価値相対主義

どんな規則にも例外はある、けど……

「価値相対主義」とは「絶対に正しいという事柄は存在しない」という考え方である。今回のコラムは「日本人は価値相対主義が多すぎやしないか?」という話である。

価値相対主義はよく宗教や倫理の話で論じられる。「絶対的な正義はあるのか?」とか「キリスト教だけが正しいと言えるのか?」といった問題である。しかし今回はこうした問題には触れない。今回触れるのは、こうした主義を議論の場に持ち込む困った輩のことである。

例えば「インドの人々は貧しい」と言ったとする。するとこう反論される。「いや、インドには富豪だってたくさんいる」と。そして「インドには富豪だっているし貧しい人だっている」という結論に落ち着いてしまう。そんなの当たり前だ。これで結局何が言いたいんだ?


他の文章を見ていただければわかるように、筆者はよく「○○は××だ」と言いきる。するとだれかから「そんな事は一概に言えるのか?例外だってあるだろう」とお叱りを受ける。こういう人は「例外」の言葉の意味がわかっていないに違いない。辞書を引くと、例外とは「普通の例からはずれていて、原則にあてはまらないこと」である。筆者が「○○は××だ」と原則を述べると、それに「例外がある」と言う。自ら「例外」と言うということは、それが原則にのっとっていないと認めているということだ。

多くの人は「価値相対主義は正しい」と信じているようだ。言い換えれば「絶対的に正しいという事は何一つない」と信じている。こう書くと多くの人は「その通りだ」と納得するのではないか?しかしこれには大きな矛盾がある。「絶対的に正しいという事は何一つない」という事が絶対的に正しいと信じている、なんてばかげた話があるだろうか?

はっきり言おう。「価値相対主義が正しい」というのは自己矛盾である。世の中には「絶対的に正しい」事も「絶対的に正しいという事はない」事もある。


ではなぜ「価値相対主義」などという詭弁を議論の場で持ち出すのだろうか。それは、価値相対主義を貫いている限り「間違える」ということがあり得ないからである。自分の意見が間違っていると言われる事がないのである。

これは答案の間違い探しをする教育制度や、失敗を認めない社会の風潮に関連があるのかもしれない。「間違いがあってはいけない」という認識があるから、絶対に間違うことのない価値相対主義に皆が飛びつくのだ。しかし価値相対主義では間違う事がない代わりに正解する事もない。なぜなら「正解はない」と言っているのだから。

こう書くと「間違いはいい事だ」と勘違いする人がいるので念のため書いておく。間違いは良くない事である。これは言葉の定義上当たり前の事だ。「間違っててもいい。正解でもいい。要するに何でもいい」というのはまた別の価値相対主義である。


この問題の本質は「すべての事は正解と間違いのどちらかだ」という二分法の問題である。「あなたの言う事は完全に正しいというわけではない」という言葉を「あなたの言う事は間違っている」という意味にとるから悪いのだ。完全に正しいものだけを正解と呼び、正解以外を全部間違っていると呼ぶのなら「完全に正しいという事は何一つない」と言いたくなる。

実際には「だいたい正しい答え」でほとんどの場合は間に合う。答えが完璧である必要はなく、役に立てばいいのだ。答えには例外があっていい。問題を理解する役に立てばそれでよく、例外は例外でまた別個に考えればいい。

「インドの人々は貧しい」と言ったとして「いや、富豪だってたくさんいる」と言われた時は、自分の意見は否定されたわけでもないし相手の(ある意味正しい)意見を合わせて「いろんな人がいる」と結論づける必要もない。自分がなぜ「インドの人々は貧しい」と言ったのかを説明するべきだ。その結果相手の反論が当たっていれば受け入れればいいし、的外れだったら的外れだと言えばいい。