反知性主義の話

今はむしろ知性主義が行き過ぎた時代

最近、「反知性主義」という単語をたまに目にするようになりました。しかし、この単語を「バカ」と同じ意味として使っている人もちょくちょく見かけて、残念な気持ちになります。

そもそも反知性主義というのは、「知性主義」がもともとあって、その問題がいろいろ顕在化したからこそ出てきた主義なのであって、反知性主義という言葉自体に「知性主義はクズだ」という主張が入っているわけです。それを踏まえずに反知性主義をバカ呼ばわりすると、「やっぱり知性主義はどうしようもないクズだな」となってしまうわけです。


日本には、反知性主義の長い伝統があります。たとえば、キリスト教では、初めに言葉があって、言葉は神と共にあったと教えています。とても言葉を大事にする教えです。神が「光あれ」と言うことによって、天地ができたのです。セックスしたらできちゃった国とはどこか違います。イスラム教も、(法)学者が敬意と尊敬を集めています。中国も長いこと、政治に携わる人を試験の成績で決めていました。

そういえば、中国には本を読みたいがために苦労してインドまで旅をしたお坊さんもいました。そんな仏教も、日本に入ってくるといつの間にか「念仏唱えてればオッケー」みたいになってしまいました。

勘違いされると嫌なので一応言っておきますが、本を読むのが良くて念仏を唱えるのはダメだと言ってるわけではありませんからね。日本はどっちかというと、「技術は目で盗め」とか「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ」といった、言葉(=知性)の否定が好きだ、と言っているだけです。


巷で使われている「反知性主義」という言葉を見ると、どうも2通りの勘違いがあるように思います。一つは最初に述べた「反知性主義」=「ただのバカ」という勘違いですが、もう一つ、反知性主義こそ知性だと思ってしまって、知性主義を「反知性主義」と呼んでいる人がいるように思います。

たとえば、(いわゆる)嫌韓の人たちを「反知性主義」と呼ぶのは間違いです。彼らは、バリバリの知性主義です。なぜかというと、「自分たちは愚民どもが知らない韓国人の悪行の数々を知っている」と彼らは思っているからです。「自分は相手が知らないことを知っていて、だから正しいのだ」という態度こそが、知性主義なのです。反知性主義だったら、「特に証拠も何もないけれど、常識で考えればだいたいわかるだろ」という態度をとります。

安倍総理が経済についてスティグリッツ教授やクルーグマン教授に話を聞くのも、知性主義的です。反知性主義的な人なら、そんな人らに聞いても机上の空論しか出てこない、それより町工場の親父や非正規雇用の労働者と直に会って話を聞くべきだ、となるはずです。

マイナスイオンとか波動エネルギーみたいな疑似科学も、反知性主義的なのではなく、逆に知性主義的です。知性主義的だからこそ、科学に見せかけようとするのです。反知性主義なら、科学はもともとダメだと思っているから、わざわざ科学に見せかけようとはしないはずです。


もちろん、反知性主義がいいというわけではありません。むしろ、反知性というのはアンチテーゼなわけですから、もとの知性より質が落ちるのが普通です。みんな知性主義だという前提があるからこそ「知性も万能じゃないぞ」という意味でアンチテーゼが成り立つのであって、知性主義がないところに反知性主義だけ語り出すと、ただのバカということになってしまいます。

日本では、1990年代ごろから、知性主義が流行り始めました。むしろ、その前はずっと反知性主義全盛でした。金持ちは血も涙もないクズで、貧しい庶民は心が温かい善人、というのが共通認識でした。そしてそれによって、ある種のバランスがとれていました。それが、1990年代ごろから「セレブは有能ないい人で、貧乏人はクズ」という認識が広まってきたように思います。2000年代に「ネット発の新しい知」とか「集合知」みたいな感じで知性主義が席巻し、反知性主義が追いやられて知性主義の悪い面ばかりが残ったのが今なのではないかなぁ、と思うのです。