守れないルール

守れないルールなんてない方がまし。

電車に乗ると「携帯電話のご使用はご遠慮下さい」とアナウンスが入る。なのに誰もやめようとはしない。

自動車に乗ると「制限速度○○キロ」の標識が至る所にある。しかしそれを守っている人などほとんどいない。実際そのスピードで走ったら後ろの人がイライラすること間違いなし。

いったい誰がこんなルールを作ったのだろう。こうしたルールは存在するだけで問題だ。なぜなら「このルールは守らなくてもよい」という認識ができてしまうからだ。それは「ルールなんて守らなくてもよい」につながる危険な認識である。守れなくても、いや守らなくてもよいルールなら、そんなものはない方がいい。


誤解を招かないように電車での携帯電話の使用についてコメントしておかなければならない。「満員電車で携帯電話を使わない」というのは守らなくてはいけない。ペースメーカーへの誤動作の問題だ。携帯電話の電波のパワーは大変強いため、ほとんど密着した状態だとペースメーカーに誤った電気信号が誘導されてしまうのだ。人命にかかわる重大な問題である。

しかし電波というのは逆2乗の法則で減少するから、距離を離せば問題ない。指針では22cmとなっている。東京のラッシュ時ならともかく、少し混雑しているくらいでは隣の人の胸から22cmくらいの距離は十分ある。そういう場合は携帯電話を使ってもいいのだ。

問題は「混雑時には携帯電話の電源を切ってください」と言われても、大多数の人がペースメーカーへの誤動作の問題だと思っていないところにある。だから「かけなきゃうるさくないだろ」とか「メールならいいだろ」と各自が勝手に使用基準を決めて使っている。それが間違っているにも関らず。

この点では広報活動が決定的に足りない。ルールを作るのはいいが、なぜそのルールがあるのかをきちんと知らせないからだ。理由もわからずただルールを作ったから守れ、なんてルールは守れないものだ。


この問題がややこしくなっているのは、ルールを作った方も理由がわかっていないところにある。電車での携帯電話が問題となった初期の頃は「うるさいからマナー違反だ」というのが理由だった。しかしこれは理由になっていない。「携帯はうるさい」というのが問題だったら、「携帯は使うな」ではなく「携帯は静かに使え」になるはずだ。「臭いものには蓋」的精神でとにかく禁止してしまうからおかしなことになるのだ。そしていったん「電車で携帯電話を使うなというルールは守らなくてもいい」という合意が出来てしまうと、携帯電話を使用してはいけない正当な理由があってもやっぱり守られなくなってしまうのだ。

道路の制限速度も同じことだ。「これだけ遅ければどう走ってもまず事故ることはないはず」という速度に設定されている。本当だったら「このスピードを越えたらまず事故る」という速度が制限速度のはずだ。制限速度を守る必要を感じないから、制限速度は守られない。そして、制限速度をオーバーすることが当たり前になってしまうと、30km/h制限の路地を平気で80km/hで走る奴が出てくるのだ。


赤信号もまたそうだ。特に最近「赤信号でぼけっと待っているようではいけない。車が来なければ赤信号でも渡っていい。」というような論調が増えてきたように思う。要するに「ルールは自己判断で時には破っていい」というのだ。

一見正論のように見えるしこれを実践している人も多い。しかしこれはものすごく危険だ。なぜなら、「車が来ないから渡っていい」と簡単に判断する人に限ってよく間違った判断をするからだ。車が来ているのに渡ろうとするからこちらは青信号だというのにブレーキを踏むはめになる。「赤信号を渡ってても事故なんか起こしたことがない」と自慢する人がたまにいるが、それは相手が青信号なのに止まってくれるからだ。相手の権利を踏みにじっているのである。

そもそもの問題は「赤信号は場合によっては守らなくていい」という通念にある。そして「場合によっては」なんて言うと、それぞれが自分の都合のいいように解釈する。その結果、「赤信号は自分の都合が悪い時には守らなくてよい」になってしまう。


ちょっと前まではこの「守られないルール」リストに飲酒運転も入っていた。しかし罰則が強化されたおかげで飲酒運転は減ってきているようだ。人の話を聞いていると、「罰金30万円じゃ、さすがに飲酒運転する気になれないね」という声をよく聞く。

しかし本当のところ、飲酒運転が減った理由は30万円という金額ではない。世の中が「飲酒運転禁止は守らなければならないルールだ」という認識になったのが理由だ。以前だったら「まあいいじゃないか、ちょっとくらい飲酒運転してもさ。」と言われてたのが「飲酒運転になるから電車で帰ります」ときっぱりと断われるようになった。そういう雰囲気が世の中に出来てきたからだ。

実際に飲酒運転は危ない。個人差が大きいとはいっても限度を越して飲んでしまって事故を起こしてしまってからでは遅い。だから一律禁止なのだ。筋は通っている話だから、世間一般が「守らなければならない」という風潮になれば意外と守られるのだ。


「どんなルールでも自分で必要かどうかを判断して必要のないルールだったら守らなくてもいい」というのは正しいように見えるが、これは自分の判断が常に正しい場合にしか正しくない。そして、「自分の判断は絶対に正しい」なんて思い込んでいる人の判断なんて正しいわけがない。結局のところ、ルールというのは各自が個人の判断で守ったり破ったりしていいものではないのだ。自分だけで済めばいいが人にまで迷惑がかかるものだからだ。そして、「どんな状況でも絶対に守れ」と人の行動を制限するからにはそれ相応の理由が必要だし、理由が納得できないルールはあるべきではない。

そういう点で考えると日本はルールが過剰なのではなかろうか。日本では「少なくともこれだけは絶対に守らねばならない」という基準ではなく、「これだけ守っていれば問題は起きない」という基準でルールを作っている。これは、何か問題を起こした時に「ルールになかったからやった」あるいは「ちゃんと事前に禁止してあればやらなかったのに」と言い訳する人がいるからだ。ルールになければ何でもやっていいと思っているのか?こうだからルールというのがやたら増えてしまうのだ。

日本には本当に守らなければならないルールと、こういう言い訳封じのために設定されているルールの2種類がある。前者は守らなくてはいけないが、後者はバカ以外は守らなくてもいい。そして、それは世間のコンセンサスで決まる。「制限速度は守らなくていい」「携帯は使っていい」「飲酒運転はしてはいけない」と。

本当は守らなくていいルールなんてものはあっても意味がないのだからない方がいいのだ。そうすれば、ルールを見た時にいちいち悩まなくてもルールはとりあえず守っておけばすむ。そうでないから、必要なものまで「このルールは守らなくていい」と各自が勝手に判断して問題を起こすのだ。


すべてのルールについて「無条件で守らなければいけないものかどうか」をよく吟味すべきだ。そういうルールはどんな場合にも無条件で守らなくてはならない。そして、そうでないならそんなルールは無くそう。