利己主義のすすめ

利己主義は決して悪い事ではない。

今回は、人間は何を目指して行動しなくてはならないかという話をする。つまりは「何が良い事か」という話である。そして、ここで言いたいのは「利己主義でよい」という結論である。

偉そうな人がよく「利己主義ではよくない。利他主義でなくてはならない」と説教する。しかし、利他主義は不自然だ。それに対して利己主義は自然だ。そして利己主義はそんなに悪いポリシーではない。と、簡潔に言ってしまえばこういう事だ。

しかし、これは「自分勝手に何でもしていい」という事とは違う。それも利己主義だが、レベルの低い利己主義である。利己主義のレベルを上げよう。そうすれば問題は解決する。


まず、言葉の定義をきちんとしておこう。利己主義とは、自分の利益や幸福だけを追求すればよい、という態度のことだ。他人の利益や幸福はどうでもいい。自分さえ幸せになればよい。人間は自分が幸せになるように行動するべきだ、というのが「利己主義」あるいは「エゴイズム」の考え方だ。

それに対して「功利主義」というものがある。自分も含めた全員の利益や幸福を追求すべきだ、という態度のことだ。人間全員の利益や幸福を合計して、それが一番大きくなるように行動する、という行動指針である。「最大多数の最大幸福」とも呼ばれる。

一方、「利他主義」というのもある。これは、自分以外の他人の利益になる行動をすべきだ、という考え方だ。そして自分の利益は勘定に入れてはいけない。自分の利益は追求しないというのが「利他主義」の考え方だ。

なお、上に述べたように「主義」には3パターンある事に注意してもらいたい。「利己主義」でないからといって「利他主義」であるとは限らない。「功利主義」は日常ではあまり使わない言葉であるためつい忘れられがちになってしまうが、この3パターンの中では一番まともで「使える」主義だ。


さて、まず「利他主義」の問題点について話をする。利他主義というのは定義を見ると一番いい主義のように思えるが、実際には矛盾だらけだ。だから利他主義をとることはお勧めできない。

なぜ利他主義にしなければいけないのかを説明する事は不可能である。嘘だと思うならやってみるといい。私はまず「なぜ利他主義にしなければいけないのですか?」と質問する。そしてあなたが「○○だからです」と答えると、私は「なぜ○○だと利他主義にしなければいけないのですか?」と質問する。これはどこまでいってもキリのない質問だ。どこかに落着くことがあるだろうか?

「それは他人が幸せになると自分もうれしいからです」なんて発言をしてしまうと、そこで矛盾が露呈する。なんだ、「自分の幸せは勘定に入れず、他人の幸せだけを追求する」なんてかっこいい事を言っておきながら、実際は自分がうれしいからそうしているだけなんじゃないか。これは利他主義の皮をかぶった利己主義だ。

心理学に「共依存」という概念がある。(男女差別の話を抜きにして典型的に言えば)ギャンブルにはまるダメ夫とそれに献身的につくす妻の関係である。表面上はダメ夫はとにかくダメ人間で、妻は自分の利益を度外視して夫に尽す素晴らしい人間のように見られがちである。妻の行動は表面上は利他主義である。しかしここに大きな落し穴が待っている。

「共」依存と呼ばれるように、実際は妻の行動も十分利己的である。「何をやってもダメなわたし」が「素晴らしい人間」になれるチャンスだと思っている。必死に世話をすることで自分より夫の方がダメ人間だと証明したい。だから夫はギャンブルから足を洗ってくれるよりむしろこのままの方がいい。こんな考え方の「利他主義」はまがいものだ。

こんな考え方になってしまう原因は、「利己主義より利他主義の方がいい」「利他主義は素晴らしい」という考え方にある。もっと自分に素直になるべきだ。自分が本当は利己的ならば、非難されるのを恐れずに「自分は利己的だ」とはっきり言え。「自分は利他的だ」なんていう嘘を言ってはいけない。利己主義になるより、嘘つきになる方がずっと罪は重い。

もちろん本当に利他的な人だっているだろう。しかし人は「利他主義になれ」と言われても利他主義にはなれない。なる理由がないからだ。あなたが利他主義であるのはいっこうにかまわないが、それを自慢したり人に勧めたりするのはエセ利他主義だ。


利他主義が不自然なのに対して、利己主義は自然だ。「なぜ利己主義なんですか?」と聞かれたら、「俺は幸せになりたいからだ」というのが答えだ。誰でも幸せになりたい。これは実のところトートロジーだ。幸せというのは誰もがそうなりたいと思う状態のことだからだ。要するに、「俺は俺のやりたいようにやる」というのが利己主義である。これを理解するのに理由はいらないだろう。

利己的な行動をとりたいのは理由なくわかる。しかし問題なのは「利己的な態度をとるべきだ」という主張である。つまり、「人はそれぞれ自分勝手に自分のやりたいようにやるべきであり、やりたくない事はすべきでない」という主張である。これが「利己主義」だ。こんな自分勝手な論理を推奨するこのコラムはいったい何だ!?と憤慨する人がいても無理はない。

しかしちょっと待ってほしい。この論理にはキーポイントがある。それは「やりたい事」とは何だろうか?という問いである。もしあなたがこの世界で何でも好きな事ができるとしたら、あなたは何をするか?

この問いに答える時には、倫理的側面は除外してほしい。つまり「それは良い行いだからそれをしたいのだ」という答はしてほしくない。今はそもそも「良い行いとは何か」という話をしているのだから。しかし、それ以外の側面はすべて残しておいてほしい。例えば「銀行強盗をしたい」という答えは(倫理的側面は除外して考えるので)結構なことだが、警察に追い回されるのは覚悟の上で、ということになる。会社をサボって遊び歩きたいいうのも結構だが、その後解雇されても知らない。彼女とのデートの約束に遅れるのはかまわないが、その結果嫌われても知らない。

このように考えると、社会的なルールを守らないのは損であり、例え「やりたい事は何だってしてもいい」という利己主義者でもルールを破る事はしない。「してはいけない」ではなく「しない」という点に注意してほしい。目先の利益だけを求めてルールを破るのはバカな利己主義だ。利口な利己主義者ならば、自分勝手に振る舞った結果は予想できる。そしてその結果他人に迷惑をかければ、それは回り回って自分の不利益になることは予想できる。だから他人の利益もちゃんと考えて行動する。それは結果として「自分も含めたみんなの利益を求めて行動する」という功利主義に行き着く。

しかし、「じゃあ、不利益を被る事がなければルールを破ってもいいのか」という問いが出てくるだろう。泥棒をしても見つからなければいいのか?この疑問に対して利己主義者はこう結論を出す。「見つかる確率はゼロではない。泥棒をして見つからなかった場合の儲けはたかだか数十万円にすぎないが、もし見つかったらどうなる?そんな危険を犯すくらいならやらない方がいい」と。そして見つかる確率と危険性が本当に許容範囲内の場合、例えば道端に落ちている10円玉は着服しても罪の意識はなく、逆にいい事をしたと喜ぶ。「法律を破ったのに罪の意識がまるでない」と非難することもできるが、逆に実践的で私には好感が持てる。


利他主義になろうとするのはやめよう。利他主義はなろうとしてなれるものではないし、なったからといって偉いわけでもなんでもない。そして利他主義になったとたん、自分の幸せを自分でつかみ取ることはできなくなってしまうのだ。そんな不幸な主義になりたくはないだろう。「利他主義にならなければならない」なんて説教をする奴はエセ利他主義だ。そいつは実は利己主義で、人をだまして利他主義にさせる事で自分は得をしようと思っているのだ。

利己主義というのはその定義の見かけほど悪いポリシーではない。直感的だし、基準もはっきりしていて、しかもちゃんと考えて行動すればそれは自分の利益だけでなくみんなの利益にもなる。もちろん「ちゃんと考える」というのはまた難しいわけだが、少なくとも考える土台はあるわけだからまだましだ。だから堂々と「自分は利己主義だ」と言おう。

ただし、バカな利己主義になってはいけない。利己主義は好き勝手に振舞えばいいように見えて結構難しい。その時その時に応じて、目先の利益ではなく後々の事も考えながら何が得かを考えないといけないのだ。考える手間を惜しまず、利口な利己主義になろう。

究極の利己主義というのは、孔子のいう「心の欲する所に従えど矩を越えず」であろう。自分のやりたいようにやって、それでいて人の迷惑にはならない。なんだか悟りきった仙人の境地のようにも見えるが、案外難しい事でもない。自分一人だけ幸せであるより、みんなで幸せな方がうれしい。ただそれだけのことだ。