生きる権利

「生きる権利」は、あったりなかったりするものではない。

私が子供の頃は、「じゃあお前は死ねと言われたら死ぬんか」と言い返すのが常套手段だったが、今でもそうなんだろうか。というのは、なんか最近、死ねと言われたら死んでしまいそうな人が増えている気がするのだ。

「生きる権利」というのを、生まれながらにして誰もが持っているごく当たり前のものとして考えることができない人が、ちらほら見受けられる。まるで、コンサートのチケットか何かのように、「生きる権利」を買うものだと思っていて、それを買っていない人は「ほらほら、チケットを買ってない人は見る権利はないよ。出ていきな」と言われるようなものだと思ってしまっている。

英語のrightに「権利」という漢字を当ててしまったせいで、利権のようなものだと勘違いされているということをどこかの偉い人が言っていたが、まさにその通りだ。もともと、rightは「正しい」という意味なのであり、「生きる権利」とは、「生きることは正しいことだ」というような意味である。正しいことを「俺は正しいんだ」と主張するのが、権利である。


人間、「死ね」と言われて死ぬバカはいない。死ぬくらいなら、強盗だって何だってやる。それは人間として当たり前のことであり、それは非難されるべきことではない。いや、もっと正確に言えば、非難することは無意味だ。それは結局、「強盗をやめて死ね」と言っているのと同じことなので、「死ねと言われて死ぬバカはいねーよ」で終わりになってしまう。

そうではなく、強盗をしなくてもとりあえず生きることはできるようにしなくてはならない。だから、様々な公的支援や生活保護の制度を整備する。その上で、「強盗なんてしなくても、これをすれば生きていけるよ」と説得する。そうでなければ、まったく意味がない。

「生きる権利」も、「自由」も、「幸福を追求する権利」も、何かの対価を払ってはじめて得られるものではないし、法律か何かで決めた結果生じるものでもない。人間がもともと持っている、当たり前の欲求を指しているものだ。だからこそ、憲法に書いてある。国が自分たちを縛るものではなく、自分たちが国を縛るものとして、である。


「生きる」ということを誰しも持っている当たり前の権利だと思っていない人は、「生きること」に対する正当性を証明しようとする。「私は○○だから生きるに値する」と言う。そういう人は、その○○がなくなった時、「私って、死んだほうが世のためなんじゃないかな」と言い出す。そういう奴には、「あなたの思っている通りです」と答えてやれ。

皆から「お前なんか死んでしまえ」と言われ続けても、「死ねと言われて死ぬバカはいねーよ」と言ってアカンベーする人の方が、人間的にはまともだ。もし本当にそいつは死んだほうがいいのなら、「死んでしまえ」と言うような無駄なことはせず、額に鉛弾をぶち込め。それ以外の方法では、他人の生きる権利を剥奪することはできないのだ。

これは、「人の言うことに従わない自由」を誰もが持っているということでもある。生きる権利をチケットだと思っている人は、この意識もまた薄いようだ。自由も生きる権利と同様、人間が生まれながらにして持っているものなのだが、それをチケットを買うことで得られるものだと思ってしまっているからだ。


最近、「規範意識の欠如」が大きな問題として言われるようになってきた。この言葉は、2つの違う意味を持っている。

人の迷惑を考えず、自分のやりたいようにやるという人が、一つめの「規範意識の欠如」だ。これが問題なのは言うまでもないだろう。しかしその反対に、「自分のやりたいようにやれない」人が増えてきている。これもまた、規範意識の欠如である。

そういう人は、規範意識というのを、単に「ルールに従う」ということだと思ってしまっている。行いの正しさを自分で判断することができないから、ルールに「死ね」と書いてあったら、「こんなルールは間違っている」と言うことができず、そのまま死んでしまう。

困ったことに、自分のやりたいようにやった人は刑務所に入って反省することができるが、自分のやりたいようにやれない人は、問題なのは自分だということに気がつくことができない。