RPGとやり込み

ゲームの「やり込み」は、単に「やる」のとどう違うか。

今回はお題をいただいたので、単刀直入に「ゲームにおけるやり込み」について書く。「お前はなんでいきなりこんなことについて語ってるんだ」と思われるかもしれないが、今回は誰かの質問に対する答えだけを書くという形になっていることをご了承いただきたい。

「やり込み要素満載」というようなゲームの宣伝文句をよく見る。「やり込み」という言葉が使われるようになったのはいつ頃からだろう。「やる」と「やり込む」の違いについて考えてみると、昔はこんな言葉がなかった理由もわかってくる。

昔は、「やる」と「やり込む」の違いは、単に量の問題だった。たくさん「やる」のが「やり込む」だった。しかし、いつからか、「やる」と「やり込む」の間に質的な違いが生じ始める。そして、「やり込む」という言葉に、「普通の人はやらないようなことをやる」というニュアンスが含まれるようになった。


シューティングゲームなどのスコアアタックやタイムアタックは、単に上手いか下手かの違いだけのように見えるが、一つ違いがある。それは、「クリアする」ことを目的としていない点だ。もし、ゲームをクリアすることが目的であるとするなら、「クリアするための確率を最大限にする」プレイが実行される。弾はできるだけ大きく避け、ちょっとでも難しい場所ではためらわずにボムを使う。しかし、スコアアタックでは、多少の危険を冒してでもスコアを狙いに行く。

このことは、ゲーム中の判断をより複雑にする。中盤までノーミスで行っているときの緊張感や、どこで稼いでどこで安全策を取るかといった判断は、とても面白い。しかしその反面、最初でうまく行かなかったらリセットするという、いわゆる「捨てゲー」になってしまうこともある。リスクと交換するものは時間でしかないため、極端に暇がある人にとっては、スコアアタックは成功確率が低い行為が成功するまで延々とトライするだけのものになってしまう。

通常のゲームでは、ゲームスタートしてからゲームオーバーになるまでが1つのゲームであり、「やり込み」では、同じゲームが繰り返しプレイされる。そして、ゲームを遊ぶ側も、次があることを前提としてゲームを遊ぶ。


シューティングゲームのスコアアタックなどは、一般に「やり込み」と呼ばれているが、実際は「やる」に近い。中盤まで奇跡的にうまくプレイできた場合、ある種独特の緊張感が生まれ、これこそがスコアアタックの醍醐味の一つだからだ。「こんなにうまく行っているのに、ここでミスしたら水の泡だ」と思いながらプレイするのは、「もう次はないかもしれない」と思いながらこの一瞬に賭けてプレイすることであり、先に挙げた「やり込み」の定義の逆となる。

同じゲームを何度も繰り返し遊ぶと、だいたい問題なくクリアできるようになり、ゲームの緊張感が薄れてしまう。「やる」が「やり込む」になってしまう。こんな時、そのゲームは飽きたから終わりにして他のゲームをやるのが普通だ。しかし、スコアアタックやタイムアタック、ノーミスクリアといったようにゲームに制限を設けることで、緊張感が戻り、「やり込む」状態になってしまったゲームを「やる」状態に戻すことができる。


さて、ではRPGではどうだろうか。RPGは、アクションゲームなどとは違い、あまり反射神経は要求されないし、途中でセーブしてやり直すことができる。だから、「ここでミスしたら水の泡」みたいな緊張感はない。(ローグ系のゲームは例外で、それがローグ系の人気の秘密でもある)

では、RPGの「やる」と「やり込み」の違い、言い換えると1周目と2周目の違いは何だろうか。これはずばり、「隠された情報を知っているかどうか」である。RPGの2周目では、どこにどんな武器があって、どこの敵がどのくらいの強さなのかということを知っている。そして、そうしたことを知っているという前提で作戦を立てる。こういうことを知らずにプレイする1周目とは、まったく別のゲームであると言ってもよいくらいだ。つまり、攻略本を見てからやる、あるいは自分で攻略本を作れるくらい知識をつけてからやるのが「やり込み」である。

だから、追加シナリオや隠しダンジョンのように、「プレイヤーが知らないところへ行く」場合には「やり込み」ではないし、縛りプレイ(低レベルプレイや特定のアイテムを禁止するプレイ)は「やり込み」である。レベル上げやお金稼ぎもやり込みだ。

マップに散らばる何か(小さなメダルなど)を収集することは、多くの場合、マップもそこに出る敵もよく分かっている状態でマップの隅々まで移動することになるから、「やり込み」である。ただし、普通にやったのでは行けない場所にある場合や、「こんなとこにどうやって行くんだろう」と思うようなところにアイテムがある場合は、プレイヤーに新しいことをさせようとしているわけなので、やり込みではない。

アイテム収集の場合、プレイヤーがまだ知らないアイテムに期待しながらプレイする場合はやり込みではなく、「このアイテムが欲しい」と、あらかじめ攻略本などで情報を得てからそれを目的にプレイする場合はやり込みである。ただ、いくらまだ知らないアイテムに期待しながらといっても、同じ敵をルーチンワークで何度も倒すというのであれば、それはやり込みの部類だ。


さて、今までの話をまとめよう。「やる」と「やり込み」の違いは、「やる」場合には今やっているゲームのことだけしか考えていないのに対して、「やり込み」の場合には同じゲームを何回もやってきたし、これからもやるであろうことを想定しているということだ。つまり、ゲームを「ゲームスタートしてからゲームエンドになるまで」として捉えるのではなく、ゲームスタートとゲームエンドが延々と繰り返される、終わりのない時間の流れとして捉えることだ。

昔は、「やる」と「やり込む」は、やる回数以外に違いはなかった。どのプレイも、コインをかけた真剣勝負だった。しかし、ゲームが大衆化し、だらだらとできるようになると、「やる」と「やり込む」に違いが出てくるようになる。

「やり込み」には2種類ある。ゲームを漫然とただ繰り返すものと、何かを追加することで、今までのゲームとは違う新しいプレイをしようとする試みである。後者は、その試みによって別のゲームに変化するわけだから、厳密な意味での「やり込み」ではない。

RPGの場合、もともとゲームスタートからゲームエンドまでの期間が長いので、アクションゲームと同じ定義で考えると、微妙に違った感じを受けてしまう。しかし、プレイの一瞬一瞬が「二度と来ないその場限りのもの」と考えるか、「同じことの繰り返しの中の一つ」と考えるかが「やる」と「やり込む」の違いであると考えると、納得がいくだろう。


以上の話で、「何か、『やり込み』という言葉の普通の使われ方と違うんじゃないか?」とか、「ずいぶん『やり込み』に否定的だなぁ」と思われたかもしれない。しかし、それには理由がある。

「やり込み」というのは、結局のところ、プレイヤーの主観の問題である。普通の人には同じことの繰り返しにしか見えないことでも、やっている本人にとっては違うかもしれない。その場合、話し手は聞き手に合わせて「やり込み」であると説明するが、本当はそうではない。

話がややこしくなるのは、やっている本人も「同じことの繰り返し」だと思っていて、それが面白いと思っている場合だ。普通の人は、「同じことの繰り返し」を「面白い」とは思わないから、話が食い違ってくる。「同じことの繰り返しに見えるかもしれないけど、本当はそうじゃなくて面白いよ」なのか、「同じことの繰り返しだから面白いよ」なのか。表面上はどちらも同じように見えるが、区別しなくてはならない。

最近、メーカー側が「やり込み要素」と呼んで、様々な機構をつけることが多くなった。これらは、繰り返し遊ぶことができるようにつけるものであり、しかも残念なことに、そのほとんどは同じことの繰り返しに対して何らかの意味を持たせるような機構である。同じことを○回繰り返すと、アイテムがもらえるとか新しい服が出てくるといったご褒美がもらえる。そして、そのご褒美のために、同じことを何回も繰り返す。これは、真の意味での「やり込み」である。