細切れにされた文章

他人の文章をしっかり読んでいないのではなく、読むことができないのだ。

ネット上で、誰かの発言に対する反応を見ていて、違和感を感じることがいくつかある。本筋とは関係のない一発ギャグに対して過敏に反応したり、本文に書いてあることをわざわざ質問したり。要するに、元の発言をちゃんと読んでないんじゃないかと思われるのだ。

これを「文章をちゃんと読んでないのが悪い」で済ますのは簡単だが、どうもそれだけではない、もっと根本的な問題をかかえているようだ。


文章をちゃんと読んでないように見えるこの手の事例は、彼らが「文章を読む」ということを次のように処理しているのだとすると、とても納得がいく。

  1. 文章を最初から1文ずつ読み込み、意味を解釈する
  2. 意味が解釈できないなら、それはノイズとして破棄する。
  3. その1文が正しいなら、それを頭の中にインプットする。
  4. その1文が間違っているなら、捨てる。あるいは、どこが間違っているかを指摘する。

文章を、頭から1文ずつ処理しているのがミソだ。最初に読んだ文の意味がよくわからない場合、2番目の文と組み合わせると意味がわかるようになっていても、最初の文の意味がわからない時点で捨てられてしまうため、2番目の文の意味もわからず、やっぱりこれも捨てられてしまう。

この処理方法に従うと、結局、自分が「正しい」という判断をした文以外はすべて捨てられてしまうことになる。それが、他人の発言をちゃんと読んでいないとか、自分の意見以外は認めないという態度に見えてしまう。


自分に発言の機会がある場合には、こうやって読んだ文章に対して、一文ずつ自分の解析結果をつけたものを「自分の発言」として返すことになる。元の文章を1行ずつ引用し、その下に「この文は意味不明」とか「これは××なので間違っている」とか「ここだけは正しい」というような注釈がつけられる。

このことは、最初から意見の相違がある文章の場合に特徴的となる。元の文章が「Aである。だからBである。そうなるとCとなるからDが正しい」という構成で書いてある場合、普通なら

この人はAであるという前提で話をしているが、実際にはAでないことのほうが多いので、現実には成り立ちません。Aであると仮定したなら、たしかにBとCは言えるかもしれませんが、たとえそれでもDまで言えるかというと微妙だと思います。

というように反論を書くところが、

>Aである

Aではありません。

>だからBである

だからBでもありません。

>そうなるとCとなるからDが正しい

CとはならないのでDも正しくありません。同じ間違いをいったい何度繰り返すんだ。

という感じになる。そして最後に「長々と書いているがどの文も間違っている」というような批判の言葉がついたりする。こういう人は、(もし元の文章が間違っているとして)間違っているのは最初の文だけだということがわからないのだ。

普通の人は、最初の仮定が間違っているとしたらその後は意味がないから読まないか、あるいはその人の仮定に合わせて以下の内容を読む。言い換えると、書いた人の仮定に合わせて文章を読まないことには、文章を読む意味がない。しかし、こういう読み方をする人は、いったん「間違っている」と認識した文は捨ててしまうため、「それが正しいという仮定で以下を読む」ということができない。


逆に、元の文章が「Dである。それはCだからだ。なぜそうなのかというとBが成り立つからであり、それは結局のところAだからなのだ」という構成で書いてあると、彼らは混乱して、こんな風になってしまう。

>Dである

なんでそんなことが言えるんだよ。Dのわけないじゃん。

>それはCだからだ

だからCでもないってば。

>なぜそうなのかというとBが成り立つからであり、

だから、なんでBが成り立つって言えるわけ?この人、勝手な決めつけが多すぎ。

>結局のところAだからなのだ

なんだ。結局Aだって言いたいだけなのね。そこはわかってるのに、なんでここまでデタラメな話ばかりになってしまっているのかなぁ。

結論から先に書くというやり方は、話をわかりやすくするためによくやる手法だ。しかし、結論をとりあえず受け入れてもらうことが必要になる。それができない人は、かえって混乱してしまう。


同様のことが、文章単位ではなく、単語単位で起きている人もいる。この場合、意味のわからない単語を読み飛ばして、わかる部分だけつなげて読むということになる。より正確に言うと、読み飛ばされた単語は、意味を持たない単語として扱われる。そうなると、次のようなやりとりになってしまう。

>推定無罪の原則に従えば、彼は今のところ無罪として考えなくてはならない。

推定有罪の原則に従えば、彼は今のところ有罪として考えなくてはならない、とも言えます。

何を言っているのかわからないかもしれないが、「推定無罪の原則」という言葉を単語Xに置き換えて、「Xに従えば彼は今のところ無罪だ」という文だと読んでしまったということだ。だから、「非Xに従えば彼は有罪だ」とも言える、と勘違いしてしまう。

もう少し広く言うと、彼らは、文の正しさを形式だけで判断していて、「AがBでありBがCであるならAはCである」という形式の文になっていれば、AとBとCにどんな単語を入れても成り立つと思っている。だから、相手の言ったことの文体をそのままに言葉だけを勝手に入れ替えて自分の主張に合う文にすると、相手はそれに納得するんじゃないかと思ってしまう。

まともな人にとってみれば、ものすごく奇妙な話であり、そんな奴はいるわけないと思うかもしれない。しかし、そういう人は実際にそこそこの割合でいる。


ネット掲示板、あるいは今流行りのtwitterなどでは、すべての発言が2,3行ごとに細かく区切られている。そんな場では、多数のゴミの中から有用な発言だけを素早く拾い出す技術が必要になる。まとまった文章についても同じような読み方で読んでいるのだとすれば、以上のことには納得がいく。

彼らは、情報の洪水のただ中にあって、得られた情報をきちんと検討する時間がない。細切れの文章を次々に見せられて、それらをすばやく「良いもの」と「ゴミ」とに分類する作業をしている。それを繰り返しているうち、まとまった文章を読むことができなくなってしまう。よくわからない部分を無意識のうちに捨ててしまい、わかる部分だけを自分なりにつなげて読むようになってしまう。

本当に重要なことは、その「よくわからない部分」にある。それに気づくことすらできないということが、一番の問題なのである。