正論と論理の飛躍

結論が正しいように見えても、論理展開が間違っているならその意見は間違っ ている。

(2021/5/30追記:内容を一部訂正しました)


新聞の論説記事を見ていると、時々論理の飛躍が目につくことがある。ほとんどの場合、それは「世間で正しいとされる」説を唱えるために使用される。結論が「世間で正しいとされている」ため、いくらそこに論理展開の飛躍があってもなかなか表立って批判はできないものである。そしてそこにその筆者の傲慢がある。ここでいくつか例を挙げてみよう。


「女性のための理科系学校をつくるべきだ」という意見で、こんな論理展開を見たことがある。

女性は理科系の能力について男性より劣っているという社会認識がありますが、それは間違いです。女性は数学が苦手だというのは社会がそう仕向けるからで、実際には女性の優秀な数学者や科学者もいっぱいいます。女性はむしろ男性より科学に向いているとさえいえるでしょう。だから女子大に理系学部を増やすとか、理工系大学に女性が入りやすいようにするといった方策が必要なのです。

結論について私はとやかく言うつもりはない。その通りだ。しかし、そこに至る論理展開はでたらめだ。

女性の優秀な数学者がいたからといって、それは論の補強には何の役にもたたない。男性の優秀な数学者もいるからだ。この事から言えるのは「すべての女性が数学が苦手なわけではない」というだけで、それは万人が認めるところであろう。

そして、これが一番大きな問題だと思うのが、「女性は男性と数学の能力は同等あるいは優れているから女性のための学校が必要」という論理展開である。ではもし女性が劣っていたら女性のための学校は不要だというのか?そんなわけはなかろう。女性が優れていようと劣っていようと、女性が困っているのなら学校はつくるべきだ。

この論は自分の望む結論を主張するのに、なぜか「女性は優秀かどうか」などというどうでもいい事にこだわっている。まったく近視眼的としか言いようがない。


まったく別の話になるが、次は「学校に行け」という話だ。

世界には、学校に行きたくても行けず、大人と同じように働かなくてはならない子供達がたくさんいる。そうした子供達は一番欲しいものを聞かれると「学校に行きたい」と言う。登校拒否の子供達に世界の苛酷な状況を見せてやりたい。

一見正論のように見える。しかし一つ大きな論理展開の無理がある。というより、論になっていないところだ。

「学校に行きたい」と言っている子供と登校拒否の子供とは無関係だ。正しい論理展開で行くならば、「登校拒否の子供の代わりに学校に行きたい子を行かせてやってほしい」というものであろう。貧しい世界の子供達が学校に行きたいと思ったって、自分は行きたくないと思ってもいいはずである。

上の論理を一般化してみよう。「世の中には○○したいと思っていてもできない人がたくさんいる。なのにお前は今○○をしっかりやろうとしない。もっと○○するべきだ。」と。「勉強」の他に「残さず食べる」を当てはめる人もたくさんいる。この論理の問題点は○○に何を入れてもいいということだ。もし一番欲しいものはと聞かれて「テレビゲーム」と答えたのなら、もっとテレビゲームをやれという結論になってしまう。

念のため言っておこう。貧しい世界の子供達が「学校へ行きたい」と言うか「テレビゲームをしたい」と言うかが問題なのではない。彼らがどう言おうと日本の子供達とは無関係なのである。それに勝手に関係付けをする所に詭弁がある。


環境保護運動の一環として「絶滅寸前の○○を守れ」といった運動が展開されることがある。山林やダムの開発反対であることが多い。そして開発推進派とよく問題になる。

開発推進派の意見はある意味まっとうだ。「俺の山を崩してなにが悪い」。それに対して「この山は貴重なオオタカが棲んでいます。山を崩してしまうと、彼らは絶滅に追いやられてしまいます。だからこの山はこのまま残しておくべきです」と言う。

一つ論理の飛躍があるのにお気づきだろうか。「オオタカが絶滅してしまうから山は残すべきだ」という論理である。なぜオオタカが絶滅してはいけないのか?俺はオオタカなんかどうなろうと知ったこっちゃない。人間は天然痘ウィルスだって絶滅に追いやったじゃないか。だったらオオタカだけなぜ保護されなくてはいけないのか?

「あなたはオオタカが絶滅してもいいと言うんですか!」と激しい口調で言われたら、賛成派は一言「いい」と言おう。それだけで相手の論理は総崩れになる。それにもめげず「なぜオオタカが絶滅してはいけないか」をちゃんと言える人となら論議をしてどこかに結論を見い出すことができるだろう。


以上の3つのケースに共通するのは、言いたい結論がまず先にあってそこに理屈を当てはめようとしていることだ。それは間違っている。様々な論を展開していって最後に結論を考えるという順番でないとおかしい。

どのケースもどこかに身勝手な仮定を置いて、それをベースに論理を展開している。だから、その身勝手な仮定を否定されると論理はがらがらと音を立てて崩れてしまう。そういう人は結局のところ自分の感情的な意見を叫んでいただけにすぎないのだ。「考える」ということをしていない。

まず問題について固定観念を除いて「考える」ことが大切である。