義では賃金の評価は仕事が始まる前になされなければならない。そして労働者側に「提示された仕事をやらない」という選択肢を残しておかないといけない。そうしないと労働者側には「会社を辞める」という選択肢しか残らなくなってしまい、結果として「辞めずに働いてもらうにはいくら出せばいいか」という交渉になってしまう。これでは能力主義とまったく同じだ。「この仕事は割に合わないからやらない」と言われたら次の仕事を提示するくらいの余裕が必要だ。

成果主義ではこのように結果と賃金の関係が客観的に決まる。だから仕事が終わった後で賃金の問題になることはない。既に合意ができているはずだからだ。例えば「契約を○○件成立させたら○万円」と決められたら、どんな方法をとっても規定件数だけ契約すればよいのだし、規定件数に達しなかったらどんな言い訳もしてはいけない。例え契約を取れなかったのが同僚に手柄をすべて取られてしまったからだとしても、あるいは部下が怠け者で全然働かなかったからだとしても、それは自分の責任である。手柄を取られる方が悪いし部下を働かせられなかった方が悪い。それが「リスクを負う」ということである。それでは割に合わないと思ったら仕事が始まる前にそう言わなければならない。

成果主義では成果は客観的に判断できるものでなくてはならず、労働者はそれに対していかなる言い訳もしてはならない。文句は仕事の後ではなく、仕事の前に言わなければならない。つまりは、能力主義では価格決定が事後交渉であったのに対して、成果主義では価格は事前交渉であるというわけだ。普通に考えればサービスを提供した後で価格交渉というのはおかしな話である。その代わり、事前交渉で価格を決定すると見込み違いが生じる可能性がある。成果主義では見込み違いは労働者が負うリスクだ。


市場原理に基づいて賃金を適正な価格に持っていくには、まず雇用の流動化が必要である。会社と労働者の双方が相手を自由に選べる立場にあって始めて賃金は適正な価格に落ち着く。労働者は会社に対して愚痴を言うだけではなく実際に行動すべきだ。もし行動しないのならそこが適正価格だ。そうでなくては市場原理は働かない。

その上で、会社は仕事の種類によって賃金体系を決める。誰がやっても同じ仕事は努力主義にすべきだ。仕事をやっているのかサボっているのかが目に見えてわかるなら仕事の量と質に応じて賃金を払えばよい。しかし多くのホワイトカラー職場ではこうした客観的なものさしを用意することができない。

能力主義では評価は主観的なものであり給料は交渉で決まる。交渉というのは自己責任原則のもとではわかりやすくて公正なルールである。しかし多くの当事者は交渉の経験がなく、自分が損をするのが自分の責任になるのを嫌がった。そこで仕事の代わりに結果を客観的なものさしとしたのが成果主義である。

成果主義では仕事の客観的な条件とそれに対する報酬を事前に提示する。これによって人事考査は事後評価ではなく事前交渉になり、主観的な評価で紛糾することはなくなる。これが成果主義のメリットである。

今、成果主義を採り入れた企業の多くは失敗している。しかし、それらの企業は本当に成果主義になっていただろうか?そして、成果主義にした分の賃金上乗せを本当にしただろうか?理にかなった運用をしないなら失敗するのも当たり前だ。