理系と文系

理系と文系ってよく使うけど、実体は何なんだろう?

普段、なんの気なしに人を「理系」「文系」の二つにタイプ分けする。自分は理系だ、とか、あいつはこてこての文系だ、と言ったりする。じゃあ、「理系」「文系」って何なのだろう?あらかじめ言っておきますが「理系の大学(学科)に通っている人」「文系の大学(学科)に通っている人」ってのはバツですからね。

一番ひどい答えが「論理的思考ができる人が理系、できない人が文系」というものである。要するに「文系はバカ」と言いたいわけ?「机の上で理論ばっかりこねくり回す、いわゆるネクラが理系で、対人交渉がうまくて明るい性格なのが文系」なんてのも人をバカにしている。この定義では太宰治にかぶれるような文学青年は完全に理系ですな。

「数学ができる人は理系、国語ができる人は文系」ってのもちょっと待ったをかけたい。この定義ではパターンの半分しか網羅されていない。両方できる人や両方できない人はどうするんだ。二つを比べてどっちができるかで判断する、だって?じゃあ、なんで数学と国語を比べるんだ?数学と国語を比べて意味があるのは、理系の本質は数学に、文系の本質は国語に含まれているという場合のみだ。果たしてそうなのだろうか?

こういう話をすると、「そんなのどっちだっていいじゃないか。そういう重箱の隅をつつくような話をしたがるお前は完璧に理系人間だな。俺は文系人間だから、そういう話はパス。」と言う奴がいる。そいつは文系人間なんかじゃない。ただのバカだ。


一番最初に言いたかったのは、世の中の定義を当てはめると大抵「文系はバカ」の図式が出来上がってしまうということだ。これでは文系の教科の先生の立つ瀬がない。「理論や考察にこだわるのは理系人間で、文系人間はそんなことはしない」か?経済学なんかの大学の先生に聞いてみよう。「あなたは理論や考察は苦手ですか?」と。怒られる事間違いない。

学問というものはすべからく「理論や考察」で出来ているのである。もちろん、「理論や考察が得意な人が理系、直感的な思考が得意な人は文系」と分けるのはいい。しかし、その場合には一つ条件がある。文系の人は大学へなんて行くな。お前には学問をやる資格はない。


さて、もうちょっとまともそうな分類に、「右脳型と左脳型」で分けるという方法がある。直観や感性をつかさどり、イメージを処理する右脳と、言語や分析をつかさどり、論理を処理する左脳。どちらの働きが強いかで文系と理系を分ける、というものだ。

さて、納得していただけたであろうか?では、右脳と左脳、どちらが理系でどちらが文系なのだろう?

右脳が文系で左脳が理系?ほう、なるほど。世の中のイメージと合っているようではある。すると、こういうことかな?図形を対象とする幾何学は文系で、言葉を対象とする国語は理系だと。空間把握能力が必要な機械の3次元設計は文系の仕事で、計算の必要なマネージメントは理系の仕事だと。どうもこの分類は納得できるようでいて何かおかしい。

イメージと言葉、あるいは目と耳。これはギリシャ哲学とキリスト教哲学の違いでもある。さて、どちらが理系でどちらが文系なのだろうか?なんとなくギリシャ哲学が理系で、キリスト教哲学が文系のような気がするんじゃないだろうか。でも、ギリシャ哲学では「この目で観察できたものこそが正しい」で、キリスト教哲学では「神の言葉こそが正しい」。前者が右脳的哲学であるのに対して、後者は左脳的な哲学である。


さて、風呂敷を広げたところで、ここいらでたたまずに逃げるとしよう。

結論。文系と理系の区別はきっとある。しかし、文系教科(国語や社会)と理系教科(数学や理科)をそれに当てはめるのはおかしい。そして、そういった事を考えずに、「私、文系だから難しい話は苦手〜」なんて言う奴がいるうちは、「バカなのが文系、頭がいいのは理系」という定義にすべし。