多数決

多数決で決めるべきでない事

なぜか世の中では多数決で決めるのが正しいという事になっている。意見が割れた時に多数決で決着をつける事が多い。もちろんあの委員会の事を言っているのである。

結論から言うと、多数決で決めればよい会議もあるが、多数決を取るべきでない会議も存在する。「なんでもかんでも多数決で決めるのが民主的で正しい」という意見が間違っているのだ。


多数決はよく「数の暴力」と言われる。賛成する人さえ多ければ何でも正しいことになってしまうからだ。そういうプロセスで生まれたのが魔女狩りでありヒトラーである。

多数決を取る際に忘れ去られがちなのは、「答えは一つ」だということだ。「道路を造るべきか造らざるべきだ」という問題に対して、解答は「造るべき」か「造らざるべき」かのどちらかなのだ。それは委員会がああだこうだと議論をする前に決まっている。もし未来が見通せる予知能力のある人がいれば、「造った場合はこうなり造らなかった場合はこうなる、だからどちらの方がいい」と結論を出すことができるだろう。問題が紛糾するのは人間には予知できないからであり、例え予知できたとしても2つの可能な未来に対して結論を出すことができないからだろう。

つまり、問題を議論する際にはプロセスが2つある。「道路を造ったらどうなり造らなかったらどうなるか」という正しい予測をするのが第一のプロセスであり、それに対してどっちの方がいいかを判断するのが第二のプロセスである。そして第一のプロセスでは答えは一つしかない。もし予知能力のある人が一人いれば議論の余地のない問題なのだ。そして、第二のプロセスである「どちらを取るか」という問題ではじめて多数決が出てくるべきなのである。

ただ、その「どちらを取るか」という問題もさらに二つのプロセスにわかれる。第一に評価関数を決め、第二にそれを最大化するような解を求めるというプロセスである。評価関数とはつまり「どのようなファクターにどれくらいの重点を置くか」ということであり、例えば「財政再建優先」と「地元の利益優先」という相反する項目のどれを優先するかということである。そしてその優先度が決まれば「こうすればいい」というのは(委員が優秀であれば)一意に決まる。だから、多数決が必要な主観的な決定といえばプロセス2-1、つまり「どのファクターにどれくらいの重点を置くか」という事だけなのである。


この点について多くの人が間違いを犯す。多数決で決められるべきは主観的な決定だけなのに、客観的な事実に対して多数決を取ろうとする。「世の中のほとんどの人はその説がでたらめだと言っている」というように。いくらほとんどの人がでたらめだと思っていても、正しい説は正しいのだ。これはガリレオなどの例を借りることなく、いくらでも思い当たるフシはあるだろう。

ただ、これを逆手にとって「○○学会の教授がみんなでたらめだと思っているが、彼らは皆間違っている」という人もある。これもほとんどの場合間違いである。なぜなら、○○学会の教授のほとんどはその問題について詳しく研究をしており、その気になればちゃんとした論理で反駁することができるからである。彼らは忙しくてそんなバカバカしい説を相手にしてはいられないだけなのだ。

それに、おそらくそういう人達は多数決でもって事を解決しようとはしないだろう。まずは説得してみるだろうし、論理に基づいた説明を始めるだろう。それに聞く耳を持たず議事進行がどうにもならなくなったときに初めて、そこに参加するほとんどの人が良識のある人であることを期待して多数決を提案するのだ。つまり、多数決とは「一部のどうしようもない人を説得するための最後の手段」なのである。

だから、もしその人の説が議論の価値もないでたらめでない限り、そしてそれを唱えた人が聞く耳を持っている限り、事実認識について多数決をとってはいけない。いくら自分がその説に賛成したくとも、データや論理展開が正しいものでない限り「正しい」と言ってはいけないのだ。そしていくらその説を皆が支持していたとしても、それだけでは正しい理由にはならないのだ。ちゃんと正しい理由を述べなくてはならない。そしてそうやって正しい論理展開のもとに結論を述べられてもまだ納得できない人は、本来その議論に加わってはいけない。しかしもしそんな人がいたとしたら、その人を多数決の論理によってつまみ出すのだ。


さて、まとめてみよう。「どうしたいか?」という問いには多数決が有効であるが、「事実はいったいどうであるか?」という問いには有効ではない。事実を分析したいのなら多数決ではなく論理によるべきだ。そして論理による以上、理解力のある人ならだれでも同じ結論に導かれなくてはならない。もしそうした理解力のない人が議論の場に混じってしまった場合には、それを排除するには多数決の力を借りなくてはならないだろう。しかしそうなる前に論戦が必要だし、その論戦で相手の理解力は推しはかることができる。多数決は正しい事を押し通すためのものではなく相手の理解力がない事を認定するためのものであるのだから、それを使うのは慎重であるべきだ。

論戦をせずにすぐ多数決をとるのは一種の「逃げ」だ。そしてそれは多数派の数の暴力である。論戦をしないのはきっと戦うとボロが出るからだろう。「論議を尽くす」のにはかなりのエネルギーがいるものだが、それを嫌がって安易に多数決に逃げ込んではならない。

「多数派だからこの説は正しい」というのは間違っている。そしてもちろん「少数派だからこの説は正しい」というのも間違っている。こうした事はおおかた思考能力のない人間が言うことだ。こういう人達は説の正しさと賛成の人数は無関係であることがわかっていないのだ。