現実への信頼

リアリティとは、視点を自由に動かせるということだ。

ゲームとか小説とかで、リアリティが重要だとよく言われる。しかし一方で、リアルにすれば面白いのか?という疑問もよく聞く。リアリティが今回のテーマだ。


わかりやすいように、ゲームの話をしよう。リアルに作ればゲームが面白くなるんだろうか?という問いは、発想が逆だ。ゲームをリアルに近づけるんじゃない。リアルをゲームに落とし込むんだ。

つまり、現実に面白いものを持ってきて、それをゲームにするのだ。自動車レースが面白いからレースゲームを作る。飛行機の操縦は面白いからフライトシミュレータを作る。会社の経営が面白いと思ったら経営ゲームを作る。戦争が面白いと思うならウォーゲームを作る。

じゃあ、現実ではないけれど面白いものを持ってきたっていいじゃないか、そうすれば別にリアルでなくってもいいんだろ?と思うかもしれない。ある意味、その通りだ。しかし、「現実ではないけれど面白いもの」をどうやって見つけるんだ?できないとは言わないが、むちゃくちゃ難しいぞ。それよりは、現実に生きていて面白いなぁと思ったことを見つける方がずっと簡単だ。

リアルをゲームに落とし込む過程で、もちろん省略や強調はある。誰も、すべてがすべてリアル通りなのがいいと言っているわけじゃない。むしろ、リアルの中の面白い部分だけをうまく抽出することが必要だ。ゲームを「リアルに作る」というのは、リアルな要素を追加することじゃない。足すんじゃなくて引くんだ。完全にリアルな現実世界から、不要な部分を引いて面白い部分だけを残すのが、リアルに作るということなんだ。


では、現実世界の面白い部分とはいったい何だろうか。現実世界に対しては、我々は次のことを期待する。

  1. 現実世界は遠くから見ると単純で、近くで見ると複雑だ。どちらの要素も備えている。
  2. 思いもよらないような戦略を取ることができ、それによってバランスが取れている。

現実をベースにゲームを作る場合、そのゲームでバランスが取れていないなら、それは現実の中の何らかの要素をゲーム中に再現できていないせいだ。一方的に強い戦略が見つかったなら、現実でそれをやってみたらどうなるかを考える。現実にはそれではうまくいかないはずだ。そこまでわかれば、あとはなぜうまくいかないかを考え、それがゲーム中にも反映されるようにゲームに要素を追加する。このように考える限り、ゲームバランスを収束に向かわせることができる。

つまり、まったく新しいものを作るのではなく、既にあるものを観察して真似ればよい、というわけだ。もちろん、どこを観察してどう真似るかというのはその人の独創性が出るところである。このとき、「遠くから見ると単純で、近くで見ると複雑」という特徴が有利にはたらく。複雑な現実をすべて間違いなく真似できなければ破たんするということはなく、ところどころ省略しつつ単純化してもそれなりにうまくいく。


現実の持つ無限の広さを忘れてしまい、型にはまった考え方しかできなくなってしまっている人がたまにいる。そういう人は、「何もない退屈な現実」に何か面白い要素を足すことで、面白い何かを作ろうとする。

たとえば、現実世界に魔法とか異星人の超技術とかがあったら面白いんじゃね?と考える。これは考えの方向が逆だ。魔法や異星人というのは、何かを足すための機構じゃなく、引くための機構だ。説明するのが面倒くさい複雑なことを「魔法」の一言で片づけるためのものであり、アメリカや北朝鮮が攻めてくるという設定にしようとするといろいろと社会情勢を考えなくてはならないから、それをごまかすために異星人が攻めてきたことにするのだ。

つまり、魔法や超技術というものは省略と単純化の技法であり、それはもともと現実にある要素を切り取っているだけに過ぎない。たとえば、異界の怪物が攻めてきて少年少女が戦う話を「現実にはないから面白い」などと言っている。世界を見渡せば、少年少女が現実に銃を持って殺し合いをしてるところなんていくらでもある。現実がシビアすぎるから異界の怪物というオブラートに包んであるというのに、そのオブラートに包まれたものを「現実と違ってシビアだ」と言う。

そもそも、現実が「何もなく退屈」だと思うこと自体、見る目が足りない。そういう見る目のない人が考えた「面白い要素」なんて、たかが知れてる。本当に面白いものを作れる人は、「現実は何もなく退屈だと思っている主人公」は登場させるが、作り手本人はそうは思っていない。


おそらく、ここまで書いたようなことは彼らもわかっているだろう。どちらかというと、現実は何もなく退屈だと思っているわけではなく、むしろ現実は退屈なところだと思い込もうとしているフシがある。彼らは、現実が無限に広くて面白い場所であることに耐えられず、むしろ狭くて何もない場所であってほしいと思っている。だから、省略と単純化の機構を好み、複雑さや奥深さを匂わせる所には背を向けようとする。

それは、彼らの直面する「現実」がとても複雑で、対処が難しい(と思い込んでいる)場所だからだ。静かな田舎暮らしの人たちはギラギラした照明や騒々しい音楽を求めて街へ繰り出すが、逆に騒々しい都会暮らしの人たちは、静かで何もない場所を求めて田舎へ行く。端的に言えば、彼らは頭をフル回転させるような面白いゲームなんて求めちゃいないのだ。単純に敵をクリックしていけばそのうちレベルが上がってご褒美がもらえるような、そんな単純な世界に浸りたいのだ。

面白いゲームは複雑で頭をフル回転させる必要があるというのは、実は少し違う。本当によくできたゲームなら、適当にやってもそれなりに何とかでき、それを乗り越えた後にはさらに複雑さが待っている。たとえばストIIなんかで、最初はレバーを適当にガチャガチャしながらパンチとキックを連打してそれなりに楽しんでいたのが、だんだん必殺技やコンボなどができるようになって、間合いとかカウンターを狙うようになっていく。

しかし、この「適当にやってもそれなりになんとかなるが、うまくなればまた違ってくる」という特徴を苦手とする人たちがいる。やるからには最適解でなくては気が済まない人だ。そういう人は、逆に表面上は複雑に見えるがわかってしまえば単純なゲームを好む。彼らは、視点に応じて複雑さが変わる無限の複雑さを好まず、しかし裏表のない単純明快さも好まない。複雑ではあるが全部把握できて、それが把握できさえすればスパッと答えが出る有限の複雑さを好む。

現実は、単純明快さも、無限の複雑さも両方持っている。しかし、有限の複雑さはそこにはない。だから、そういう対象を見るとリアリティの欠如を感じる。そして、そういうものを好む人にとっては、リアリティがないからこそいい、ということになる。こう書くと、リアリティを好む人は複雑なものが好きで、リアリティを好まない人は単純なものが好きだと先ほど言ったのが逆になっているように思うかもしれないが、これで間違ってはいない。リアリティを好む人は単純に見えたものが実は複雑だと喜び、リアリティを好まない人は逆に複雑に見えたものが実は単純だと喜ぶのだ。


リアリティがないことを好む人には、現実に対する不信と不安がある。現実世界は、必死になってもがき続けないと沈んで死んでしまうと思っている。実際は、現実世界はそれほど厳しい場所ではない。少なくとも、現実から逃避して萌えアニメばっかり見ていてもなんとなく生きていける程度には。

しかし、現実というやつは、スパッと単純明快に割り切れるものではない。だから、細かな差異を無視してバッサリと要約し単純化することができない人にとっては、辛いかもしれない。単純化ができない人は、何でも最適解でなくては気が済まず、何かを買う場合にはどの機種がいいかを徹底比較し、ネットで1円でも安い店を探し求める。そうやって疲れ果てたあげく、現実みたいな疲れる場所よりリアリティのない空想世界の方がいいと言い出す。

疲れたんならネットもテレビもケータイも放り投げてもっとゆったり過ごせばいいじゃないか、と思うかもしれないが、彼らにはそれができない。彼らには情報がないことに対する不安があるからだ。きちんと詳しい情報を手に入れないとこの世の中を渡っていけないと思っていて、情報から隔絶されると不安を感じる。そういう人に対して「勘と度胸で世の中を渡っていく術を身につけなくてはならない」と言うと、今度は反対に、「リスクを取る」とかなんとか言って何の情報もないまま猪突猛進を始める。

問題はもう少し根本的な所にある。まずは大まかな情報を手に入れ、そこから必要な部分だけ細かい情報を手に入れることが重要なのだが、それをするには自分でどんな情報を手に入れるかを決める必要がある。彼らは自分で情報を手に入れることができないのだ。流れてくる情報を受け止めることしかできない。自分で視点を自由に決めることができないというところが、根本的な原因なのである。


さて、リアリティとは何か。遠くから見ると単純なように見えるけれど、近くで見るとそこに複雑なものが隠れていることを発見できるもの。自分で視点を自由に設定でき、どこに視点を置いてもそこに適度に何かが見える。それがリアリティだ。

RPGで言えば、街に立ち並ぶ家に自由に入ることができて、そこにはテーブルも机もタンスもあって、その中には家財道具が入っている。そういうのがリアリティだ。もちろん、ゲームなんかで完璧なリアリティを出すことはできないから、タンスを開けようとすると「ごめんよ、ここに中身がちゃんと入っているほどには作り込んでないんだ」と言われる。そういうことに多少がっかりしつつも、とにかくリアリティを求める姿勢だけは評価する。逆に、いくら作り込んであっても、決められた場所以外に行くことができないならば、リアリティがないと文句を言う。

リアリティを出すのは大変な作業だが、演繹的に考えれば難しい話ではない。この街にはどんな人が住んでいるんだろう、パン屋や八百屋みたいな食料品店が並んでるだろうな、じゃあパン屋のおかみさんはどんな人だろう、そういう人ならタンスの中に何を入れているかな、と想像力をはたらかせれば次々と設定は考え付く。あとはそれをどこまでやるかの話だ。

逆に、こういう話を作りたい、そのためにはパン屋と八百屋を登場させることが必要で、パン屋のおかみさんのタンスにはこれが入っていなくてはならない、と考えると、リアリティからは遠ざかってしまう。最初にある「話」に視点が固定され、それを膨らませることができなくなるからだ。様々な要素が複雑に絡み合った見事な物語であっても、どうしても作り物感がただよってくる。

ある一点からだけはきれいに見えても、別の視点から見ると薄っぺらく見えるものに対しては、作り物感を感じる。しかし逆に、いろんな視点から見ることに慣れていない人にとっては、これは欠点ではなく利点となる。見る場所が決まっていて、そこから見て「おー、きれいだ」と言ってそのまま立ち去ることができるからだ。


テレビやネットを通じて、様々な視点の情報が手に入る。しかし、視点が一方的に切り替わりながら絶え間なく流れてくるそれをいつも浴びているうちに頭が混乱してしまい、視点がどこか一点にしかない単純なものを見たいと思ってしまう。

情報を受け身で流すのではなく、見たい場所を自分で決めて調べるようにしなくてはならない。そして、常に同じ場所を見るのではなく、いろんな場所を見るようにしなくてはならない。自分で調べた場合は、最初は大ざっぱな話から始めて、徐々に細かい話へと移行することができる。流れてくる情報を受け止めるだけだと、特殊な情報や細かい情報も無関係に流れてきて、それを全部受け止めるのに疲れてしまう。

まずは細かい点にこだわらず、概要をつかむようにする。現実では、多くの場合は概要で事足りる。現実は、様々な要素が複雑に絡み合ってはいるが、どこか一つが抜けるととたんに全部が崩れ落ちてしまうようなヤワなものじゃない。その逆で、どこかが抜けるとその穴が別の要素によって巧妙にふさがるようにできているのだ。

現実が本当にそういうものなのかどうか、根拠はまったくない。しかし、そういうものではないという根拠もない。そんな中で、現実はそんなに脆いものではないと勝手に思う。それが現実への信頼であり、そう思えないようになると、とたんに現実は辛いものになってくる。