軟弱なゲーム

辛口のゲームが少なくなったとお嘆きの貴兄に

最近、テレビゲームの世界に硬派なゲームが少なくなった。特にコンシューマ(家庭用ゲーム機のこと)の世界で顕著だ。「ゲームの市場が広がり、ライトゲーマーの市場が大きくなったから」というのが一般的な説明ではあるが、これにはどうも首をひねる。硬派なゲームの「割合」が減ったのではなく、硬派なゲームの「絶対数」が減っているように感じるからだ。コアゲーマーの市場も依然としてあるはずなのに。

先に打ち明け話をしておくと、こんな事を書こうと思ったのは、先日DC版の「ジェットセットラジオ」を(今さら)やってみたからだ。こんな素晴しいゲームに今まで手をつけてなかったのは何たることだ、と自分で思った。そして、次に思ったのは「そういえばこんな気持ちにさせてくれるゲームって久しくなかったなぁ」ということである。


ここで今さら私が「ジェットセットラジオ」の魅力について語るつもりはない。先人達が自分のホームページでさんざん素晴らしさについて語っているので、検索エンジンなどで探して見てほしい。今回ここで話したいのは、こんないいゲームがあまり売れないという問題点だ。続編「ジェットセットラジオフューチャー」がXBoxと同時発売で出たにもかかわらず、世間ではその噂はとんと聞かない。もちろんXBoxが売れなかったというのもあるだろうが、それにしてもデッドオアアライブ3の噂よりはずっと聞こえてきてもいいはずなのに。

しかし、このゲームをプレイしたことのある人は一様に「これは一般受けはしないだろうな」との感想を持ったことだろう。ゲームシステム、グラフィック、サウンド、操作感などどれをとっても超一流だ。しかしこのゲームについて誰もが最後に付け加えるのが「だけど難易度は高め」という一言である。

私は、このゲームは「難易度が高めだということをわかっていて妥協せずにがんばっているな」と、(勝手な思い込みかもしれないが)感心している。このゲームの素晴しい所は、難易度が高いからといって壁を低くせず、かわりに「その先の世界」を見せているところだ。私もこのゲームをやってみて最初は操作に全然慣れなかったし、このゲームの売りものであるスピード感なんて味わう余地はまるでなかった。それでも期待を持ち続けたまま「操作に慣れる」という地道な作業を続けられたのは、ステージを見ると「ああここは本当なら猛スピードで滑り抜けられるんだろうな」とか「ここは滑りながら障害物は全部ジャンプでかわすんだろうな」と、本来のスピード感のあるプレイが想像できたからだ。だから、アクションゲームがまったく初めての人だったら、もしかしたらそういう想像すらできなくて、それでやめてしまうのかもしれない。

私も最初はひいこら言いながら一面ずつ苦労してクリアしていた。追いかけっこの面では少し投げ出したくもなった。でもほとんど偶然で何とかクリアし、やっと全面クリアしてエンディングへとたどりついた。そうしたらスタッフロールが出てきて、さりげなく2周目が始まった。「2周エンドかな?」と思いつつ2周目も始めてみた。今回は前回のように苦労することなくわりとあっさりとクリアできた。そうしたら今度は何の変化もなく3周目に突入した。このあたりでようやくこのゲームが理解できた。このゲームは全面クリアしたら終わりなゲームではなく、一日一周するゲームだったのだ。あんなにひいこら言いながらクリアした面が余裕でさくさくクリアできるこの爽快感!

そしてようやくこのゲームの本当の姿が見えてきた。このゲームは「街を走り回って落書きをするゲーム」ではない。「街の至る所に存在するカドで滑りまくるゲーム」だったのだ。最初のころは敵の鬼島警部の攻撃がキツかったのが、背中に落書きするマトにしか見えなくなってくる。そしてその状態でステージを見渡してみると、このステージはそうした「操作に慣れた」状態を前提にして作ってあることがわかる。「全面が楽にクリアできるようになったら終わり」ではなく、そこからやっと本当のジェットセットラジオが始まるのだ。


同じような感覚は昔「バーチャファイター」で味わった覚えがある。残念ながらバーチャファイターはそこまでやり込んではいなかったが、でも「その先」は見えたような気になった。

バーチャファイターでは主にジェフリーを使っていた。ジェフリーといえば何といってもスプラッシュマウンテンである。対戦モードで動かない2Pを相手に一生懸命スプラッシュマウンテンのコマンドを入れる練習をしたものだ。そしてコンピュータ対戦ではなんとかクリアできるようになった。

残念ながら、そこまで練習したにもかかわらず、友人のラウにはまったく歯がたたなかった。相手の繰り出すPPPK攻撃だけでどんどん押されていってしまう。しかしまぐれで相手の最後の上段蹴りをしゃがんで避けてそこにスプラッシュマウンテンが決まった。かっこよかったし、これだ! と思った。それがわかってから見てみると、相手の攻撃には何ともスキが多いことがわかった。そしてそこですべてスプラッシュマウンテンを決められれば楽勝で勝てそうだ。残念ながら私の腕はそこまで良いわけではなく、いつもコマンド入力に失敗して負けていた。

「バーチャファイター」において、コマンド入力というのは「いついかなる時でもできて当たり前」であって、そこから先の読み合いとか戦略が勝負なのだろう、と「その先の世界」を見たような気がした。「コンピュータなんて弱すぎてお話にならない」という状態になってはじめて「バーチャファイターの世界」に入ることができるのだ。


こういう「複雑な操作が確実にできるようになって、さらにその先が勝負」というゲームはコンシューマでは減りつつある。複雑な操作が修得できない時点で皆やめてしまうのだ。それが自分に楽にできない時点で「クソゲー」の烙印を押してしまう。

こうしたゲームの批評を見てみると、「難易度が高くてストレスを感じる」とよく言われている。ジェットセットラジオでは「相手の背中にグラフティを書け!」の面で誰もが感じるだろう。確かにストレスを感じた。それは認める。

「遊ぶ人にストレスを感じさせてはいけない」「なぜわざわざストレスを感じてまでゲームをするのか?」というのは正論かもしれない。しかし、ストレスってそんなに良くないものだろうか?乗り越えるべき壁があって、さんざんストレスを感じながらそれを乗り越える達成感というものがあってもいいのではないか?というより、それこそがゲームなのではないか?

いいゲームには「その先の世界」がある。そしてそこに到達するには「壁」がある。もちろん壁が低くてだれにでも越えられるようならいいのだが、そんな低い壁の向こうに「その先の世界」を作るなんてできっこない。高い壁であればあるほど、それを乗り越えた先に次元の違う世界が待っている。


最近、壁をなくすことにこだわって「次の世界」がないゲームが多すぎやしないだろうかと思う。そしてそれは壁を乗り越えられないライトゲーマーの責任でもあるし、そういうゲーマーを過保護にしたメーカーの責任でもある。

実はこれは一つのゲームの寿命を短くして粗製乱造でたくさん売ろうというゲームメーカーの策略なのではないかと危惧しているのだが……。「悪貨は良貨を駆逐する」ように、それで痛手を被るのは良質のゲームなのである。