仮想的な価値

それが良い物なのであれば一番でなくてもいいが、そういうものはたいてい一番になってしまうのだ。

以前、事業仕訳で蓮舫の「なぜ一番でなくてはならないのか」という質問が話題になったことがあった。日本人はどうも、この手の質問に弱い人が多いように思う。

価値基準を決めたらそれに盲目的に追従してしまう人が多く、価値基準自体を設定したり見直したりすることが得意ではない。言い換えると、対象自体に価値があって、それを適切な基準で評価するという考え方ではなく、まず基準があって、それで評価されたものが価値なのだと考えてしまう。だから、ある価値基準が設定されると、それを追求することに本当に意味があるのかどうかを考えずに、とにかくそれを追求することが是なんだと考えて、そこに突っ走ってしまう。


英語には、"one of the most ~"という言い回しがある。これを日本語に訳すと「一番~なものの中の一つ」という言い方になってしまって、「一番のものがたくさんあるのか」とツッコミを入れられることになってしまう。

どんな微妙な差であれ、少しでも前に出ている人1人だけが「一番」と呼ばれる。しかし実際には、微妙な差での一番にはあまり意味はなく、いわゆる「トップグループ」に入っていればいいのだ。「一番~なものの中の一つ」という言い回しを「その分野でトップグループなもののうちの一つ」だと考えれば、特におかしなことはない。

「トップグループ」というのは、絶対評価である。日本人には、この絶対評価が苦手な人が多い。まあ、日本人でなくても、絶対評価より相対評価の方が簡単だから、単に絶対評価が苦手だというだけなら不思議はない。問題は、「相対評価よりは絶対評価にすべきだ」という考え方自体を持っていないということだ。絶対評価の必要性に対する認識がなく、相対的な比較だけで十分だと思っている。

もう少し正確に言うと、日本人はもともと、この問題を「中庸」という方法で補ってきた。相対評価のままで、ただし評価が上の物は逆に異常値として排除の対象となる。言い換えると、相対評価が上すぎる物は、評価基準以外に本当は必要なものを切り捨ててしまっているに違いないと推定するということだ。相対評価でトップを目指すのではなく、相対評価は人並みでありさえすればよいと考える。逆に言えば、相対評価というのは基準値以下のものを見つけるためにだけ使うべきで、上の方を見るのに使うべきではないということだ。上の方を見るには、数値評価ではなく、総合的な評価でなくてはならない、と考える。


欧米流の思想では、総合的に見て考えた結果をなんとか数値にするのだと考える。もちろん、「総合的に優劣を測る評価基準」なんてものは存在しないことは十分わかっている。しかしそれでも、比較検討するには数値化するしか方法はない。他の要素を一切無視してある特定の評価基準だけが良くなるような物が出てきたら、それが切り捨てている「他の要素」も評価基準に追加すればいい。それを繰り返せば、その評価基準がだんだん「総合的に優劣を測る評価基準」に近づいてくる。

この前提に立つと、ある評価基準に特化しようとする場合は、評価基準が変わった時にその苦労が水の泡になる可能性を常に心配しなくてはならない。それが嫌なら、評価基準にとらわれずに総合的な価値を目指すべきだ。本当の意味で価値が高いのであれば、評価基準は後からついてくる。そう考えるのだ。

この話で言うと、日本人は伝統的に、評価基準は変化せず、後からついてくることもないと考える。すべての要素を加味した究極の評価基準などというものは作れるはずがないから、そもそも作ろうとしない。評価基準というものはいい加減なもので実質的な意味はほとんどないが、どうしようもないものを落とすためにはそこそこ役に立つ。良いものは、数値に頼らず、自分の眼と心で評価すべきなのだと考える。本当に良いものを見分けるのはなかなか難しいが、どうしようもなくダメなものを見分けるのは簡単だから、実態に合わない評価基準でもそんなに問題にはならない。

たとえば、音楽のデジタル配信がこれだけ普及した現在に、CDの売上ランキングを発表する。本来なら、デジタル配信の分を増やし、同じCDを何枚も買う人の分を減らすことで、本当の意味で売れた音楽を表すランキング指標をつくるべきだ。しかし、本当にそういうランキング指標が必要なのだろうか?みんながランキングなんて話のタネ程度にしか思ってないなら、わざわざ苦労してランキング指標を作る必要はない。

それを聞いて自分の心にしみたならば、ランキングがどうであれそれは良い歌なのだ。良い歌を見分けることができるなら、それが売れたかどうかなんてどうでもいい。けれど、みんな結構わかっていて、良い歌の前には人だかりができるものなのだ。ほとんどの人はそんな感じでランキングを重要視していなくて、一部のバカだけがランキングに一喜一憂しているならば、情報操作が簡単でバカを釣るのが容易な指標の方がむしろ良いということになる。

ランキングをつけるなら、常に「その評価方法でいいのか?」ということを自問自答し続けなくてはならない。そして、時にはルール変更を行って、評価方法を改良し続けなくてはならない。それをしない場合、下の方の評価はわりとあてになるが、上の方の評価はあてにならなくなる。


本当に意味があるのは、人間の目には見えない本質的な価値を上げることであって、目に見える数値を上げることには意味はない。しかし、本質的な価値が測れるようにきちんと設計された数値であるなら、本質的な価値を上げることによって、目に見える数値も上がる。「本質的な価値」が主で、「目に見える数値」は従でしかない。

こう言うと、「いや、そんなことはない。現実にも目に見える数値が1位の者だけが総取りになることはいくらでもある」と反論するかもしれない。たしかに、何かのランキングで1位の製品だけが爆発的に売れる、というようなことはよくある。だから、どんな手を使ってでもそのランキングで1位になるようにしなくてはならないと考えるのは、理にかなっている。

こういう場合は、知名度ランキングとか人気度ランキングにするとよい。1位になることで知名度が上がり、知名度が上がったから1位になる。そこに本質的な価値は存在せず、1位であることこそが価値となる。日本の伝統的な価値観では、こういう目に見えるものだけを追い求めるのは下品だとされている。本質的な価値の存在しない、バーチャルな価値では意味がないのだ。本質を見抜けない下種な人間は、バーチャルな価値に踊らされることになる。つまり、「本質的な価値」がわからない人間は、「目に見える数値」を主だと勘違いする。

そういう人が、「一番でなくてはならない」と言う。本質的な価値を損ねてまで、一番になろうとする。そういう人が増えると、見せかけだけの一番に埋もれて、本当にいいものが見つけにくくなる。


評価は、上げるものではなく上がるものだ。一番を目指すのではなく、上を目指しているうちにいつの間にか一番になるのだ。ある物が1位になったからって、その物の本質的な価値が上がるわけじゃない。なんかのランキングで1位になったときにお祝いをしたくなる気持ちはわかるが、それはあくまで人間の気持ちの問題でしかないことをしっかりと認識しなくてはならない。本当のお祝いは、1位になったときではなく、その物が完成したときにすべきなのだ。

そして、1位になったということで話題にするのではなく、その前に本質的な価値を持っているものを見つけて話題にするのが、本当の情報通なのである。