現実を直視するということ

「現実から目をそむけてはいけない」か

今日は柄にもなくしんみりといきます。

今、私の机の上には熊のプーさんの小さなぬいぐるみがあります。UFOキャッチャーなんかに入っているやつです。これはゲーセンでとある大会の景品にもらいました。別に欲しかったわけでもなんでもなく単にタダでくれたからもらっただけなのですが、よく見てみるとなかなか可愛らしい顔をしています。

タグには中国製とありました。縫い目も結構多く複雑なつくりです。プラモデルと違ってぬいぐるみは機械では作れないはずですから、きっと中国の人が一生懸命縫って作ったのでしょう。彼らはこれを作っていったいいくらもらっているんだろう、と考えました。少ない給金で必死になって作ったであろうぬいぐるみは、タダだったからというだけの理由で何の気なしに私の家に来たのです。

プーさんのどことなくうつろな目は私に訴えているのでしょう。「一生懸命作られたんだから僕を可愛がってね」でしょうか。それとも……


テレビでは時々アフガンなどの貧しい国々の悲惨な生活が放映されます。私はこういう番組が大の苦手です。あんな風景を、テレビのこちら側でのん気に寝転がって見られないのです。悲惨な生活だなんてことはテレビを見なくてもわかってます。そして、どのくらい悲惨かという事はテレビを見たくらいではさっぱりわからないだろうこともわかってます。だからこそ苦手なのです。こうした番組を見るといわれのない罪悪感にとらわれます。「俺たちはこんなに悲惨な生活をしているのに、お前たちはのうのうとテレビを見てやがる」そんな恨みのパワーが画面を通じてこちらにやってくるような気がするのです。

日本で起きた凶悪事件も同じです。無差別連続殺人事件とか長期間の監禁事件のニュースを見ていると、被害者の悲しさと犯人への怒りでしばらくやりきれない気分になってしまいます。そのすぐ後に天気予報で快晴のお花畑などを見ても全然癒されません。

自分よりずっと不幸な人がたくさんいるのに、自分はその人達に何もしてやれません。いや、それは間違いです。何もしないのです。今すぐアフガンに飛んでいって自分の全財産をばらまくとか、やれることはいくらでもあるはずです。困っている人を目の前にして、何もしないでただ見ているだけなのです。


昔、友達とこんな話をしたことがあります。「全員が幸せな天国で暮らすのと、地獄の看守となって自分以外が全員不幸な中で自分だけが何一つ不自由なく暮らすのとどっちがいいか?」と。私は断然前者ですが、後者の方がいいという人もいました。理由は納得できます。皆が自分と同じくらい幸せだったら、幸せだという実感がわかないのではないか、と。現に今の日本なんてそうでしょう。皆これほど幸せだというのに不幸だ不幸だと言う人が絶えません。

他人の不幸をただ見ていることができる人はきっと後者のタイプの人でしょう。そういう人は言います。「アフリカの難民の現状を直視せよ」と。私はそんな人に言いたいのです。「あなたはこの現状を直視できますか?」と。私にはあなたみたいに惨状を平然と見ていることはできません。そして、結局のところ私達はそれを見ていることしかできないのです。だからお笑いバラエティー番組に逃げ込むのです。

「厳しい現実から目をそむけるな」と人は言います。しかし時にはずっと見ていられる方が異常だと思えるほど厳しい現実もあります。きっと目だけは向いていても見えてはいないのではないかと。そして厳しい現実に目を向けたという事実だけで満足しているのではないかと。理由はどうあれ結局のところは他人の不幸を見て満足しているのです。

そういう現実を見て「ああ、世の中には不幸な人もいるんだなぁ」で終われる人は、目だけ向けて見ないということができる人です。それができない人は目をそむけるしかありません。結局のところ誰も現実を直視するなんてできっこないのです。