「こだわり」の誤用

「こだわる」ことは、悪いことである。

最近、「こだわり」という言葉を誤用している人が多いことが気になる。

辞書を引いてみると、「気にしなくてもいいことを気にする」とか「細かいことにとらわれる」とある。語義を見る限り、どう考えても悪い意味の言葉だ。それが、最近、良い意味に使われることが多くなってきた。

「こだわる」ことは悪い事で、「こだわらない」ことは良い事だ。それがどうして反対になってしまったのだろう。


たとえば、「こだわりのそば屋」と言ったとき、どんなそば屋を想像するだろうか。「○○産の厳選されたそばの実を使い、それを石臼で丁寧に手で挽いて……」てな感じのものを想像するのは、皆同じだろう。ただ、その後、「やっぱり手間をかけたそばは味が違うねぇ」となるか、「材料にばかり時間をかけているけど、打ち方もゆで方もまるでなってない」になるか。本当は、後者の意味で使うのが正しい。

原義に従う限り、「こだわり」という言葉は、「気にしなくてもいいことを気にする」かわりに「本当は気にしなければならないところに気が回っていない」ことも意味する。だからこそ、悪い意味の言葉なのだ。そもそも、「気にしなくてもいいこと」なのだから、どうやったって良い意味になるわけがない。

では逆に、「こだわらないそば屋」はどうなるだろう。「○○産の厳選されたそばの実」にはこだわらず、美味しければどの材料も使う。石臼でも機械でもたいして味が変わらないなら、機械で挽くことにしてその分他のところに時間を使う。常に全体を見て、最終的に良くなることは何かと考えることが、「こだわらない」ということなのである。

もちろん、「○○産の厳選されたそばの実」が本当に美味しいのであれば、それを使う。それは「気にしなくてもいいこと」ではなく、「気にしなければならないこと」なので、「こだわり」ではないのだ。


もともと、「こだわり」という言葉は、「全体を見ることができない」という意味である。「~できない」のだから、悪い意味なのは当然である。それが、「細かいところを見ることができる」という意味で使われるようになってしまっている。「~できる」のだから、良い意味で使われる。

本来、細かいところを見るのは簡単で、全体を見るのは難しい。いや、「全体」には、「細かいところ」も含まれているのだから、全体を見るということは、細かいところも見えているということが前提になっている。先ほどのそば屋の例では、美味しいそばを作るためには何をすればいいのかをまず考えて、それがいわゆる「細かいこと」を実行することによって達成できるなら、それをする。これが、「全体を見る」ということなのである。

「木を見て森を見ず」という諺があるが、「森を見て木を見ず」という諺はない。人間は普通、木しか見ることはできない。森を見ようと思ったら、わざわざ高い所へ登って見下ろす必要がある。だから必ず、最初に木を見て、それから森を見るという順番になる。森だけを見て、木を見ていないということはあり得ない。

この仮定が、最近は崩れてきた。細かいことを積み重ねることでようやく全体が見えてくるのではなく、最初から全体を見ることができるようになってしまった。いや、しかし、細部を知らずに見たものがはたして「全体」と言えるのかどうか。それは、木を見ていた人が高い所へ登って発見した「森」とは、別物なのである。


何事にも、「やり始め」→「こだわる」→「こだわらない」の3段階がある。今までは「こだわる」が普通の状態だったのが、今では「やり始め」が普通の状態だと認識されるようになった。そして、「こだわる」の先にある「こだわらない」まで行き着けないようになってしまった。

「こだわらない」は、言葉にできない。「こだわる」人は、「私は○○にこだわっています」と言える。しかし、こだわらない人は「私は何事にもこだわりません」としか言えない。だから、宣伝をしようとすると、「こだわり」が前面に出てくるようになる。「こだわりのそば屋」は、自分のそばのこだわりポイントをあれこれと宣伝することができるが、「こだわらないそば屋」は、一言、「ごたくはいいから、とにかく食べてみろ」としか言えない。

困ったことに、単なる「美味いそば」より、「そば粉にこだわったそば」の方が、食べる方としてはなんとなく興味がわく。「こだわりのそば」というのはたいてい、頻繁に食べたいと思えるようなものではなく、一度食べればもういいやと思えるようなものだ。昔は、一度食べればもういいやと思えるそば屋より、何度でも食べたいと思えるそば屋を大事にしようと思うことができた。しかし今では、あちこちの「一度食べればもういいやと思えるそば屋」で一度ずつ食べるだけでも、食べきれないほどの量がある。そのせいで、本当に美味いそば屋が売れなくなってしまう。

端的に言えば、「美味しいものを食べたい」ではなく、「変わったものを食べたい」になってしまっているということだ。「美味しい」ということは、見分けづらいし、人に伝えるのも難しい。それに比べて、「変わっている」ということは、インパクトもあって、伝えやすいし、わかりやすい。

受け手は、様々な「こだわり」ものを体験することで、広い視野を得ることができる。どんな「こだわり」をも受け入れることが、ある種の「こだわらない」態度なのだ。だから、「こだわったものがいい」と言う。しかし、作り手は、それに応じて「こだわって」ばかりいては、自分の視野は狭いままになってしまう。

「こだわり」は本道ではないということを、まずは認識しなくてはならない。広い視野を持った上で、何をするかを自分で考える。その結果、ある一点に気持ちを集中させることになったとしても、それは「こだわり」ではないのだ。